第9話 まるでアナタは久遠に続く迷宮のように―1


 この世界にまたしても朝はやって来た。


「ふあ~」


 俺はベッドから起き上がり、伸びをしながら大きく欠伸をした。

 そして、自分の隣をちらりと見る。


「流石にいないか」


 今日はルミナが隣で眠っているということはなく、俺もちゃんと服を着ている。

 ダブルベッドを一人で使うというのはスペースが広すぎて少々寂しい気もするが、独り占めを出来るという意味では悪くない。

 宿の階下から油の跳ねる音が聞こえてくる。

 きっと「彼女」が今日も朝食の準備をしてくれているのだろう。

 俺は寝ぐせを手櫛で直しつつ、階段を下りて一階のロビーへと向かう。


「あっ、おはようございます先輩♡ 朝ご飯は今配膳していますからからソファで待っていてくださいね♡」

「…………おはよう、ルミナ。お言葉に甘えて待つことにするよ」


 ニコニコとした表情で俺に挨拶をしたエプロン姿のルミナに俺はローテンションな態度で挨拶を返す。

 ソファに行くと、ラビィが青ざめた顔でガタガタと身体を震わせながら先にソファに座っていた。


「おはよう、ラビィ。よく眠れたか?」

「……アンタは昨日の今日でよくそんな呑気でいられるわね」


 目の前の机には俺とルミナの分だと思われる朝食が並べられていた。

 今日の朝食は白米、みそ汁、卵焼き、焼き鮭という伝統的な日本食のセットだった。


「別に呑気でここに留まっている訳じゃない。だけど、無一文の俺たちには他に行く当てもないだろ。……それに、あの子は俺に対しては危害を加えるつもりはなさそうな気がするんだ」

「アンタが何もされなくても、私の身はどうなるのよ!」


 ラビィは昨日、ルミナに首を絞められていたせいか、顔に恐怖が張り付いて、声も震えていた。


「お前の言いたいことは分かるさ。でも、俺はどうしても気になってしまうんだ。俺の前世の記憶にあった愛璃瑠未那はあんな猟奇的な性格じゃなかった。少なくとも、人殺しをするなんて絶対に思えないような大人しい子だったはずだ。だから、椎名さんを殺したという言葉も鵜呑みには出来ない」

「……まあ、私の知る限りでも前世のアンタの周囲にはあんなサイコパ――ヤンデレちゃんはいなかったと思うわ」


 ヤンデレ。

 ラビィは倫理観の破綻しているルミナをそう評した。

 ヤンデレと言えば、漫画やゲームで登場するヒロイン属性の一つだ。

 深い愛情によって狂ってしまっている……と言えば聞こえはいいが、傍から見ればラビィが言いかけていた存在と大した違いは感じられない。

 一般的なヤンデレのイメージは最終的に刃傷沙汰で愛する人さえ殺してしまうというものだが、似たような性質を持つメンヘラと混同されていることも少なくはなくて、区別は非常に難しい。

 とはいえ、一言で言ってしまえばその三つはどれも「精神異常者」であることには間違いないのだが……。


「さあ、皆さん揃ったことですし、朝ご飯をいただきましょう」


 そんな時、ルミナが自分の食事を持ってテーブルへとやって来た。

 ルミナは俺の知る前世の彼女よりもいくらかあか抜けており、とても美人になっている。

 前世のルミナはいつも無造作に伸ばした髪で目が隠れていたり、口数が少なかったりして、地味で暗い女の子という印象だった。

 前世でささいな用事で彼女とは何度か話をしたことがあるが、特別仲が良かったという訳でもない。

 一体、何がどうなってこんな状況になっているのか俺には理解しがたかった。


「……ところでルミナ、一つ尋ねてもいいか?」

「はぁい♡ 私のことですか? なんでも聞いてください♡ 先輩には私のことをもっと知って欲しいですから♡」


 ルミナは俺と会話をしただけなのに凄く嬉しそうな様子を見せる。

 悔しいが、こういう反応をされると男としては可愛いと思ってしまう。

 例え、拉致監禁や殺人疑惑の確信犯であっても。

 今の彼女なら、スリーサイズを尋ねてもあっさりと教えてくれそうだ。

 しかし、俺が尋ねたいことは決してそんなことではない。


「悪いけど、お前のことじゃないんだ。俺が聞きたいのはそこにいるもう一人についての話なんだが、彼女はこれからどうするつもりなんだ?」


 俺が視線で指し示した先には昨日からずっと縛られたままロビーの隅に転がされていた宿屋の女将さんだった。

 女将さんは未だ猿ぐつわも外されないまま、食事も与えられず衰弱した様子でぐったりとしていた。


「どうするつもりかと聞かれましても逃がしてしまえば折角手に入れた私と先輩の愛の巣を取り返そうとするでしょうし、もうこのまま餓死させてどこか人に見つからないところにでも捨ててしまおうかと考えていたのですが……」

「平然とした態度で殺人と死体遺棄を実行に移そうとするなよ。この人には何の罪もないんだから解放してやれ」

「えっ……でも……それだと……」


 ルミナは女将さんを解放することに関しては簡単に首を縦に振らなかった。

 俺に対しては不気味なくらいに従順なルミナといえど、この命令は無理があったかもしれない。


「…………あっ、いいこと思いついちゃいました♪」


 だが、少し思案したルミナは何か考えが浮かんだらしく、女将さんの傍に寄って彼女の猿ぐつわを外す。


「あ……た、助けてくれるの?」


 女将さんが弱々しい声でルミナに問う。

 かれこれ一昨日からずっと拘束されて食事も与えられなかった女将さんはすでに虫の息となっていた。


「はい。先輩の頼みですから、仕方がないですが、アナタをここから逃がしてあげます」


 ルミナは微笑みながらそう言うが、すぐにその和やかな笑みは消え失せる。


「――ただし、解放するには条件が二つあります。一つは私と先輩の生活を邪魔しないこと。くれぐれも騎士団などに今回の件を密告しないでくださいね」

「わ、分かったわ。このことは誰にも言わないわよ」

「その言葉、信じていますよ? ……そして、もう一つの条件ですが、この宿をどうか私にお譲りしていただけないでしょうか?」

「そ、それは……ちょっと……。この宿は私の全財産でもある訳だし……」

「ええ。そう答えられると思っていました」


 女将さんの返答に頷くルミナだったが、俺には彼女がそれで諦めたようにも見えなかった。


「――ですから、この宿は私が買い取らせていたただきます」

「「「……………………へっ?」」」


 俺とラビィと女将さんの三人は続くルミナの言葉を聞いて不意に素っ頓狂な声が出した。


「そうですね。凡そですが、この程度の額でいかがでしょうか?」


 ルミナは財布から一枚のカードを取り出す。

 それはルミナのアンコールパスであり、カードから魔法陣が浮かび上がると、九桁の数字が表示される。


「私個人の財産ですから、このくらいしかお支払い出来ませんが、どうですか?」

「はえ? この額を全部、くれるの? 嘘……こんな額があれば一軒家が三軒は買えるわよ? どこからこんなお金を……」

「ふふっ、聞いて驚かないでくださいね? 実は私、メルトリシア公爵家の娘なんです」

「えっ……じゃあ、あなたは本当にあの有名なルミナ・メルトリシアだと言うの?」


 俺はルミナが新聞で取り上げられる程の有名人だということを今更思い出した。

 こっちの世界のルミナは一般人と比べものにならない権力と財力を有している。


 この状況ではっきりと理解出来るのは、俺とラビィがとんでもない女に目をつけられてしまったということ。

 どうやら、俺とラビィはルミナから逃げられないのかもしれない。

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