最終話 満月/ハネムーン



 自己の存在に理由を求めた魂は、長い長い旅に出る。

 彼女はそれを生と呼んだ。


 疲弊した魂を歩みを止め、やがて長い長い眠りにつく。

 彼女はそれを死と呼んだ。


 しかしある時、彼女は疑問に思う。

 今、自分は旅の途中なのか、それともすでに眠りについているのか。

 自分は生者なのか、死者なのか。

 

 問い掛けに答える者はいない。

 そこで彼女は眠りについた魂に旅の夢を見せることにする。

 死者に生者の夢を見せたのだ。


 彼女は道標として、夢見る死者へ篝火を焚く。

 その夢見る死者へ、彼女は“トム・ボナパルト”という名前を授けた。


 トムへ彼女は問い掛けた。

 私は旅の途中なのか、それともすでに眠りについているのか。

 私は生者なのか、死者なのか。


 彼は答えた。死者かどうかはわからないが、少なくとも生者ではないと。

 彼女は名前を持たず、誰も彼女の名前を知らなかったから。


 それから彼女は自らのことをドネミネと名乗るようになった。

 しかし、それは本来彼女自身の名前ではない。他者から奪ったもの。


 篝火はもう、道標にはならなかった。




「私たちの名前は“ムト・ジャンヌ・ダルク”。この名前を忘れることは、彼が許しても、私が許さない」




 刹那の瞬きに近い回顧。

 女神ドネミネは目の前に立ちはだかる、黒髪の青年と見つめ合う。

 たしかに心臓を奪い、握り潰したはず。

 それにも関わらず、青年は再び神である自らの前に立っている。


 感じるのは、自分とは異なる神の気配。


 どうしてこれほど異質な力を持つ存在が自らの支配する世界に出現したのか、その理由にある程度の予想をつけた彼女は短い溜め息を吐く。

 旅の夢の終わりは近い。

 それは予感ではなく、確信だった。

 

「そう。あくまで抗うのね。私の世界に。私の決めた筋書きに」


 女神は空に触れる。

 雲は欠片一つ越さず消え去り、真っ暗な空には数え切れない星屑。

 彼女は銀髪の少女の身体を捨て去り、夜空へ昇っていく。

 神である自らがこの世界に直接身を浸すことは許されていなかったが、もはやそんなことはどうでもよかった。

 なぜならこれは全て夢なのだから。

 女神の夢に、翼は必要なかった。


「他の管理者がここまで関わっているということは、そういうことなのね。じきにここから、私の居場所はなくなる。私の物語はなかったことになる」


 解き放たれたかのように、白金の長髪を夜に靡かせる女神は空へ足をつける。

 足下には凪の湖のように夜空がどこまでも深く続いていて、頭上には彼女が創り上げた世界が美しく広がっている。

 

「私は、貴公に勝つ。それが私の願いを叶えるためのたった一つの方法。最強の魔法使いに敗北は許されない」


 彼女を追って、黒髪の青年が夜空へ辿り着く。

 黄金の瞳に迷いはなく、迸る魔力には無限の気配がする。

 

「《灰に帰せカヌスイグニス》」


 熱が夜風を焦がし、女神の身に迫る。

 しかし彼女は優雅に手を振るだけで、その灰燼の炎を全て無へと変える。

 最後の瞬き。

 この美しい夜がいつまでも続けばいいと思っていた。


 「《天よ跪けトニトルスマグニフィカト》」


 雷鳴に似た轟音が響き渡り、目を眩ませるような光が女神を襲う。

 再び彼女は手を振ろうとする。

 しかし感じたのは僅かな痛み。

 光の暴虐はまたもや全て初めからなかったかのように消え去る。

 たが彼女の白皙の肌には小さなヒビのようなものが生まれていて、そこから真紅の血が流れ落ちていく。


 自らの血の色を初めて知った彼女は、寂しそうに微笑む。


 終わりの時が迫って来ている。

 じきにもう全て忘却に消える。

 女神ドネミネ、その名は永遠に忘れ去られてしまう。


「……神の力を宿らせているみたいね。でも無償で貰ったわけじゃないでしょう? 貴方……いえ、貴女はどんな代償を払ったの?」

「孤独と消滅。しかし私の優しい宿主は、きっと覚えていてくれる。たしかに、私がここにいたということを。だから構わない。私は十分幸せだった」


 たった一人、覚えてくれればそれでいいと、彼女に語る。

 女神が覚えたのは羨望。

 孤独と消滅を怖れない神の反逆者へ対し、彼女は最後に痛みを共有する。

 

 きっと自分に足りていないのは、犠牲の痛み。


 誰かを忘れ、誰かに忘れられることの痛みを忘れない限り、きっと自分は生きていられる。

 長い長い旅は続くはずなのだと。



「全てが筋書き通りにいかない方が、面白いこともあるのね」


「私は負けるわけにはいかない。もう一度、彼に逢うために」



 夜は彼女の剣となり、深い宵色の刃を形づくる。

 月の光は対する青年の剣となり、煌めく黄金の刃となす。


 ぶつかり合う光と夜。


 星屑の湖は静観に徹していて、花火に似た明滅を映すだけ。


「寂しくなるわ。もう夢を見ることができないなんて」


「私にはどうしても叶えたい願いがある」


 衝撃に青年の腕が軋み骨が歪めば、彼女の腕にも大きな亀裂が入り朱い光が漏れる。

 惜別を嘆いても、誰も彼女を慰めてはくれない。



「もうじき、夢が覚める。できればエピローグまで見届けたかったわ」



 身体が朽ち、崩れ去っていく感覚の中、青年の剣を弾き飛ばし、女神ドネミネは宵の切っ先を真っ直ぐと振り下ろす。

 しかしその剣は届かないと、自分ではなく、この世界に選ばれたもう一人の英雄が夜に落ちることはないと、彼女は知っていた。



「――悪いね。彼女ジャンヌの願いだけは、俺が叶えるって決めてるんだ」




 宵の一撃はどこからともなく現れた、もう一人の青年の手によって止められる。

 双子のように似た顔をしているが、彼女の一撃を止めた方の青年の声は、この空の下で最も強い響きを持っていた。


 じきに夜が明け、新しい朝が来る。


 そこに自らがいないことだけが少し寂しかったが、それでいい気がしていた。



「《俺とジャンヌと二人で、“ムト・ジャンヌ・ダルク”なんだ。彼女ジャンヌが、俺たちがいる世界を、俺たちがいてもいい世界を創造クリエイト》」



 優しい光に照らされて、世界が塗り替えられていく。


 夜空に沈む月の煌めきが大きくなっていく。


 世界は女神を忘れていく。


 しかしそれが間違っていることには思えなかった。




『さあ、もう十分楽しんだろ? 帰ろうぜ、姉貴』




 身体に刻まれたヒビが繋がっていき、星砂のように崩れ落ちていく。


 彼女は夜の湖に溶けていき、二つの月が黄金を輝かせるのを見る。


 もう嘆くことはしない。


 それは長い長い旅の終わり。



 静かで優しい朝が、もうすぐそこまで迫って来ていた。





––––––––––––––––





『私にはどうしても叶えたい願いがある』




 ジャンヌの声が聴こえる。

 胸が逸る。

 新たな肉体を手に入れた俺は全速力で彼女の下に向かう。

 

 相対する女神が剣を振るう。


 でもその剣が彼女に届くことはないと、俺は知っていた。



「――悪いね。彼女の願いだけは、俺が叶えるって決めてるんだ」



 振り抜かれた剣を俺が手で受け止め、ジャンヌの前に俺が立つ。

 思えばいつも俺たちは一緒にいたけど、こうやって俺が彼女を守るのは初めてかもしれない。

 守られてばかり。

 これでは甲斐性がないと煽られても仕方ない。

 

 だから創ろう。

 俺たちの居場所を。

 

 もし世界が俺たち二人が共に並ぶことを認めないなら、そんな世界は俺が認めない。

 俺はたしかに強くない、だけど強く在りたいとは思っているんだ。

 


「《俺とジャンヌで二人で、“ムト・ジャンヌ・ダルク”なんだ。彼女が、俺たちがいる世界を、俺たちがいてもいい世界を創造クリエイト》」



 想像するのは、どこまでも純粋で単純な光景。

 俺の隣りでジャンヌが笑って、また俺もその横で笑い合うだけの景色。


 きっとそれは泡沫の夢。


 でもそれでも構わなかった。

 俺の願いは叶わなくとも、俺たちの願いはきっと叶ったのだから。



「逢いに来たよ、ジャンヌ」


「逢いたかった、ムト」



 満天の下で、俺とジャンヌは見つめ合う。

 俺とそっくりな顔をしているけれど、中身は全然違う。

 月明かりのように煌めく黄金の瞳に、俺は惹き込まれていく。


 夜に抱かれた俺たちは、ゆっくりと互いの手を取り合う。


 こうやって外の世界で、手を取り合うのはきっとこれが最初で最後だ。


 あとどれくらい持つだろう。


 この刹那の夢が、あとどれほど続くだろう。


 でもいいや。


 今だけは忘れてしまおう。


 時間も、代償も、足下で光輝く二つの月さえ忘れて、俺は大切な言葉を紡ぐ。



「ジャンヌ、俺、君のことが好きだ」


「ムト、私も、貴公のことが好きだ」



 俺の中に生まれたこの想いをきっと人は恋と呼ぶだろう。


 ジャンヌの唇が発する好きという言葉の意味が、俺と同じものかどうかはわからない。

 

 でも色々拗らせて考えるのは面倒くさいので、とりあえず両想いということにしておこう。


 勘違い童貞にはそれくらいがちょうどいい。


 いざという時に、あ、好きっていうのはべつに、そういう異性としての意味じゃなくて、あの、その、ごめんなさい、的なことを言われてガン逃げかまされるその日まで、ずっと素敵に勘違いしていこうじゃないか。



『代償の時間だ。悪いが、孤独な死の運命を受け入れて貰うぜ』



 空気の読めないインチキ自称神の声が聴こえる。

 すぐに夢の時間は終わる。

 寂しくないといえば嘘になるし、正直泣きそうだけど、我慢しよう。

 これから惜別を嘆く時間はきっといくらでもあるのだから。



「もしまた逢いたいって言ったら、叶えてくれるかな?」



 欠けていた月が満ちるのと同時に、穏やかな奇跡の時間が終わっていく。


 俺は最後に彼女に問い掛ける。


 俺の願いは叶わないと知っていながら。



「叶えよう。一緒に」



 ジャンヌ一人では叶えられないが、きっと貴公ムトと一緒なら。


 優しい彼女は最後に涙を流しながら、俺にそう言ってくれた。


 そうだった。


 俺たちは二人で一つ。


 一人では叶えられない願いがあったとしても、二人でなら叶えられるはず。


 俺の視界がなぜか水滴に滲んでいく。


 雨なんて一滴も降っていないのに。


 覚悟はあっても、悲しいものは悲しい。




「そうだね。叶えよう、二人で」




 夜空に輝く二つの満月は、寄り添うようにして世界を照らしている。


 だけどすぐにその明かりも見えなくなる。


 孤独の死の運命。


 大切な人との再会に対する代償を支払うため、俺は再び旅に出る。



 その旅先にはきっと月が一つもないと知っていたけれど、俺はこの日見た二つの満月を覚えているから、それでいいと思った。






















––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––




 このディアボロと呼ばれる世界には、有名な伝説がある。

 だけどその一人の英雄に纏わる伝説が、僕はあまり好きではない。

 もちろんその英雄のことは尊敬している。

 なぜなら彼がもしこの世界にいなかったら今頃僕がこうやって穏やかな陽の光を浴びながら、頬杖をつくこともなかっただろうから。


 時はジャンヌダルク暦1004年7月21日。

 天気は快晴。

 アルテミス国立魔法魔術学園で受ける世界史の授業は最高に退屈だった。



「今からちょうど千年前、この世界にはディアボロの篝火と呼ばれる禁忌の魔法が顕現し、私たちが住むこの大陸ホグワイツ大陸にもカガリビトという異形の怪物が大量に押し寄せてきたとされます。ではラミジール君。この第三次混沌の時代カオス・トレントにおいて、ホグワイツ大陸を守護したとされる魔術師を三人答えなさい」


 世界史の教師のルックバード先生が、紫色の髪が特徴的な少年ラミジールを当てる。

 彼は法国クレスマの王家の血を引いているので魔法使いとしての才能はあるが、ちょっと抜けてるところがある。

 たぶん正答はできないだろう。


「あ、えーと、たしか“ガロゴラール・ハンニバル”と“竜姫ピルロレベッカ”と“救済者シンプソン”、だろ?」


「不正解です。その三人はたしかに全員、このホグワイツ大陸での戦いで名を挙げた人ですが、そのうち二人は魔術師ではありません。その三人の中だと正式な魔術師はガロゴラール・ハンニバルだけですよ」


 ガロゴラール・ハンニバル。

 今でも続く歴史ある魔術師組織、世界魔術師機構の初代会長にして、歴代で最も不遇な時代を過ごしたとされる男。

 その時代の九賢人は誰も彼も我が強くて、今でも架空の小説や漫画に性別を変えられたりして登場することが多い。

 竜姫ピルロレベッカと救済者シンプソンも有名な人物だ。

 前者は元々闇の三王とされる凶悪な魔物の一体だったのだが、例の英雄の使い魔として大陸を守ったらしい。

 後者は詳しい情報はあまり残されていない。

 迫りくるカガリビトを片っ端から倒したという謎の神父で、最後は月に祈りを捧げるような体勢で戦いの最中亡くなったという悲劇性もあって、この人も創作の題材によくされていた。


「正解はガロゴラール・ハンニバルと、そして“クレスティーナ・アレキサンダー”、“ヴォルフ・ブレイド”の三人です」


「あー、いわれてみれば」


「ラミジール君。ここはテストに出ますよ。きちんと復習しておくように」


「はーい」


 クレスティーナ・アレキサンダーとヴォルフ・ブレイド。

 この二人も有名人だ。

 元九賢人で、さらにこの戦いの後再び賢人の座に戻った氷使いの魔女クレスティーナと、その二番弟子とされるヴォルフ・ブレイド。

 この二人は生涯独身を貫いたとされ、行き遅れ師弟としてよくネタにされている。世界を救った英雄の一人なのに、ちょっとだけ可哀想だ。


「では次に、ボーバート大陸の方をおさらいしましょう。幻帝ヨハン・イビ・グアルディオラと闇の魂喰いのカルシファは第三次混沌の時代における首謀者として有名ですが、裏では今こそ絶滅しましたが悪魔族たちが蠢いていたとされます。その悪魔族が分かる人はいますか? ……では、ラウリカくん」


「はい。悪魔公爵スーイサイド、悪魔侯爵フューネラル。そして厳密には悪魔族ではありませんが、白の死神オルレアンです。この中でも悪魔公爵スーイサイドはエルフの枢機卿として人に擬態していたともされます」


「さすがラウリカくんですね。完璧な回答ですよ」


「ありがとうございます」


 ルックバード先生が次に指名したのは、ラウリカという銀髪の少年だ。

 筆記試験では常に学年一位、実技試験でも学年二位を常にキープしている天才児。

 僕の幼馴染は彼のことをやけにライバル視しているけれど、彼には到底及ばない。

 隣りの席でそんな幼馴染が舌打ちをするのが聴こえたけれど、僕はそれに気づかないふりをした。


「この戦いの中で悪魔侯爵フューネラルが魔喰の六番目セト・ボナパルトによって討たれました。悪魔族の中でも精神的支柱だっとされるフューネラルの死後、悪魔公爵スーイサイドと白の死神オルレアンは姿を消し、二度と姿を現すことはなかったとされます。ただ一説によると、その後もあの英雄とは何度か交流を取っていたともされますが、確証はありません」


「へへっ、先生! その悪魔退治には、セト以外にも活躍した人がいるじゃないですか! なあ、ムナ!」


「……そうだね」


「わかっていますよ、ラミジール君。紫電の姫君レミジルー・アルブレヒト・アルトドルファーと慈愛の魔女のルナ・ラドクリフですね?」


「そうそう! 忘れないでくれよ先生!」


「ふふっ、これはすいませんでした。以後気をつけます」


 ラミジールがきらきらした顔で文句をつけると、ルックバード先生は笑って頭を下げていた。

 自分のの名が省略されたことが納得いかなかったのだろう。

 でも彼に同意を求められたムナという名の少年は心底興味なさそうな表情をしていた。

 あのやる気のなさそうな感じからして、多分今日も彼は早退しそうだなと思った。


「うぅぅっ! す、すいません先生! うち! ちょっとトイレ行ってきていいですか!? ガチのマジで腹痛くて! 超ウェイって感じなんです!」


 すると今度は、教室の最前列に座る茶髪の少女が唐突に手を挙げて授業を遮った。

 額にはあぶら汗を浮かべて、見るからに具合が悪そうだった。


「ミャックさん? 大丈夫ですか?」


「いやムリっす! 全然大丈夫じゃないっす! トイレ行ってきていいですかマジで!?」


「え、ええ、構いませんけれど……」


「パァ! マジ先生ウェイ! アザマッ!」


 そう言うなりミャックという名の少女は慌てて廊下へ走り去って行った。

 悲鳴に似た声が数秒後聴こえてきたけれど、ちゃんと最後まで我慢できたのかとても心配だ。

 彼女は筆記試験で学年最下位なので、あとでノートのメモを渡しておいてあげよう。

 いくら実技試験で学年一桁でも、筆記最下位はまず過ぎる。

 そしてミャックのせいで変な空気になった授業をまた進めようとしたところで、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。


「ああ、終わりですか。では、皆さんには課題を出しておきます。この時代において、全く無名の状態から名を挙げたヒバリという剣士がいます。その剣士について考察文を書いてきてください。彼女は剣士として異常に強かったとされますが、それがいったいなぜなのか。それとこの課題があることをミャックさんと、あとレデンくんにも伝えておいてください」


 腹痛を訴えて廊下に消えてから一向に帰って来る気配のないミャックと、あとここ一週間くらい学校をサボリ続けているレデンという少年へ課題が出たことを伝えて欲しいとルックバード先生は頼む。

 でもミャックはいいが、レデンに関しては無駄だろう。

 どうせ伝えたところでこんな簡単な課題をやることはないだろうし、彼にはやる必要もない。

 ラウリカに次いで学年二位の筆記成績と、学年トップの実技試験の成績。

 レデンは誰にも縛られない。

 たまに僕の家に勝手に上がり込むことさえ止めてくれれば、彼は彼のままで完璧な存在なのだから。






「ジト、帰ろうよ」


「あ、うん、ミトミト。今行く」


 そして放課後、“ジト”という僕の名前を呼ぶ蒼髪の男の子と一緒に帰路につく。

 まだ空は明るいままで、黄金の太陽が仄かな温もりを世界に注いでいた。

 柔らかな風が僕の黒髪を揺らし、初夏の香りがしたような気がしないでもない。


「いや、でもさ、なんか、やっぱりあの“英雄”って凄いよね。世界史の授業で、名前出てこないことないじゃん?」


「そう? 僕はあんまり好きじゃないから」


「でた。ジトって本当、“ムト・ジャンヌダルク”嫌いだよね。一応、俺のご先祖でもあるんだし、多めに見て上げてよ」


「嫌だ。だって不潔だもん」


「あははっ。ジトって変なところで純潔思考だよね」


 隣りで幼馴染のミトミトが笑う。


 英雄ムト・ジャンヌダルク。


 その名前を知らない者は今やこの世界に誰一人いない。

 混沌の時代を二度救い、ありとあらゆる魔法使いの頂点に立った伝説の男。


 ミトミト・ジャンヌダルク。


 僕の隣りを歩く彼はその伝説の英雄の血を継いでいる。

 でもこれは特別僕にとってあまり珍しいことではない。

 なぜなら世界中でも屈指の魔法使いの名家が集まるアルテミス国立魔法魔術学園において、そのは実にありふれていたからだ。


 ラウリカ・ジャンヌダルク・リンカーン。

 ラミジール・ジャンヌダルク・アルトドルファー。

 ムナ・ジャンヌダルク・ラドクリフ。

 ミャック・ジャンヌダルク・ランタン。

 レデン・ジャンヌダルク・クロムウェル。


 僕と同じクラスにいる学生だけでも、これほど“ジャンヌダルク”の名を継ぐものがいる。

 そう。

 だから僕は彼が嫌いだ。

 どれほど偉大な人物であろうと。

 不世出の英雄ムト・ジャンヌダルクは、隙あらば種をばら撒く超絶ヤリチン野郎だったのだ。


「英雄、色を好むとも言うし、仕方ないじゃん」


「でも最低でしょ。節操なくあっちこっちに手を出してさ。絶対ムリヤリだよ。力と権力に物を言わせて、力づくで犯したに決まってるよ。英雄は英雄かもしれないけど、人としてはどうかと思う」


「そんなことないって。だって世界史の本にも、ムト・ジャンヌダルクは男女問わず人気があり、彼のことを悪く言う人は誰もいなかったって書いてあるし」


「千年も前の話だよ。改竄されてるに決まってる。どうせ歴史家も魔法で脅していいように書かせたんだよ」


「えー、そうかなー」


「そうだよ」


 英雄ムト・ジャンヌダルクが性にだらしなく、非常に異性人気が高かったというのはよく聞く話だ。

 でも僕はそれを嘘だと思っている。

 真の愛は力だけでは勝ち取れない。

 歴史を見ても彼が圧倒的に強い魔法使いだったのはたしかだろう。

 だけどそれだけじゃ愛を手に入れることはできないはず。

 そこまで強いなら、どうせ傲慢で自尊心の高い人だったんだろう。

 プライドの高いヤリチン。

 間違いなくムト・ジャンヌダルクは僕の一番嫌いな人種だった。


「まったくジトは……あ、そういえば今日、イルムラウィ先生の新刊出るんだった。ちょっと本屋寄って来ていい? すぐ戻るから」


「あ、うん。べつにいいよ。待ってる」


「ありがとう!」


 帰り道、駅前の広場に辿り着いたところで、ミトミトが本屋へ寄ってくると言い出した。

 僕はあまり漫画は読まないので、ついていくことはしない。

 唯一の愛読書は、ケイミー・ライプニッツという小説家の作品くらいだけど、彼女の新刊は先月出たばかりだった。


 ミトミトが戻ってくるまでの間、暇を持て余した僕は広場のベンチに腰掛けることにした。

 この世界にはムト・ジャンヌダルクの名が溢れかえっている。

 僕が彼のことが嫌いなのは、ちょっとした嫉妬が混じっているかもしれない。

 ジャンヌダルクの名を僕は継いでいない。

 魔法の才能も勉強の才能もそこそこ。

 恋人の一人もできたことのない僕は、きっと運命に愛された英雄を羨ましいと思っているんだ。



「どうした少年、悩みごとかな?」


「……え?」



 するといきなり真横からふにゃふにゃした声がする。

 驚きに顔を向けると、そこには僕と同じ黒髪で、僕の右目と同じ茶色の瞳をした男の人が座っていた。

 いったいいつからそこにいたんだろう。

 いることにまったく気づかなかった。


「悩みごとがあるなら、俺が聞くよ。アドバイスはできないけど、こう見えて千年間くらい生きてるからね」


「は、はあ」


 どう頑張っても二十代半ばくらいにしか見えない男の人は、意味不明なジョークを口にする。

 たぶん不審者だ。

 僕はどうやって逃げようか考える。


「でもまさか千年間、異空間に隔離されて、千年経ったらやっと解放。でも寿命半分くらいにしますっていう代償を、俺だけじゃなくて、も受け入れてるとは思わなかったよ」


 いきなり何の話だ。

 さすがに千年は長かったなぁ、と独り言を呟く男の人は完全に頭のヤバい人だった。

 早くミトミト来ないかな。


「ま、俺の話はどうでもいいか。君の悩みを教えてよ。あともう少ししたら、元いた時代に戻るつもりだから、あんまり長くは話聞けないけどさ」


「悩みなんてべつに……」


「まあいいからいいから。なに? 恋の悩み? あるよねぇ。そういう時期だもんねぇ。もしかして君童貞? 絶対童貞でしょ」


 なんだこいつ。

 凄い失礼だな。

 だいたいたしかに僕にはこれまで交際とかした経験はないけど、厳密にいえば童貞じゃないし。


「まあでも、大丈夫。童貞なんてそのうち卒業できるよ。俺が保証する。君の願いは叶うよ」


 勝手に一人で話を進める男の人は、そう言うと何かに気が付いたかのように立ち上がり、誰かに向かって手を振った。

 手を振る先を見れば、そこには不思議なことにやたらとその男の人と顔が似た女の人がいて、穏やかな微笑を浮かべて手を振り返していた。

 双子だろうか。

 でも女の人の方の瞳は、茶色というよりは黄金に近く、僕の左眼とそっくりな色をしていた。


「じゃあ、すまないね少年。お迎えが来たみたいだ。ちょっとしたハネムーンはこれで終わり。俺はこれから皆が待ってるところに戻るんだ。この時代も結構素敵だけど、たぶんここは俺がいていい時代じゃないから」


 どことなく童顔な男の人は、最後に僕に握手をしようと手を差しだしてくる。

 正直気持ち悪いので触りたくなかったけれど、ここで握手を拒絶して変に怒らせてもあれなので一応受け入れる。

 あとでしっかり手洗いをすればいいだろう。


「これも何かの縁だ。君、名前はなんていうの?」


 男の人が僕の名前を訊ねる。

 こんな不審人物に名前を教えるのも危険な感じがしたが、なんとなく嘘を吐くのは躊躇われた。

 生理的に無理な感じはするけれど、根っ子は悪い人じゃないように思えなくもなかった。



「……ジト。僕の名前はジト・ダルクです」


「そっか。俺の名前はムト・ジャンヌダルク。なんだか、君のことは他人に思えないよ」



 ムト・ジャンヌダルク。

 その名前もこの時代では珍しいものではない。

 だけどその英雄の名にこれほど似合わない人は初めて見たかもしれない。



「君の願いは、きっと叶う」



 最後にそんな適当な言葉を残して、変な男の人は顔の似た女の人の方へ去って行った。

 すると不思議なことに二人が手を繋いで、もう一度僕へ向かって手を振ると、次の瞬間には姿を消していた。

 転移魔法だろうか。

 かなり高位の魔法だけれど、僕も一応使える。

 物を創造したり、他人の想いや魔力を悟って、近づくことが僕は昔から得意だった。



「ジト、お待たせ。大丈夫? ナンパとかされなかった?」


「された」


「えっ!? それ本当にっ!?」



 空を見仰ぐと、遠い空に二つの満月が薄らと見えていた。

 

 この平和な時代を見守るように、仲良さげに寄り添う二つの月。



 もしこの優しく穏やかな世界を創り上げたのが、ムト・ジャンヌダルクという名の英雄なら、ちょっとだけ感謝してもいい気がしていた。

 

 







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