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「藤乃、行くぞ」
「ちょっと。待って下さいよ!」
出会ってから2週間、出会う前から変わったことがもう1つ。
その証拠に、私は黒塗りの例のキューケースを抱えた冬馬さんと共に、日が落ちて街灯に照らされる大学通りを国立駅方面へ歩くこと10分。
もうここの少し軋む扉を引くことへの緊張感も薄れてきたころである。
Pool Bar――〈ルーナ・ラジアータ〉の手書きの縦置き看板に目もくれず、店内へと足を踏み入れる。
「おう、いらっしゃい。お二人さん」
「あ、藤乃ちゃん!冬馬君もいらっしゃい」
きしんだ扉の先から、バーテンダーの男女の声で出迎えられる私たち。
「こんばんは、今日も来ちゃいました」
「それやったら、奥のカウンターと、テーブル使ってくれや」
男の方、もとい、栗原依月さんというバーテンダーにぶっきらぼうな物言いで奥に通される。
接客業、特に水商売でそれはどうなのだろうかと心配になるほど愛想がない。
けれど、私の後ろにいる冬馬さんも同じようなものだし、私が今まで春を売っていた時の昼間に生きる人と違って、夜に生きる男の人の素なんてこんなものなのかもしれない。と、明らかに偏見の塊のような考えを巡らせている時。
「それじゃ、なにかあれば呼んでくださいね」
「じゃあ、私は、キティーをください」
「俺は……。」
「また、酔って手元がおぼつかなくても知らんからな」
「いや、今日も俺が勝つよ。あ、適当にハイボール」
「はいよ、沙華、頼む!」
「はいはい、分りましたよ。依月さんあんまり本気にならないで下さいね」
売り言葉に買い言葉のようなここ最近お決まりのやり取りをしながら、自分のキューを持ち出してビリヤード台へ向かう二人を後ろから呆れたように眺めて、
沙華さんは私の前におしぼり二つと冬馬さんが使う灰皿を置いて一礼しカウンターに戻っていく。
店内照明に照らされ、緋色に輝く綺麗な髪を後ろでポニーテールに結わえた女性が、流麗な手さばきで氷を割り、そして淀みなく赤ワインをとりだして、キティーを作り出すその姿に私は目を奪われる。
鈴の音を鳴らしたような綺麗な声と優しい笑み、橘沙華さん、この近くの国立大在学中の才媛だと知った時、だろうな。と思ってしまうくらいには所作が綺麗で見惚れてしまった。
同時に、私のような人間とは住む世界が違うということを思い知らされる気がしている。こんな近くにいるのに、こんなにも距離を感じる。それはきっと、彼女が私が大人たちに若さと引き換えに金を、情報をもらい、復讐という無意味な枷に足を絡めとられている間にも、大学などという”普通”の人生を送れているからだろう。
僻んでいるわけではない。仕方ないことだから。あきらめているのだろう。私は自分自身のことを。
私はそんな卑屈で淀んだ思考の流れを断ち切って、
カウンターでどこぞの海外の瓶ビールを直飲みしている常連さんの谷川さんと柔らかい声色を響かせて笑いながらも次はハイボールを作る沙華さんの姿を遠目に眺めていると、程なくして沙華さんがグラスを二つ持ってやってくる。
「私のこと、気になります?」
「えっ?」
音もなくコースターの上に綺麗な黄金色のハイボールと少し色がくすんだ赤ワインのようなキティーの入ったガラスがおきながら、私の両目を捉えて訊ねてくる。
「あんなに見られたら、誰でも気づきますよ。私に気があるんですか?」
「いや、ごめんなさい、そんなつもりじゃ。ただ……」
「ただ?」
あ!その位置は厳しいわ!、わざとじゃねぇからな。といった子供の様に玉撞きを楽しむ成人男児二人の喧騒の中、私の口は動かなかった。続ける言葉が見当たらないのだ。
(この子の、目的はなんだろ……。昔の私みたいなんだろうなぁ、この懐かない感じ)
沙華さんの感情を捉える。綺麗な邪気も損得勘定もない感情に、比較して人から見れば僻んでいるようにも思える感情を抱えていた自分が嫌いになりそうである。元からの自己評価がさらに低くなる私の言葉を待つ沙華さんになんて返そうかと悩めば悩むほど、私の口は動いてくれないのだ。心の底を誰にも晒せないほどに私が弱いのを知っているから。怖くて言葉が出ないのだ。
「あの二人が終わったら私達も勝負しませんか?」
閉ざした口から小さくえっ?と漏らした私にいつの間にかキューを2本持って立つ沙華さんが私に微笑んでくれる。
私は、手元にあったグラスを一気に煽り、キティーを飲み干す。そして、私は、少し熱くなった頬の熱を感じながら、負けませんから。と返す。見えない何かと戦うように。私はキューを手に取った。
出会ってから2週間、出会う前から変わったことがもう1つ。
――それは、私も玉撞きの沼に嵌りそうなことだった。
※キティ・・・赤ワインベースのジンジャーエール割です。
基本的に赤ワインを飲みやすくするため、
甘口のジンジャーエールを使います。
辛口もなかなか乙ですが、
私はワインは苦手です。
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