飢えた銀狼①


 豪雨、その言葉を象徴する重鈍な雨滴と猛尽の強風に、ある一人の少女が晒されていた。

 時刻は早朝か、嵐の如き天候によってもたらされる水霧が辺り一面にただよっている。

 そんな中少女は風雨を凌ぐ事もせず、ただただ透き通る翠色の瞳を飢えた獣のように尖らせていた。


「……」


 すると少女は不意に立ち止まる。

 彼女の全身を覆う麻色の外套を雨水が芯まで濡らし、包み込まれた頭部の先からは水滴が零れていた。


「……」


 しかし少女は特別な反応や行動を起こす事もなく、再度一歩踏み出す。

 雨水によりぬかるみ、足場の不安定になった山道を彼女は一人歩き続けた。

 泥水が飛び、強い雨音だけが響き渡る。

 若々しい緑も見えず、まるで人気ひとけのない寂しい土道に彼女はいたのだ。

 やがてそんな彼女はまたも立ち止まる。

 だが今度は先程とは違い、フードの奥から覗く透き通る緑色の瞳に確かな意志が宿っていた。


「……誰?」


 聞こえるのは水滴が泥を穿つ音だけ。

 それでも少女は問い掛けた。

 そこに彼女以外の姿は見えない。

 しかし彼女は、まるでそこに何かがいるのを知っているかのように言葉を発した。


「君も一人なの?」


 少女は不意に一歩踏み出す。

 すると、道の端の痩せた雑木林の内から一匹の狼が現れる。

 体長は約三メートル程の、大きな狼だった。

 全身を匂い立つような銀色の体毛で覆わせ、ブラックダイアモンドのような瞳には感情は映らず、白い息の漏れる口からはナイフのような鋭歯が並んでいる。


「君は私に少し似ているわ。でも私よりもずっと美しい」


 少女は真っ直ぐに、突如姿を見せた銀狼を見つめる。

 そして寂しそうに、小さく呟く。


「でも残念。友達にはなれなさそうね」


 瞬間の跳躍。

 銀狼は曇天に向かって高く飛び、少女にその凶悪そうな爪と牙を容赦なく突き立てた。

 しかし彼女はそんな銀狼には一切目をくれずに、すかさず前傾姿勢をとり、中性的な声色で言葉を紡ぐ。


「《アックア》」


 少女と銀狼の間に、五個の水塊が現出した。

 透明の重弾は降りしきる雨水を巻き込みながら回転し、そのどれもが空中の銀狼に向かって行く。


 銀狼が再度吠える。

 それを合図にしたのか爪と牙から蒼白い雷電が飛び散り、高音の炸裂音を鳴らしながら水弾を切り裂いた。


 その隙に少女は素早く前方に身体を投げ出し、銀狼から一定の距離を取る。

 また、そのさいに外套のフードが外れ彼女の顔が暗い雨空の下に晒された。

 露わになった白銀の髪を雨に濡らしながらも、少女のエメラルドグリーンの瞳が動揺に迷う事はなかった。



「《スプレイトシュー》」



 空間が揺らぎ、泥水が舞い、蒼い竜が少女の手元から魔力の波動として解き放たれる。

 それを蒼電纏う銀狼も一切の狼狽なく迎え、殺気を咆哮に変え力を解放した。


「……くっ!」


 鳴り響く雷が落ちたかのような轟音。

 音に寄り添うのは、辺りを青白く照らす烈光。

 それら全てを受け止めながら、少女は更に力を振り絞る。


「《スプレイトシュー》!!」


 少女の手元からまた新たに現れる蒼の竜。

 蒼い双竜は複雑に絡み合い、青い暴雷で全てを灼き尽くす銀狼の命に牙を立てる。


 そんな雨水と泥土が吹き飛ぶ壮絶なせめぎ合いの中で、少女はある予感を覚えた。


(勝てない、わね)


 敗北はそのまま死に繋がる。

 少女は自分がそのような環境に身を置いている事を正しく理解していた。

 そして彼女は、自らの実力が目の前の銀狼に劣っているのを理解わかってしまった。

 敗北、死、人生の最期おわり、様々な負のイメージが彼女の脳裏に浮かぶ。


(……ここまで、かしら)


 少女は諦観する。

 しかし彼女の中に、不思議と恐怖はなかった。

 目の前で自分の全魔力を注ぎ込んだ蒼い双竜が弾き消されるのを目の当たりにしても、決して恐怖を感じる事だけはなかったのだ。


「かはっ!」


 やがて時は満ち、少女の放った魔法が完全に消失させられる。

 暫くの間遠くにあった雨音が近くに戻り、辺りに漂う白い水霧の中には、大地に片膝をつく銀髪の少女と、息を荒げる銀毛の孤狼だけが残った。


「……はぁっ……はぁ」


 動けぬ少女をいっとき見つめた銀狼は、自らの本能のままに次の動きを開始する。

 前脚に力を込め、泥状となった地を抉るように駆け出した。

 少女との距離を銀狼は一息に詰めていく。

 それを翠色の瞳に映す少女は、自分の命への覚悟の現れとして最後まで闘う事をとうに決意していた。


「《スプレイトシュー》」


 少女の周囲の雨水が彼女の手元に集まり、竜を形作る。

 そして見事に完成された水竜に少女は自分の魔力を流し込み、蒼色に染めた。


 ――三たび激突する少女の魔法と銀狼の魔力。


 しかし、威力の差は明らかで、銀狼の纏ういかづちは一瞬にして蒼の竜撃を蒸発させていく。



「……リエル」



 少女は無意識の内に言葉を漏らす。

 だが、その言葉が彼女の耳の届く事はなかった。

 なぜなら彼女の声は、別の力強い言葉に掻き消されたからだ。



「《アクラビュリンス》」



 所在不明の声が鼓膜に届いた後、轟々という大地が鳴動するかのような音と共に、突然の強い水圧の感触を少女は受ける。

 気がつけば自分が思い切りよく弾き飛ばされ、無様に泥の上を転がっている事を、彼女は混乱しながらも把握した。


(一体、何が?)


 全身を泥と雨に塗れさせ、呼吸をするのさえやっとの少女は、必死に自らの置かれた状況を認識しようと目を凝らす。

 すると彼女の視界には驚くべき様相が飛び込んで来た。

 なんと気づけば彼女の眼前には、道の幅一杯の液体で創られた歪な長方形が出現しているのだ。

 それはまさに水の牢獄そのもので、銀狼がその中で苦しそうにもがいていた。



「お前も運が悪いねぇ。こいつ“雷狼らいろうゼウルフ”、だろ? お前みたいな餓鬼には荷が重かったろうに」



 少女の背後から一人の女が姿を見せる。

 腰の辺りまで紫色の長髪をだらしなく伸ばし、垂れ目がちの二重瞼からはその髪の色と同じ藍紫色の瞳が気怠そうに覗いていた。


「……誰?」

「とりあえずケリ、つけとこうか」


 唐突に登場し、圧倒的な力で銀狼を無力化したとみられる女は、少女の疑問には答えず、更なる力を行使しようとする。


「《コールドケース》」


 女から白い闘気のようなものが一瞬煌めくと、前方の銀狼を捕縛する水の堅牢に異変が生じた。

 ピキピキという水の凝結音が響き、瞬く間に凍りついていく。


「こ、これは……氷属性の魔法!? 一部の魔法使いの頂きに近い者しか使えない筈の“派生属性”を扱えるなんて」


 少女は目の前で繰り広げられる別次元の魔法の行使に、ただただ驚嘆を享受するだけ。


「あー、寒い」


 ついに銀狼が完全に氷結させられ、そして砕け散った。

 舞い飛ぶ氷の破片は降りしきる雨に濡らされ、星屑のように輝く。

 先程まで捕食者として絶対的な力を見せつけていた銀狼の哀れな成れの果てに、少女は静かに見惚れていた。



「それじゃ、あたしは行くね。ま、感謝しなさいよ。そのくらいの歳でアレ相手に数分も持たせたのは凄いと思うけどさ」



 雨は止まない。

 冷たい霧山の中、銀髪の少女と紫髪の女が雨に濡れていた。

 女は泥に汚れた少女を一瞥すると、その場を去ろうとする。

 しかし、少女にはある思いつきがあった。

 その思いつきの為に、彼女は女を言葉で引き止める。



「私に魔法を教えてくれないかしら」



 少女の言葉は、容易くもう既に歩き始めていた女に追いつき、彼女を振り返らせる事に成功する。


「……は? お前、あたしが誰だか分かって言ってんの?」

「いえ。貴方の事は知らないわ。でも貴方が限りなく強力な魔法使いだって事はわかる。だからこうして頼んでるのよ」

「え? 本当にあたしの事知らないの? どこの田舎者だよお前」

「あら? 貴方って有名人か何かだったの?」


 女は勢いの増す雨粒に打たれながら、疲れたように溜め息を吐く。


「悪いけどあたしは結構忙しい身なわけよ。今だってかなり大事らしい仕事に行く途中なんだよね。だから悪いけど、お前にこれ以上構ってやれる暇はないの」

「そうなの? 見かけによらないわね。でもお願いよ。そこを何とか出来ないかしら。私は強くなりたいの」


 少女は真摯に女を見つめ、自分の企みの為必死に懇願する。

 だが女は再び少女に背を向け、手をひらひらと振り、これ以上は聞く耳を持たない事を暗に示した。


「私の名前はレウミカ・リンカーン。頼むわ。私に魔法を教えて」


 少女が声高々に再度自分の願いを叫ぶと、女の動きは不自然に止まり、驚きに目を白黒させながら少女の方へ振り返った。


「今、お前……何て言った?」

「え? 魔法を教え――」

「違うっ! 違うわよっ! 名前よ名前!!!」

「名前?」


 突然態度を豹変させ自分に詰め寄って来る女を、少女――レウミカは若干不審に思いながらも、期待を込めて言葉を続ける。


「レウミカ・リンカーン。それが私の名前よ。それがどうかしたの?」

「……レウミカ……リンカーン……なはっ、なはっ、なはははははっ!!!!!」

「何がそんなに面白いのかしら。もしかしたら人選を間違えたかもしれないわね」


 今度は打って変わり盛大に笑い始めた女を、少女は不気味そうに見つめる。


「なははははっ、なはっ、はぁ、まさかこんな偶然があるとはね……いいわ。レウミカ、お前をあたしの弟子にしてあげる」

「え? いいの?」

「いいわよ、気が変わったの。これでには貸しが出来たわね」

「あいつ?」


 不敵に笑う女を疑念の眼差しで眺めながらも、その女の魔術師としての実力は確かだという事は直感的にわかっていた。


「あたしの名前はクレスティーナ・アレキサンダー。これからよろしくね。レウミカ?」

「……ええ、よろしく頼むわ。クレスティーナ」



 雨は止まない。

 冷たい霧山の中、“九賢人”と呼ばれるこの世界で最高峰の権力と実力を持つ者の一人であるクレスティーナ・アレキサンダーと、銀色の髪と翠色の瞳を持つレウミカ・リンカーンという一人の少女が師弟関係を結んだ。




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