歪んだ正義は、誰がため
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「あぁ、あ゛つい~」
「ですね~」
「藤乃ちゃんは熱くないの?その恰好」
熱いに決まってる。誰のせいでこんな格好しているのかといいたくなる。
梅雨明けの最後の長雨も終わり、暦も八月に変わって、いよいよ夏本番だというところだろうか。
明日にも関東甲信地区は気象庁から正式に梅雨明けがもうじき出るようだった。
いくら営業前の日の落ちかけた時間とはいえ、まだ完全に日の沈んでいない時間は暑い。陽が沈んでも、もう暑いけど……。
隣のカウンターで溶けている目の前のパソコンの卒論に忙殺されている紗華さんとじゃれあう。
前に空調温度を下げたらどうですか?と聞いたら、ここのは効きすぎるから逆に寒いと一蹴された。なら、どうしろと、と問いたい気持ちは捨てて床の掃除をする。
最近沙華さんは学業が忙しいらしく熱心に難しそうな本と睨めっこしている姿をよく見かける。
なので、沙華さんが担っていた仕事を私と依月さんで受け持つ事になり、必然的に仕事量が増えているというわけだ。
「そうだ!」
溶けていた紗華さんが急に思い立ったようにこちらを向く。嫌な予感しかないが。
「だったら、スカートも短くしてみる?ホントにメイドカフェみたいになるけど。それか前に着たあの……」
「それだけは嫌です!」
前に普段からちょっかいをかけられる紗華さんに仕返しとばかりに氷を背中に入れた際、逆鱗に触れて無理矢理着せられたあの地下アイドル風の衣装を思い出す。
そこまでいくと、いよいよなんのお店か分からなくなっている気もするが、このお店のマスターである依月さんも、オーナーもなにも言ってはこない。それでいいのかと思うけれど、最近は谷川さんや楓香さん、紗華さんの後輩以外のビリヤード目的の常連さんからも何も言われなくなっていて、慣れとはすごいなと思っていたところだ。
「せっかく夏用のやつも用意したんだよ?見る?!藤乃ちゃんのロッカーに入れといてあげるよ!」
「いいです!」
「そのいいっていうのは、着たいってことかな?」
「……」
頭が湧いてしまったのだろうか。うんそう思うほうが自然だ。梅雨明けそうそう最高気温は35度らしいし、壊れても仕方はない。
このまま相手にしていても沙華さんのペースに飲まれるだけなので、話半分に聞き流しつつ、床の掃除に集中している時だった。
「……やってるかな、今」
声のするあけ放たれた扉の方へ目をやると、いつも以上にやつれた谷川さんの姿があった。
「谷川さん?大丈夫ですか?顔色がよくないですよ」
「あ、あぁ……、暑かったからかな」
「わかりましたから!ここ!座って下さい!」
私が反応するより先に、ピリッと反応してドア側に一番近い椅子を引き谷川さんを座らせる沙華さん。
この切り替えの早さは正直尊敬するところはある。
「藤乃ちゃん、掃除なんかいいから、ドア閉めて。空調強めに効かせて!」
「いや、いいよ。悪いし、そんなの……」
「谷川さんは黙っててください」
そう強く言い放ち、沙華さんはバックルームへと消えていく。一方、言われた側の谷川さんの力なく机に両肘をついて俯く姿を後目に、私はあれほど沙華さんが嫌がっていた空調の温度をとりあえず24度に設定し、スイッチを入れた。
まもなくして、音を立てながら冷たい空気を吐き出して、汗ばんだ私達の体を冷やし出す。
声を掛けるのを躊躇うほどに、谷川さんの背中は小さく見えた。元より頼りがいのありそうな背中ではなかったけれど、今はそんなことすら言っていられない。そのくらい憔悴しているように見えた。
「はいこれ、飲んでください!」
どことなく消えていた沙華さんが戻るや否や、谷川さんの前に恐らく麦茶を入れたコップを置き、シャリシャリと音を立てながらおしぼりを伸ばして谷川さんに共に差し出す。
「……」
谷川さんは沙華さんとコップを交互に見つめ、何かの圧に負けるようにコップの中身を飲み干した。そしてまた頭を垂れる。
あぁ、沙華さんの顔が、笑ってるんだけど、目が笑ってないやつだ。これは完全に怒っている……。
案の定、沙華さんは片手に凍ったおしぼりを掴み、もう片方の手で谷川さんの首元をつかみ、顔を無理やりあげさせた。そして、そのままおしぼりを投げつけるような谷川さんの顔に押し付けたのだ。
「むがっ……っ!」
「ええ加減、目は覚めましたか?」
「沙華さん!やりすぎですって……」
「藤乃ちゃんは黙っとって」
有無を言わせない雰囲気の紗華さんは、緋色の髪の毛と広島の方言も相まって、より怒髪天の様相が強調される。
「別に私はいいんですよ。谷川さんがおかしくなっても。元からですから」
「ひどいな、紗華ちゃん……」
私もそうおもいますとは言わないほうがいいだろう。
「でも、そんな顔はやめてください。ここは、楽しく遊ぶところですから」
「……むがっっ!っつ、なにするんだよ……」
「別に?谷川さんの顔に影があったからふき取ってあげようかと」
紗華さんが再びおしぼりを顔に押し付けるのを谷川さんが突っぱねた。
紗華さんはけらけらと笑ってはいるが、私は今の紗華さんがあの時と重なって見えた。
私の前から冬馬さんが居なくなって、また暗い部屋の中に籠っていた時、外でたまたま会った、その時はただ何回かあったことがあるだけの私に、紗華さんは暗がりから引っ張り出してくれた。
結局夜の時間で働いてはいるけれど。少なくとも一人になった私を救ってくれた。
紗華さんは優しいのだ。
普段は私の事をおもちゃにしているようにしか感じないけど、人が落ちていく時に手を差し伸べられる優しさだけじゃない。ちゃんと叱ってくれる。それが紗華さんだ。
恐らく谷川さんも、その優しさを求めて、オーナーのいる立川ではなくて、最近紗華さんが居ないと分かっていても国立のお店に来たのだろう。
見えない糸を手繰るように。
「よしっ……。二人に言わなきゃならないことがあるっ!」
生気の戻った目に決意を灯した谷川さんが、机から目を離し、私達二人を交互に見つめる。
一体何を言うというのだろうか。恐らくいい知らせではないことは分かる。
けれど、聞くしかない。谷川さんが決心しなければならない知らせは怖くはあるが今は谷川さんの言葉を紗華さんと目線を交わして待つ。
「……河本達の記事が突然差し替えにされた。せっかく協力してくれた紗華ちゃんと藤乃ちゃんには悪いことをした。……すまないっ!」
机に伏して頭をこすりつける谷川さんに私達は、かける言葉が出てきてはきれなかった。
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