ゆるやかな夏
紫
1.stranger
ある年の夏、父方の祖父が亡くなったので、私は両親とともに田舎へ帰ることになった。父の実家であり、祖父母が暮らしていたその家は、都市部から車で2時間かかる町にあった。私は父の運転する車の後部座席で揺られながら、見渡す限りに広がる畑を鬱陶しく思いながら眺めていた。暑さのために開けた窓から聞こえてくるのは、蝉の鳴き声とタイヤが砂粒の多いアスファルトを走るときに鳴らすあの音だけだった。車内からは、父と母のお気に入りだったビートルズの曲が流れていた。題名は覚えていない。私の知っていたのは、その曲がただビートルズの楽曲だということだった。
朝方自宅を出発して、着いたのはお昼すぎのことだった。今夜、祖父の通夜が開かれるということで、父の実家には黒い服に身を包んだ知らない大人たちがたくさん出入りしていた。父と母は、祖母や集まった親戚と話していた。私は到着してすぐ、祖母に挨拶されたが、それ以降誰からも話しかけられないでいた。話しかけられない原因は、私が高校一年生という年齢であることや、私が彼らを知らないように彼らも私を知らないこと、あと単純に私が人とあまり話さない性格の持ち主であることがあげられるだろう。つまり、放っておいても大丈夫なやつと認識されていたのだ。
私は生まれてから祖父が死ぬまでの間、この家に来たことは数えるほどしかなかった。父と祖父の中があまりよくなかったからだ。「あいつと血がつながっているのはただの偶然なんだ」、これが父の口癖だった。酒に酔うと父はよくそういうことを口にした。私は、あまりそういう父の姿が得意ではなかった。子どもの私には、親と子の関係を明瞭に定義することがある種のタブーに思われた。そのため、祖父母の家は私にとって父の生まれ育った家、それ以上でも以下でもなかった。
父の実家に来たのは五年ぶり。外の景色は以前来たときと少しも変っていなかったが、家の中はかなり荒れ果てた様子になっていた。祖父が死んで、色々と忙しかったのだろう。家の中は、誤魔化しきれないゴミや散乱したモノが目に付いた。私はやることもなかったので、居間の隅に座って持ってきた小説を開いた。しかし、ページを開いただけで、内容は一つも頭に入ってこなかった。人の話し声や、蝉の鳴き声、それから暑さが私の集中力を奪っていた。私はそれでも、ページから顔を上げることはせずに、その態勢のままでいることにした。
「あの子、どこに行ったのかしらね」
「放っておきなよ。今は一人でいさせてやりな」
「でもねえ、大丈夫かしら? あの子、和茂さんのこと随分慕っていたらしいじゃない」
和茂というのは祖父の名前だ。居間の中央で交わされている四十過ぎくらいの女性二人の話に、私は知らないうちに聞き耳をたてていた。
「これからどうするのかしらね」
「久子さんだけじゃ育てるの厳しいんじゃない。この前畑で腰を痛めたそうよ」
「年金だけで生活していくのもねえ。あの子まだ中学生でしょ」
「誰かが援助でもしてあげないと」
「どこの家もそんな余裕はないわよ」
どうしましょう、と形だけ心配するような声音でその会話は途切れた。どうやら、テレビでワイドナショーが始まったかららしい。先ほどまでの空気とは打って変わり、見知らぬおばさんたちは芸能人の不倫騒動について熱く語り始めた。おばさんたちだけでなく、彼女たちより少し年上らしき男性三人も、同じ内容についてあれこれ自説を開陳していた。私はその間もずっと小説に書かれた文字を追っていたけれど、意味を拾うことはできなかった。私にとってその時間は苦痛でしかなく、場所を移動しようか迷っていると、台所の方から母の呼び声が聞こえた。
「どうしたの」
台所には、母の他に若い女性が二人いた。父と祖母はいつの間にかいなくなっていた。母は何か料理を作りながら、私の方を向き、申し訳なさそうな顔で頼み事をしてきた。
「徹、ちょっと悪いんだけど、向こうの縁側にいる子とお話ししててくれないかしら?」
「なんで?」
「話せば長くなるの。徹と年の近い男の子だから仲良くなれる思うわ。母さん今手が離せないから、お願い」
事情がよくわからなかったが、母の言っている男の子とは、さっきおばさんたちが話していた子のことだろうというのは検討がついた。私は暇を持て余していたので、母の横暴な命令にも従うことにした。
「わかったよ」
「聞き分けのいい子で助かるわ。ありがとう」
私は台所を出て縁側の方へ向かった。以前訪れたときの記憶を頼りに家の中を歩いた。廊下に隣接している和室を抜けると、夏の景色とは対照的な暗い雰囲気を感じた。足を庭の方に投げ出しながら座っている少年がいた。白いTシャツに七分丈のズボンを履いている。こちらを背にしているために、顔色を窺うことはできなかったけれど、その代わりに肩まで伸びた綺麗な黒髪が目に入った。
どうやって話しかけようか迷った。話しかけ辛かったが、母の頼みを引き受けた手前、そのまま引き返すわけにはいかなかった。引き返したとて、何かをするわけでもない。少し息を吸って、私は少年から一人分の間隔を開けて縁側に腰かけた。
「こんにちは」
挨拶をして、少年の顔を覗き見た。高く綺麗な鼻筋に長い睫毛、引き結ばれた細い唇。息を呑むほど美しい横顔だった。吸い寄せられた私の視線に、少年はちらと横目を向ける眼差しで答えた。しかし、少年はすぐに視線を元に戻してしまった。重苦しい沈黙が流れる。また、どうしようか、と思った。会話を拒絶してくる相手に対して、それを無視して話しかけられるほど、私は図太くなかったし、優しさも持ち合わせていなかった。私は少年の隣に座ったまま庭を眺めた。
池のある庭。池の先には道路があり、さらにその先には畑があり山があった。この家と外を区分けするものは何もなかった。この家に限った話ではなく、家と外の区別がないのはこの田舎の特徴だった。蝉の鳴き声が聞こえる。池には何もいないようだったけれど、綺麗な水が張っていて、日差しが反射して眩しかった。道路の方は人通りがなく、森の方は暗くて先が見えなかった。私は森の木々に何千何万もの蝉が張り付いて大合唱をする様子を想像した。自分の想像したその光景に、私は吐き気を催してしまった。
吐瀉物は込み上げてこなかったが、胃が痙攣して酸っぱいものが口の中を満たしていた。また咳き込んでしまった私に対して、それまで重く閉ざされていた少年の口は初めて開いた。
「大丈夫ですか」
声をかけられたものの私はすぐに返事をすることができなかった。片手を少年の方にあげて、大丈夫だと身ぶりで示し、私は自身の胸をさすりながらこの感覚がおさまるのを待った。その間、少年はこちらの方を見ていたが、視線の意味は心配というよりも不安が優っているようだった。私は、ひとつふたつと息を吸い込んで吐き気と咳がおさまったことを確認すると、改めて少年の方を向き、話しかけた。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「そうですか」
少年はまた視線を私から逸らしてしまった。せっかくきっかけが見つかったのに、このまま話を終わらせるのはよくないように思われた。
「君は何歳?」
当たり障りのない質問で様子を見る。少年の方も、無視をし辛くなったのか、あまり乗り気ではないにせよ私の質問に答えてくれた。
「十三です。もうすぐ十四になりますけど」
「それだと中二なのか。僕は高一で十六だよ」
「そうなんですね」
お互いに会話が下手だなと思う。私は何を話せばいいのかしばし考えた後、最初に確認しなければならないことをまだ聞いていなかったことに気が付いた。
「君は、この家とどういう関係なんだい?」
少年はこちらの方を訝しげに見つめ、しばらく黙ってから警戒するように話した。
「何って……、庄野家の息子ですけれど」
祖父母に関係する誰か、だとは思っているけれど、少年の口からは私の予想を超える答えが返ってきた。どういうことなのだろうか。私に叔父がいたなんて両親から聞いたことがなかった。
「悪いけど、聞いたことがないな」
「あなたは誰なんですか」
「僕は、君の両親の孫だよ。つまり君の甥になるのかな」
「最後まで父の面倒を見ずに出て行ったという兄の子供ですか」
少年の眼は少しの憎しみと諦念のようなもので満ちていた。しかし、よく考えてみるとおかしいことに気が付いた。私がこの家を最後に訪れたのは、五年前のことであり、そのとき目の前にいるこの少年の姿を見たことがなかったからだ。
「僕が最後にここに来たのは、五年前のことになるけれど、そのとき君の姿を見た覚えがない。どういうことなんだい」
「三年前のことです。ぼくがこの家に来たのは。両親のいなかったぼくを庄野の父と母は引き取って面倒をみてくれたんです」
少年は遠くの空を見ながら、そういった。横顔は少し泣き出しそうに見えた。
ゆるやかな夏 紫 @fairymon
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