嵐の前に
「……ん? あれ、ここは……」
私には何がなんだかわからない。
真っ暗闇の夜、フカフカなベッドでぐっすり眠っていたら、いきなり毛布を剥ぎ取られたような感じかな。
見える景色はやけに眩しくて、なんだか目がしばしばする。
ここはどこ。私は誰。
どこかで覚えたそんな台詞が頭に浮かんだんだけど、笑えないことに本当にここがどこで私が誰かわからなかった。
「う、嘘だろ……? お、お、お」
近くから誰かの声が聞こえる。
どうやらここにいるのは私だけじゃないらしい。
少し気怠い私は、目元をこすりながら顔を横に向ける。
すると、そこにいたのは一人の青年。
頭には何か布を被って、胸の辺りにもこれまた変わった形状の布を巻きつけている。
変態。
ふと思い浮かぶのはそんな言葉。
この人に関わってはならない。私の本能がそう叫んでいた。
「オナホが喋ったぁぁぁっっっ!?!?!?!?!?!?!?」
「なんか起き抜けに凄い失礼なこと言われた気がするっ!?!?」
変態(仮称)は明るい茶色の瞳をひん剥いて絶叫する。
間違いなくわかるのは、この人が今口にしたオナなんとかが私の名前では決してないということ。
それだけは絶対に違う。
断じて認めない。
自分の名前すらわからない私にも、それだけはわかった。
「南無阿弥陀仏! 南無阿弥陀仏! カムバックマイパーフェクトオナペットッ!!!!」
「うっわ……なんだろうこの肌が粟立つ感覚。なんだか見ちゃいけないものを見てる感じがするんですけど……」
額を床に付け、お尻を上に突き出すという、極不自然な体勢で青年は手を擦り合わせている。
怖いよ。
得体の知れない恐怖感が凄いよ。
どうしよう私。
この変態にどう対応すればいいのかまったくわからない。
「なんてこった。マジで意味がわからない。一体俺はどうすればいいんだ」
「それはこっちの台詞ですよ」
やがて祈りのような所作を止め、頭を抱え始めた変態は突然ガバッとこちらの方を向く。
見つめ合う数秒間。
私は正体不明、完全危険生物である変態の瞳に、怪しい光が宿ったことに気づいた。
その明るい茶色の瞳はどう考えてもイッちゃってる。
逆立つ鳥肌。身の危険が迫っている。
というか鼻からボタボタ血が流れ落ちてるけど平気なのかな。
「いや、よく考えたらこれはこれでアリじゃないか? べつによくない? チャット機能付きロリータラブドール……イケる。全然イケる……むしろギンギンタラスだぜぇ……」
「ちょ、ちょっとあの? 顔が完全に決まっちゃってるんですけど? 大丈夫ですか? 大丈夫なんですよね?」
なぜか舌を外に出し、高速でレロレロさせ始める青年に、私は原始的な恐怖を覚える。
これはマズイ。
何がマズイのかはわからないけど、とにかくマズイ。
私は手元の毛布で、自分の身を覆い隠した。
「フヒィ……! ハッピィィバァスデェェェ……! 粋なサプライズプレゼントに感謝だなぁ……さあレッツパァリナイとたらし込もうじゃないか……」
「ちょっ、ちょっとあの!? それ以上近づかないでくれますかっ!? 聞こえてます!? 聞こえてますよね!?」
なぜか両手を掲げ、指を素早くワキワキさせ始める変態に、私は悲鳴を小さく漏らす。
これはヤバい。
何がヤバいのかはわからないけど、とにかくヤバい。
私は背側の壁に、身をピッタリと寄せつけた。
「俺は逃げないっっっ!!!!! 世界に感謝をっっっ! いただきまぁぁぁすぅぅぅぅっっっっ!!!!!!」
「きゃああああああっっっ来ないでぇぇぇっっっっ!!!!!!」
変態が飛び跳ねる。
というより私に襲いかかってくる。
反射的に動く、握り締められた鉄拳。
「うげっ――」
運が良いのか悪いのか、変態の顎と首の間に私の拳がクリーンヒット。
潰された蛙のような声を出して、その人の顔がブルンと揺れる。
あれ? そういえば蛙ってなんのことだっけ。
「――げぇぇぇっっっっ!!!?!!?!?」
そんな風に私が暢気なことを考えてる間に、変態は物凄い速度で吹っ飛んでいった。
それなりにしっかりしてそうな造りの扉も木端微塵。
破片は宙にばら撒かれ、変態は闇を駆け抜ける星のように煌めいて消えていく。
「うん。私の行動は正しかった気がする」
静かになった部屋で一人、私は自分の置かれた状況を顧みる。
目が覚めたら、目の前に変態がいました。
実にシンプルだが、どう考えても情報不足。
結局ここはどこで、私は誰だ。
「あれ、でもなんかこの部屋見覚えがあるな。それに私の名前は……」
改めて自分の周りを見渡すと、空っぽ過ぎて逆によく回る頭が何かの引っ掛かりに気づく。
大きな鏡の向こう側から、真っ黒な瞳が私を見つめ返す。
新鮮だけど懐かしい。
すっごく不思議な気分だ。
「……マイマイ?」
自然と口に出た言葉の意味が、私にはやはりわからない。
わからないことばかりでイライラしてきた。
事情を知ってるであろうのはあの変態か。
うわ。最悪。ガン萎えなんですけど。
「とりあえず服着よ」
なぜか素肌をそのまま空気に晒すのが気恥ずかしくなってきた私は、近くにあった棚に手を伸ばし、そこから適当な服を手に取る。
あれ? なんで私、ここに服があるってわかったんだろう。
まあ今はわからない疑問は棚上げして、今はできることに集中。
そんな感じで衣服を漁っていくと、ある物を手に取ったところで深い溜め息が出る。
落ち着かない気分はそのままで、私は自分の予想が正しかったことに気づいたのだった。
「……これ絶対頭に被るものじゃないよ」
――――――
星が綺麗ですね。
まあ空は見えないどころか、ここ室内なんだけど。
空漠な思考。俺は仰向けに寝転びながら、自分の穏やかな心音に耳を澄ませていた。
「それにしても困ったな。この展開は予想してなかった」
いい加減冷たくて固い床にも飽きてきたので、ヒリヒリする顎下を撫でながら立ち上がる。
松明代わりの発光球体は俺の頭上に浮かんだまま。
思い切り殴りつけられた顎を触ってみるが、腫れる気配はなさそうで安心だ。
さて、もう息子もしっかり大人しくなってしまったし、これからどうするか。
「そこから動かないでください。少しでも不審な動きをしたら、また殴りますからね」
「あ、服着ちゃったんだ」
途方に暮れる俺の目の前に、あからさまな警戒心をあらわにする一人の少女が姿を見せる。
深い蒼色をした髪は肩甲骨の辺りまで伸び、胸は絶壁とまではいかないが小ぶりの範囲内。丸い黒目からは猜疑心がこれ以上なく溢れ出ている。
理想の女性像の面影はほとんどないが、間違いなく俺が創り出した人形がそこで息づいていた。
「それで、貴方は誰なんですか? 私には現在の状況がサッパリわからないんですけど」
「それはこっちの台詞だよ。君こそ誰なの? というか君、本当に生きてる?」
「知らないですよ、そんなの。生きてるってどういう状態のことを指すんですか?」
なんだこいつ。哲学者か?
皮肉で言っているのか、本気で言っているのか定かではないが、少女も自分の状態を正確に理解していないようだ。
とりあえず会話をこなしていくしかないか。
なんだかんだで今も相当な美少女であることには変わらない。
時間が経てば経つほど、俺のテンションはもう一度アクセルを踏み込んでいく。
「じゃ、じゃあまあ、とりあえず自己紹介から始めようか。俺はムト。ムト・ジャンヌダルクだ。ムト様、もしくはご主人様と呼んで貰って構わない」
「ムト・ジャンヌダルク、そうですか。わかりました。それじゃあ呼び方は後で決めるとして、私の名前は……マイマイ。たぶん、マイマイです」
「たぶん?」
「はい。自分の名前って言われると、なんとなくそんな言葉が頭に思い浮かぶんです。だけど本当のところはどうかわからないですね。実は私、さっき目覚めたとき以前の記憶がまったくないんですよ」
なんだこいつ。カタツムリか?
そしてまさかの、いやある意味予想通りの記憶喪失。
こういった場合喪失とは言わないかもしれないが。
それにしてもなぜ突然人形に心が宿ったのだろうか。
まるで心当たりがない。
あれ? 心があるのに、心当たりはない……俺結構上手いこと言ってね?
「それで、変態さん。この状況を説明してくださいよ。なんで私はこんなところにいるんですか? というかここどこですか?」
「説明しろと言われてもなぁ。俺にもよくわからないんだよ。なんで君に心が宿ったのか。あとここがどこなのか、俺も知らない」
「え? 心が宿った? どういう意味ですか変態さん?」
「ああ、君のその身体は俺が魔法で創ったものなんだよ。でも命まで授けた覚えはないし、そもそもそんなこと俺はできないと思う」
魔法で心を創り出す。
さすがにそんなことはこの世界でも不可能だろう。それこそ神でもない限り。
というかこの子さっきから、ナチュラルに俺のことディスってない?
生まれたての、しかも俺が創った人形のくせに生意気じゃない?
俺がダウナー系コミュ障だとすれば、こいつはアッパー系コミュ障でまず間違いないだろう。
「え? 魔法で創り出したってことは、貴方が私の生みの親ということですか? 嘘。超ショックなんですけど……というかなんのために私を?」
「ああ、それはね、君を俺専用のラブド――」
「すいませんやっぱり理由は教えてくれなくていいです。なんだか私の中の、小さなマイマイがそれ以上は聞いてはいけないと言っているので」
「そ、そう?」
なんだこいつ。伸びしろですか?
まあそれは置いといて、本当にどうすればいいんだ。
この自我の強さからして、もう本来の用途に役立てることはできないだろう。
じゃあどうする。子連れ狼的な感じにしてみるか?
あれ? 結構ありかもしれない。
よし。それでいこう。記憶がないと言っていたし、上手いこと調教できるかもしれない。
ぐへへ。おっといけない、涎が。
「うっわ……今、また碌でもないこと考えましたね? 最悪です。変態です」
「そ、そんなことないっての。それにさっきから、俺の呼び方おかしくない? 俺が選択肢に提示したもの全然使ってないじゃん」
「だって様付けはちょっと……ねぇ?」
「ねぇってなんだよねぇって。じゃあ呼び捨てでいいよ呼び捨てで」
「ごめんなさいそれも嫌です。なんか、ムトって言葉の響きを聞くと、胸がチクリと痛むんですよね。というか軽く腹が立ちます。だからやっぱり変態さんでいいですか? あ、呼び捨てでいいんでしたっけ。じゃあ、変態。私を創ったんだからある程度は面倒みてくださいよ」
口の悪いオナホだぜまったく。
俺のどこが変態なんだどこが。
あ、しまった。そういえばまだパンツィとブラを装備したままだった。
これはいけない。
そのせいで第一印象が少し悪かったのか。
ちょっと思いやりが足りないんじゃないか? そういうのは先に言ってもらわないと。
「わかったじゃあ、こうしよう。俺のことはマスターって呼んでくれ。はい! 復唱! ご機嫌麗しゅう? マイマスター!?」
「わかりました。じゃあご主人で」
「あ、そっすか」
こいつ、できる……!
まさかこの一瞬のやり取りで羞恥プレイを完成させるとは。将来性大だな。
なんか盛り上がってきたぞ。
ちょっと興奮してきた。
「ふっふっふっ! マイマイ、君は俺に着いてくるつもりなんだよな? なら条件が一つある!」
「えぇ、凄い嫌な予感がするんですけど。やっぱり一人で生きていこうかな。わからないことばかりだけど、ご主人と一緒にいるよりはマシな気が――」
「ノォォウ! 君を創り出したのは俺! つまり所有権も俺にある! 当然俺の命令には従ってもらう!」
「知らない間に私の自由意志がなくなってる!?」
両肩を抱き、怯えを多分に含んだ瞳は薄ら潤んでいる。
なんだかこれ、俺凄い悪者みたいだな。
たしかにこのシチュエーションはそそるけど、別にそこまで常識外れのことをやるつもりはない。
なんだかんだで、この子と一緒に旅をすることに俺は期待してるんだから。
ただちょっとだけ俺のわがままを聞いて欲しいだけだ。
「大丈夫。大丈夫。なにも怖くないよ。怯える必要はないのだよお嬢ちゃん」
「その喋り方が何よりも怖いんですけど……」
「まあまあ、君には少し着替えてもらいたいだけだよ」
「着替える?」
この世界では一般的な赤茶色の服。
質素で飾り気のない服を現在我がホムンクルス? アンドロイド?
よくわからないが、そんな感じのマイマイは着用している。
だが、この子と俺の関係性を考えたら、着るべき服はたった一つだろう?
「《メイド服》!」
「うわっ!? なんか出た!?!?」
そう、メイドプレイだ。
おっと少し言葉を間違えた。
そう、メイド見習いだ。
それこそが彼女にとって適切な役柄と考えられる。
白と黒でゴシックにテーマされ、ふりふりもしっかりとついたオーソドックスなメイド服。
それを俺は魔法で創り出し、妄想に再び鼻血が出るのを我慢しながらマイマイに手渡した。
「こ、これを私が着るんですか?」
「うん。その服は君のためにちょっと創ってみたんだ。なーに、ちょっとした誕生日プレゼントだと思ってくれればいい。君にそれを上げるからさ、ほら、早く着てみてよ!」
「そ、そうなんですか。ご主人のそのギラギラした目がなんか怖いですけど……でも、ありがとうございます。け、結構可愛い感じの服ですし」
「だろう!? 絶対似合うって」
「わ、わかりました。じゃあちょっと着替えてきます」
「え? ここで着替えないの?」
「着 替 え て き ま す」
マイマイは得体のしれない威圧感で俺を黙殺すると、なぜか猫背でさっきの寝室に引っ込んでいった。
でも楽しみだな。
この世界基準の美少女があの魔装に身を包んだら、一体どれほどの破壊力があるのだろうか。
はやる気持ちを抑え込むために、俺は正座で待機する。
「……着替えましたけど。ど、どうですか……?」
「おお、これは……!」
しばらくしてマイマイは、再びその姿を俺の前に見せる。
これ以上手入れは必要なさそうな程美しい蒼い髪と、頬がちょっぴり紅潮した黒目の大きな童顔は先ほどと変わらないが、その身から放たれるオーラはもう色がつくほどに変貌を遂げていた。
「やっぱり、変じゃないですか……?」
「ばばばば馬鹿たれぇっ! 最高じゃっ!! 最高過ぎるわいっ!!! これを変と呼ぶ輩がいたら、そいつの陰口いっぱい言ってやるわいっ!!!」
「むしろ変なのはご主人みたいですけど……褒めてくれてありがとうございます。あれ? それって褒めてくれてるんですよね?」
思わず口調にバグが発生するほどに、可愛らしマイマイのメイド姿に、俺のテンションは一気にマックスへ駆け上がった。
照れたように上気した頬をポリポリと掻く仕草も、これまたグッドである。
感激で涙が出そうだ。
まさかこの俺に、専属メイドが付く日がくるとは。
「カッワイイ! カッワイイ! カッワイイ! カッワイイ!」
「あ、ありがとうございます……でも、もう大丈夫なんで。というか本当恥ずかしいんでもうやめてください……」
そして俺はマイマイの周りをグルグルと、可愛いを連呼しながら結局三十分ほど踊り続けた。
――――――
灰色の空に一条の白線が走り、ダイダロスの森海と呼ばれる果て無く広がる樹林に、閃光が音もなく顕現する。
その白光を知識ある者がみれば、そう口にするだろう。
すぐに光は掻き消え、残るのは二つの影だけとなった。
「…ここより先は、魔力濃度が強すぎて転移できなかった」
「構わない。ここから先は、私一人で行く」
大きな影は静かに言葉を返す。
二人のうち一方は世界最高の光属性魔法使いとして名高い、ユラウリ・カエサルその人。
そしてもう一方は、黒髪の男。
自分と頭が何個分も違うほどの巨躯を持つ隣りの男に、ユラウリは視線を合わせようとするがそれは叶わない。
「…八番目、マイ・ハーンはこの森の最奥。場所はわかってる?」
「ああ、問題ない」
低く暗重な声で、男は短い言葉を重ねる。
その際にユラウリへ視線を移すことはただの一度もなく、深紅に染まった瞳は深く深く続く木々の先に注がれるのみ。
やがて一歩分、男は前に踏み出す。
それは合図。
彼と同じ九賢人が横に立つことすら拒絶する、強者の宣言。
「あの化け物は私が連れてくる」
「…わかった。また一週間後、ここに迎えに来る」
おもむろにユラウリは、もう一度転移魔法を発動させる。
消費される魔力は常人では想像する困難な量のはずだが、彼女は眉一つ動かさない。
そして可憐な少女の姿は消え、ついに残されたのは異質な雰囲気を漂わせる男がただ一人。
「嵐が近い……」
男は一度、緑葉の隙間から覗く曇天に見やると、指に付けられた宝玉に触れる。
瞬時爆発的に満ちる重苦しい魔力。
代償は“共感”。
他者の感情を推し測る心を代償に、男は全てを壊滅させる力を発現させた。
“重圧の二番目”――ガロゴラール・ハンニバル。
彼は自らが破滅の一端を担っているという自覚があったが、それ以上の感想は持ち得ない。
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