31_彩果音楽室@2


「みなさん初めまして。ここの音楽教室で講師をやってる彩果さいがつとむです。これからよろしくね。あと、楽器下ろして下ろして」


 お言葉に甘えて楽器を床に下ろす。羽でも生えたみたいに背中が軽くなる。


 彩果さんはフチなしの丸い眼鏡をかけた男性だった。第一印象は「ちょっと押したら折れそう」


 白いポロシャツから伸びる腕は白く細い。白い頭髪をポニーテールに結っているところから、音楽家としてのプライドを感じる。頭髪が自然に真っ白になる年齢には見えないから、染めているのだろう。

 


 米仲の案内を受け、僕たちは受付横の重々しい黒い扉の向こう、広い部屋に入った。アンプやドラム一式などがあるのはこの間のスタジオと同じだが、広さは三、四倍近くある。この絹豆腐は意外に奥行きがあった。


 彩果さんいわく、録音設備も備わっているらしい。土足厳禁なので用意された室内シューズに履き替えた。 

 高校時代の上履きに似ていた。



「まずは簡単な自己紹介をしてくれるかな?」


「じゃあ俺から自己紹介しますわ」


 また、斎藤から始まった。


「なるほど。皆、大学生で音楽初心者。バンドで使う楽器を弾けるようになりたい、と」


 自己紹介がつつがなく終わると、彩果さんの問診が始まった。


「そうです。バンド組んだはいいものの早速道に迷ってしまって」


 田中の意見に米仲以外が頷く。米仲はというと既にギターを取り出し、コードを押さえる練習をしている。米仲はどこでも直ぐに自分の空間にしてしまう。


「皆目標は俺と同じだよ、先生」


「米仲君と同じってことは、まず楽器を弾けるようになって初ライブを成功させてとんとん拍子でデビューして、ビッグになって最終的により多くの人に楽曲を聞いてもらうのを目指してるってことかい?」


 躊躇ちゅうちょなく宣言する米仲の姿が目に浮かんだ。恥ずかしさも叶わなかったときの保険もなく言い切っていた。僕も同じ理想を持っているけど、彩果先生に打ち明けるには時間が必要だっただろう。



「米仲、ビックマウスやな」


「米仲らしいね」


 斎藤たちは米仲の言葉を笑った。夢を冗談だと思っているようだった。


「俺は本気だぜ。ツギハギロックは世界に知れ渡る」


 低い単音を米仲は鳴らした。自信に満ちた音だ。


「それじゃあ、みんなの現状を知りたいから軽く弾いてみてもらっていいかな。好きな場所使っていいから」


 彩果さんは広さを示すかの如く両手を広げた。しかし、僕には言うべきことがあった。


「彩果先生、それは無理です」


「えー、カケル君であってるかな?」


「悟です」

 そういう間違われ方は割とよくある。


「ごめんごめん。最近物覚えが悪くてね。それで悟君、何で無理なんだい?」


 彩果さんは右の人差し指で眼鏡を上げた。少年マンガの頭脳派キャラの仕草だ。


「それはですね」

「僕たちが楽器を全く弾けないからです」


 彩果さんはポカンとした表情を浮かべた。事実を言うのはある種の快感を孕んでいる。内容 如何いかんに関わらず。


「そうなのかい? 全然? 全く?」


「はい。出そうと思えば音はでますが、曲は弾けません」


「悟の言う通りです」

 斎藤も自白する。


「俺は歌えます」

 鈴木が売り込む。



 そうなのである。僕達はあの後、二回ほどスタジオで数時間練習したのだが、殆ど何も身につかなかった。各自持参した教本を読み実践したものの

「はたしてこれであっているのか」

 という疑問がぬぐえず、英和辞典を放り投げるように教本をポイし、ラーメンを食べて帰っていた。


「今度先生なる人物にコツを教えて貰えばいいか」と、思っていたことは否定できない。



「私はてっきり、練習してきてつまづいた場所があるのかと」


 彩果さんは顎に手を当て考える人になった。薄い唇を赤い舌が一度舐めた。悩んでいる人の頭へ悩みの種を追加で植え付けるのは気がひける。


 しかし「隠すのが一番の悪手だった。私達はそれをやってしまった」と性能偽装が発覚した大手企業の社長も言っていた。ここは推して参る。


「彩果さん」


「ん、何だい?」


「あと僕達楽譜読めません」


「俺は歌詞が覚えられない」


 鈴木が便乗する。


 被虐的な快感を得ている僕とは対照的に、彩果さんの顔には陰りが見えた。

 それは僕達がよちよち歩きも出来ない初心者だったことに対してじゃない。僕達の出来ない、読めないに相応の努力の影が見えなかったからだ。


 それは自覚している。努力した末に頼るのはいいが、はなっから当てにされるのはやっぱり愉快じゃないだろう。


「そうか。わかった。全部まとめて面倒みるよ。安心して」


 彩果さんは陰りを微笑みで上書きした。ストレスの対処法に親しみを覚える。胃腸に穴をあけるタイプの人だ。


「まずは楽譜の読み方からやろう。それから実技だ」



 □



「お疲れ様。ここから一時間はお昼休み。この部屋で飲み食いしていいからね」


 彩果さんはオタマジャクシが書かれたホワイトボードを壁際に追いやる。時刻は十一時三十分。約一時間弱の座学を終えランチの時間がやって来た。あっという間だった。


 彩果さんの教え方は分かりやすく丁寧で、蘊蓄うんちくが高頻度で入るのも面白かった。欠伸は一回も出なかった。


「お昼買ってない人がいるなら、この建物を出て左に進むとコンビニがあるからそこで買うといいよ。ちょっと歩くけどね」


 僕達が来た道と反対に進むのか。朝食は食べたがお昼は買ってきてない。何で道中のコンビニで買わなかったのか。想像力がまるで足りない。

 大学生になってフットワークが軽くなったのは脳味噌がその分縮んだからなのかもしれない。


「悟、昼飯持ってきたか?」


「ううん。持ってきてないよ。斎藤君は?」


「朝飯はさっき食ったけどお昼の分は買ってへんわ。みんなはどうや?」


 肯定の声は無し。彩果さんが扉から外へ出ていった。


「よし! ならじゃんけんだ! 買い出しじゃんけんしようや!」


 斎藤が一人でテンションを急上昇させている。


「斎藤、買い出しじゃんけんって、要するにパシリ?」


「そうとも言うな。負けたヤツふたりが勝者の昼飯を買ってくる。お金は後払いで」


 斎藤は田中の問にサクッと答える。

 パシリか。遠き日を想う。


「じゃあいくぞ。出さなきゃ負けよ、じゃん、けん」






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