灰色の門出




 途轍もない大きさを誇る灰色の壁に囲まれた町の正門付近、そこには漆黒の門が町に入る者を拒絶するかのように聳え立っている。

 普段その門が使われることはないのか、重々しい大門の横には町中へと続いているであろう通り穴が確認できた。


「着いたみたいね」

 

 そんな異様な町——サンライズシティの入り口の前に立つ一人の男。

 肩口まで伸びた真紅の髪。

 長い前髪の隙間から覗く明るい茶色の瞳。

 全身を覆う黒一色の服装。

 サンライズシティには門番といった役割の人間はいなかったが、もしいれば必ず引き止めるであろう不審な男だ。

 特に男の肩の上に乗る美しい銀の毛並を持つ猫が、その怪しさを増幅させていた。


「辛気臭い町だ。負け組の匂いがここまでする」

「相変わらず口が悪いわね。町の人に直接言わないでよ?」

「知らん。俺は俺の思ったことを言う。その決定に他者の感情は介在しない」

「貴方に友達ができない理由がよくわかるわ。保護者として貴方の将来が心配よ」

「うるさい。お前はいつから俺の保護者になったんだ。さっさと行くぞ」


 銀の猫は黄金の瞳を輝かせて、流暢に人語を話す。

 この世界において人の言葉を話す猫というのは、珍しいを通り越してありえない存在であり、そのような一種の化け猫を肩に乗せ、軽快に言葉を交わす男は明らかに異常だった。


 そして男は一切の足音を立てず、吸い込まれるようにサンライズシティの中へ吸い込まれていく。

 



――――




 いつも通りまるで人気のない殺風景な景色を眺めながら、サンライズシティの住人ダンは手元のリンゴを齧る。

 味が大分悪くなってきている。

 品の売れ行きもよくない。

 あと数週間もすればここを出るといっても、ここまで町の寂れた風景を見ていると、この町の限界がわかり少し悲しい気持ちになってしまう。


 

「おはよう。ダン」

「あ? ……ってミキエさんじゃないですかっ!? お、俺に何か用で?」

「ううん、別に。ちょっと様子を見に来ただけだから。それと、そんな畏まらないでよ。ダンは私の命の恩人なんだから」

「い、命の恩人だなんて……」


 

 ダンは突如かけられた言葉に、しどろもどろになる。

 声の主はミキエ・マッカートニーという一人の美しい女性だ。

 アミラシル人らしい艶のある赤髪に慈しみ深い黒瞳。

 女神のような魅力溢れたミキエに見つめられるだけで、ダンは顔が真っ赤になってしまう。


「本当のことじゃない、ダン。貴方がくれたあの薬がなかったら私は今、ここにはいないわ。感謝してもしきれないくらいよ」

「い、いえ! あれくらいのこと、気にしないでください!」

「あれくらいのこと? じゃあダンはあの薬を誰彼構わずあげるの?」

「いやっ! あれはミキエさんだったから! ってあ! 今のは別に特別な意味じゃなくてっ! いやいや特別なんですけどっ! そういう意味じゃなくてっ! 今の特別っていうのはそういう特別じゃなくてっ!」

 

 ダンが真っ白になった頭でわけのわからないことを口走っていると、ミキエがほんの少し頬頂を赤く染めて小さく笑う。

 

「もう。そんなに特別を連呼しないでよ。恥ずかしいじゃない」

「あ! すいません! 俺はそんなつもりじゃ」

「ふふっ、じゃあ私はもう行くわね。……ホグワイツまでの道案内、よろしくお願いします」

「え? ……あ、はい!」


 ミキエは口を抑えて笑うと、踵を返して灰色の石畳を歩き去って行った。


(いい歳してなんて有様だよ俺は)


 ダンは自分で自分が恥ずかしくなった。


「こんなんで大丈夫かよ」


 ホグワイツまでの道案内。

 それをミキエから頼まれたのはほんの数日前だった。

 何でも、クレハとコノリが宝玉が手に入れたっていうのは、過程はともかく本当のことだったらしく、その宝玉を売り払いにホグワイツに向かうそうだ。

 最初はここら辺で宝玉を売り払うつもりだったらしいが、アミラシルでは宝玉に大きな税がかかってしまう。

 だがその点ホグワイツでは宝玉に対する税は免除される。だからわざわざホグワイツ王国まで行くんだと言っていた。

 そこまでするとは、相当良質な宝玉を手に入れたんだろう。



「おい」



 唐突に鼓膜に響く低音。

 一瞬呼吸を忘れてしまうほど驚いたダンは、慌てて変化の元を探す。


「お前、この町の人間だな。質問に答えろ」

「……あ? 誰だお前は?」


 押し潰されそうな圧迫感を醸し出す一人の男。それが変化の正体だった。

 いつからそこにいたのか分からない黒ずくめの男。

 手入れを思わせない真紅の髪と黄茶の瞳からはアミラシル人の血を感じるが、少なくともこの町では見たことのない顔だった。


「大丈夫よ。手荒な真似をするつもりはないわ。大人しく幾つかの質問に答えてくれればいいの」

「な、何だっ!? ま、魔物かっ!?!?」


 ダンの意識は不審な男から、その肩に乗る一匹の猫へと移る。

 ありえない。喋る猫など。

 そんな魔物きいたことがなかった。


「ラー、お前は黙っていろ。話がややこしくなる」

「あら、寂しいわね」


 ごくりと、生唾を飲み込む音が聞こえる。

 ダンの身体が知らぬ間に緊張状態に陥ってんだ。

 

(こいつらはヤバい)


 ダンの生存本能が悲鳴を上げていた。


「この町に最近黒い髪の男が来たはずだ。そいつは今どこにいる」

「お、お前は、一体?」

「黙れ。お前の質問には答えない。俺の質問に答えろ」


 男から放たれるプレッシャーが増す。

 こいつらは危険だ。心なしか銀毛の猫も、自分を嘲笑うかのような表情を浮かべている気がする。


「黒髪の、男か?」

「そうだ。つい最近この町に来ているはずだ」


 黒髪の男、思い浮かぶのはたった一人だ。

 全てを投げ捨ててでも欲しかった、たった一つの魔法を俺に授けて消えてしまった一人の青年。


「……ああ、知っている。そいつなら一週間ほど前に確かに見かけた」

「どこだ。そいつは今、どこにいる」

「わからない。だが、恐らくこの町にはもういない……と思う」

「…………」


 ダンがそう答えると、男は刃物のように鋭い視線を突き刺してくる。

 疑っているのだろうか。だがこれは真実だった。

 あの青年に貰った薬で実際にミキエの病状が治った後、ダンは町の中を隅から隅まで探し回った。

 ダンは彼に感謝の言葉も、謝罪の言葉もまだ言えていない。


「嘘は言ってないと思うわよ? 大体、相手は世界最大の犯罪者集団の一味でしょ? 嘘を言う必要がないじゃない」

「こいつが正体を知っているわけじゃないだろう。だが、嘘は言ってなさそうなのは同感だ」


 銀の猫がまた口を開く。

 その妖しい黄金の瞳が向けられると、心の奥底まで見透かされているような気持ちになってしまう。



「なら、ここにはもう用はないな。行くぞ」

「あら? もう行くの? 少しくらいゆっくりしていったら? セト?」



 ——セト、すでに背中を見せ、ダンの前から遠ざかっていく男を、銀毛の猫はたしかにそう呼んだ。



「必要ない。すぐ近くにいるんだ。急ぐぞ」

「行くってどこによ」

「……北だ」

 

 セト、その名をダンは聞いたことがあった。

 信じられない。これは不味い。

 ダンは自分がまだ生きているのが不思議なくらいだと思った。



「セト・ボナパルト……これまで八人しかいなかった賢人の歴史を変えた、“開闢かいびゃくの九番目”……!」



 あっという間にその姿を消した男の顔を思い浮かべる。

 九賢人、それはまさに超越者。

 彼らの存在そのものがルールだ。

 その内の一人と今の今までダンは対面していたのだ。信じられなかった。


(あいつ、本当に何者だったんだ?)


 衝撃は時間と共に薄れていき、考えるのは青年のことだった。

 不治の病といわれていたミキエを治す薬を、知り合いでも何でもない自分に渡し、九賢人の一人に追われるあの青年。


(俺はとんでもねぇ奴に借りをつくっちまったんじゃねぇか? 次あいつに会うとき、俺は言葉をかけられるのか? あいつは俺ごときが関わっちゃいけねぇ奴だったんじゃないのか?)


 空を仰げば真っ赤な太陽が眩しく輝いていて、何かが変わる予感を告げているようだった。




――――――




 人生とは急展開の連続である。

 これは昨日俺が生んだ名言だ。

 三十三年間もの間圧倒的低スペックから繰り出される負のオーラによって、彼女はおろか男友達すら出来なかった俺にはいま彼女がいる。

 そう彼女、つまりガールフレンドだ。

 昔の俺だったらこんなことを自分が言い出したらメモ帳に、自分-精神錯乱の疑いあり、と書き加えていたことだろう。

 だが今の俺はそんなことはしない。なぜなら今の俺は昔とは違うからだ。

 何が違うかといえばまず顔が違う。今の俺はイケメンだ。それにスタイルだって中々のものだ。

 もちろん俺は慎重で疑い深い男だから、それだけの理由でこれが幻想や美人局ではないと確信しているわけではない。

 一番の理由はまさにこの俺の彼女そのものにあるのだ。


「なあルナちゃん! 君は本当に可愛いなぁっ! ぐへへへへっ!」

「もし私の容姿について可愛いと言っているのだとしたら、その認識は間違っています。私の顔立ちは世界的にも平均なものですし、身長に至っては世界平均より大きく下回っています」

「まーた照れちゃって! いいんだよそんな謙遜しなくても? まだ小さいのに偉いなあルナちゃんはっ!!!」

「いえ、照れなどという感情を現在私は抱いていません。それとその小さいというのは私の年齢についての感想ですか?」


 な? わかるだろう?

 こんないじらしい少女が俺を騙し壺を買わせるような悪行をするはずがない。

 それに俺は今彼女と手を繋いでいる。とても小さくて柔らかくて暖かい手だ。

 これもルナが妖精や幻覚の類ではないということを証明している。

 身長は百四十センチほどで金の美髪をツインテールに纏めた碧眼の少女。鼻は小ぶりだが形が完璧で唇はほんのりピンク色。

 もう最高だ。こんな子が俺の彼女になってくれるなんて。

 世界は俺をロリコンと嫉妬を込め呼ぶだろう。

 だがそんなものは関係ない。俺は天使を手に入れた。愛は年齢の壁を超えるのだ。


「それで、結局ムトさんはこれからどこに向かうつもりだったんですか?」

「そうだなぁ、一応、公認魔術師オフィシャル・ウィザードを目指してるのかな?」

「……なぜ最後が疑問形なのかはわかりませんが、それは現在、国際魔術連盟本部があるオリュンポス島に向かっているということでよろしいんですか?」

「うん? オリュンポス島? なにそれ?」

「え?」

「ん?」


 ルナの表情が困惑に歪む。

 彼女を野犬の群れから救い出して、俺のイケメンっぷりを見せつけてからまだ一日しか経っていない。実は昨日は俺がテンパってしまってよく会話ができていなかったのだ。

 まあ当たり前だろう。

 美少女にいきなり告白されたのだ。思考回路が正常に戻るまでに、二十四時間かかるのはいたって普通のことだ。

 実際、今しているこの会話が出会ってから初めてのまともな会話だと思う。


「え、えーと、公認魔術師オフィシャル・ウィザードを目指しているということは、魔術師試験を受けるということでいいんですよね?」

「う、うん? 多分そうなのかな?」

「ということはつまり、魔術師試験ウィザード・テストが行われる会場でもある、オリュンポス島の国際魔術連盟本部に向かっていると思ったのですが」

「あ、ああ。そうなんだ。魔法使いになる試験って、そのオリュンポス島とかいう場所でやるんだね。初めて知ったよ」

「え?」

「ん?」


 ルナは形の良い眉を顰め小首を傾げる。

 可愛いは正義。聡明な誰かが言ったその言葉を俺を強く実感する。


「え、えーと、ムトさんは公認魔術師オフィシャル・ウィザードを目指して旅をしているということでよかったんですよね?」

「う、うん。多分そうだよ。公認魔術師オフィシャル・ウィザードって職業の1つなんでしょ?」

「はい、そうですが。なんだかその割には知識が乏し過ぎる気がして」

「あー、そういえばまだ言ってなかったっけ? 実は俺記憶喪失なんだよね」

「記憶喪失、ですか」


 よく考えたら俺はルナの事を名前以外知らないし、彼女にも俺の名くらいしか教えてなかったな。

 これはカップルとしては実に不味い状況だろう。

 あまりにも舞い上がってしまったため、様々なことを情報交換できていない。

 これから老後を見据えて付き合っていくんだ、もっと互いによく知るべきだろう。

 といっても、俺は早速まるっきり嘘の設定を口にしているのだが。


「そうなんだよ。俺記憶がなくて、それで魔法にだけは自信があるから、とりあえず魔法使いとやらを目指してるところなんだ」

「なるほど」

「それで? ルナちゃんはどうして1人であんなところに?」 

「あー、私ですか」


 金色で絹のようなツインテールを輝かせて、ルナは少し考え込む。

 彼女の両親にも挨拶をしなくてはならないし、色々と訊くべきことが考えれば考えるほど思いつく。


「……それは、うーん、えーと、とりあえず秘密ってことでいいですか?」

「秘密? い、いや別にいいよ!? 全然大丈夫! むしろスパイスですからっ!!!」

「スパイス? まあとにかくすいません。考えるのが面倒で」


 何か理由があるのだろうか、ルナは相変わらず無表情のまま軽く頬を掻くだけで、秘密などという言葉を使う。

 しかし出自を明かさない謎の美少女。これはこれでありだろう。

 大体俺自体ありもしないでまかせを言っているんだ。他人のことをとやかく言う資格はない。

 それに女の子は秘密の一つや二つ持っているのが常識だ。

 童貞の俺でもそのくらい知ってる。


「では話を戻しますが、オリュンポス島に向かうのならば、どのルートで行くつもりなんですか?」

「ルート? ごめん、俺、この世界の地理もよくわかってなくて。ルナちゃんのオススメのルートとかある…?」

「え。北に向かって歩いているので、てっきりアミラシルの首都アポロンに、とりあえず行こうとしているのかと思っていたのですが」

「北? へぇ、こっちが北なんだ」


 馬鹿みたいな荒野を俺は、一応太陽に向かって進んでいるつもりだった。

 そしてどうやらこの世界では、太陽は北から昇るらしい。

 自転の方向が違うのか、はたまた公転が前世とは異なるのか、頭の弱い俺には判断がつかないが、別に気にすることではないだろう。


「まあ、せっかくここまで歩いてきたのですから、このままアポロンを目指せばいいんじゃないですか? アポロンから出てる魔法特急に乗って港町シーサイドへ行き、そこから船でオリュンポス島を目指せばいいかと」

「ん? ちょっと待って!? 今、魔法特急とか言わなかった?」

「え? はい。言いましたけど?」


 ルナが何気なく使ったあるワードが俺の関心を捉える

 そう、魔法特急。この言葉から連想されるものはたった一つだ。

 しかしでも、あり得るのか?

 俺の考えるこの世界の文明レベルでは存在しないはずの、あの乗り物が実在しているというのか?


「ああ、もしかして魔法特急に乗ったことがないんですか? どうやらこれまで相当開発の遅れた地域にいたみたいですね。魔法特急というのは沢山人を一度に運んでくれる機械です。魔法運搬機器マジックビークルというのが正式な名称ですかね」

「へ、へぇ。そんな便利そうなものが」


 こいつは驚いたな。

 俺は記憶喪失設定の嘘がバレないよう気をつけながら、なんとか言葉を返す。

 まさかこの世界に電車らしきものがあるとは思わなかった。

 これはもしかするとパソコンも都会に行けば見つかるかもしれない。

 ディスビデオハズビーンデリーテッド。過去の絶望すら今や懐かしい。


「それでは結局、アミラシルの首都アポロンに向かうということでいいんですか?」

「う、うん。そ、そうだね! 行こうじゃないか! 首都アポロンへ!!」

「わかりました。設定的に道はどうせ知らないと思うので、私が先導しましょう」

 

 なんだか興奮してきたぜ! やっぱり田舎は糞なんだな! 都会万歳!!!

 俺は思わず現れた高水準な生活を送れる可能性に、精神を昂らせる。

 ルナの細くて柔らかい手を握る右手にも力が入ってしまい、風が肌寒い季節だというのに手汗が俄然滲み出た。

 


「ルナちゃんは俺にとって、幸運の女神様だね。君に出会えて本当によかった」

「……どういう脈絡でその台詞が出てきたのかわかりませんが。えーと、まあ、ありがとうございます」



 ルナは何ともいえない表情で俺から目を逸らす。

 きっと照れているんだろう。なんともまあ可愛いじゃないか。


 ――俺は腰の位置で揺れる、刃が剝き出しの黒刀の存在を意図的に無視して、至上の至福を噛み締める――、


 突如超絶可憐な金髪碧眼美少女が彼女になり、想像以上にこの世界の文明は俺にとって快適そうだ。

 俺とルナ。

 二人の幸せなシティーライフを夢想し、顔はだらしなくにやけてしまう。

 空は雲一つない晴天で、俺の明るい未来を暗示しているかのようだった。

 俺の思い描いていた世界が、やっと始まる。




――――――




 全くもって意味がわからない。

 少し前を歩く黒套の青年の頼りない背中を眺めながら、私は思わず漏れそうになる溜め息を噛み殺す。

 いま私は自らをムト・ジャンヌダルクと名乗る要注意人物と共に、アミラシルの首都アポロンに向かっているところだ。

 魔物の群れに襲われていた不運な女としてムトに近づき、正体がバレるまで情報を集めるのが私の役目なのだが、これまた意味のわからない状態になっている。


「ルナちゃ〜ん。俺、思うんだよね。人生、何が起きるかわからないじゃん? 最低最悪の人生が続いたとしても、ある日突然幸運が降り落ちてくるかもしれない」

「はい」

「捨てる神あれば拾う神あり、っていうのかな? 逃げるように生きてるだけでもさ、実は前に進んでるかもしれない、みたいな?」

「はい。つまり何が言いたいんですか?」

「要するにルナちゃんはめちゃくちゃ可愛い女神様だっていうことだよんっ! もう言わせんなよ恥ずかしいっ!! キャッ!」

「……はあ、そうですか」


 本当にまるで意味がわからない。

 なぜこんな事になったのかサッパリわからない。

 私の予想ではまず接近は失敗し、捨て身覚悟の戦闘に陥るはずだったのに、なぜかこうして仲良く(パッと見では)2人で旅をすることになってしまった。

 もちろんこれは私の諜報が成功しているわけではない。

 ムトの真意は不明だが、完全に私を敵対者だと見破った上でどうやら泳がせているみたいだ。

 初対面時の私への警戒は凄まじいものだったし、現在も嫌がらせかと思うほど不自然な対応をとってくる。

 私の想定では彼の実力は非常に高いので、戦闘にならないのならそれはそれで嬉しいのだけど。


「そろそろ日がくれますね。野宿の準備をしましょうか」

「うん? あ、そうだね。も、もうそんな時間か」


 私がいつものように野営の時間を告げる。

 この青年はこの数日間で私に見せつけた、化け物染みた無尽蔵の体力を武器に、休憩もなしにひたすら歩き続けるのが常だ。

 これも嫌がらせの一環だろう。日中はずっと理解不能な言葉を喋り続けて、体力だけでなく精神的にも嫌がらせをする徹底ぶりなのだから。


「は、はぁ〜ん? よ、夜か〜? どうする? 今日の夜は、そ、その、あの一緒に――」

「食料もありませんし、野営の準備が出来たらさっさと寝てしまいましょう。私はあの辺りで寝ますので、ムトさんはこの辺でお願いします」

「ハ、ハーイ。リョウカイデース」


 唐突にムトのテンションが下がり声の調子が平坦になるが、これは就寝の時間帯になると毎度のことだ。

 おそらく彼なりの何かメッセージがあるのだろうが、私にはそれがわからないし、別にわかろうとも思わない。

 自分のことを平然と記憶喪失だと嘯き、私のやる気ない自己紹介にも突っ込みを入れない男だ。

 どうせろくなメッセージではないだろう。


「あ! ルナちゃん! 寝る前に水はどう?」

「そうですね、いただこうと思います」

「おっけっ! 《水でろ》!」


 野営の準備がひと段落したところで、ムトが私に水分の補給を勧めてくる。

 この数日間、一切の食事に関する話題は出さないくせに、なぜかこの男は水だけはやたら飲ませようとしてくる。

 魔力量の多い者だったらかなりの日数を飲食なしで過ごせることを知っていて、ムトは強行踏破をしているのだろう。

 それはつまり私の正体にある程度見当をつけている証拠であり、水だけは飲ませようとするのは、表向きどこにでもいる一般女性として振る舞う私への痛烈な皮肉だ。

 普通の人間が水だけで、数日間も活動できるわけないのだから。


「ありがとうございました。ムトさんは水属性の魔法が得意なのですか?」

「え? あ、まあ、得意っちゃ得意な感じかな?」

「そうなんですか」


 ムトから貰った球状の水を飲み干し、世間話のような軽い調子で彼についての情報を集める。

 もちろんこちらの正体がある程度勘付かれているため、情報の真偽に関しては疑いが強くなるが、情報収取を続けろと命令されている以上、その命に逆らうようなことはしない。

 それにムトから渡される水分にも毒性がないことから、現時点ではそこまで強い警戒はする必要はないはずだ。


「じゃあ今夜の番はどうしますか?」

「あ! 大丈夫大丈夫! 俺に任せといて! 俺たちに近づくような不届きものは全部蹴散らしておくよ!!!」

「そうですか。すいません。ありがとうございます」


 ムトには毎日寝ずの番をしてもらっている。

 といっても私は寝ていても少しの魔力や些細な気配が私の近づけばすぐに反応できるし、それはおそらくムトも同様のため、寝ずの番はそれほど負担にはならないだろうし重要でもない。

 

「じゃあ私はもう寝ますね。お休みなさい」

「ううん!? お、おお、お休み!」


 そして私は就寝準備をそそくさと済まし、パチパチと火音を立てる焚き木をぼんやりと眺めながら横になる。

 一番最後にまともな場所で寝た日を思い出せず、私は自らの記憶能力の衰えを憂う。


「……あの、まだ何か?」

「い、いや!? 何でもないよ!?!? じゃ、じゃあ、また明日!」


 寝転がる私の横で、間抜け面を晒しながら立ち尽くすムトを追い払い、本格的に睡眠をする形を整える。

 本当に面倒なことになったものだ。

 とんだ貧乏くじを引かされた。

 第二師団を壊滅させるほどの実力者ならば、私より適任がいるだろう。

 第一師団や第六師団の方がこういう相手は得意だと思う。

 

 私は今、世界で一番の不幸者かもしれない。




――――




「……朝か」



 この世界で一番の幸せ者である俺、ムト・ジャンヌダルクの目覚めはすこぶる良いものだ。

 いつごろからなのかわからないが、俺は寝起きが凄く良い体質になっている。

 前世では寝ても寝ても不明瞭な脳味噌の霞みが取れなかったのが、気づけば寝起きビンビン丸になっていたのだ。

 野宿にも慣れたもので、野犬の遠吠えが聞こえてきてもいまや少し歯ががたつく程度で収まる。

 それに俺が眠りの世界に旅立っている間はジャンヌが俺の身体を守ってくれているため、俺が起きてるときより寝ている間の方が安全面では遥かに上だ。


「ルナちゃんは……まだ寝てるな」


 俺はざわつくマイサンを完璧にコントロールしながら、身体についた土埃を落とし立ち上がる。

 おはようのキッスをするのだ。

 俺とルナは付き合っているわけだから、これくらいしても別に普通だろう。

 まあ、これまでに成功したことはないけど。


 

「……おはようございます。何か変わったことはありましたか?」

「んはぁいっ!? ……ああ、ルナちゃんも起きたのか。おはよう。特に何もなかったよ」



 ほらね。

 俺がおはようのキッスをしようと甲賀顔負けの忍び足で近づいても、ルナは絶妙なタイミングで目を覚ます。俺の男性フェロモンが強すぎるのだろうか。


「そうですか。それでは手早く出発の準備をしてしまいましょう。これまでのペースで歩けば、そろそろアポロンに到着するはずです」

「あ、そうなの? それは楽しみだね」


 俺はおはようのキッスを諦め、小さな溜め息を吐く。

 無抵抗な相手以外にセクハラ行為を働く程、俺のメンタルは強靭ではない。

 熟睡してる時や、相手に気づかれない場面でないと、俺のモチベーションは維持されないのだ。

 それにしても、ついにアポロンとやらに着くのか。

 首都というくらいだし、どうしても期待が膨らんでしまう。


「あ、水飲む?」

「いえ、結構です」


 俺は恒例の水分補給催促をする。今回は断られてしまったが、これがまた楽しいのだ。

 魔法とはいえ、俺から生み出された液体を絶世の美少女がごくごくと飲み干す。

 その光景に俺はたまらなく興奮する。

 だがこの変態的思考回路はルナにはバレず、あちらからすれば水をわけてくれる気の利くナイスガイとなっているはずだ。

 まさに一石二鳥。

 俺の興奮を満たしつつ、ルナちゃんの好感度も同時に上がっていくという寸法になっている。


「久し振りにベッドで眠りたいですね」

「え?」

「いえ、何でもありません」


 ルナは長い睫毛をパチくりとさせる。

 今、彼女は早く一緒にベッドで眠りたいですね、と言ったのか?

 おいおいこいつは困ったな。

 ルナは見た目以上に肉食系おませさんなのか。

 最強の魔法使いからの卒業も近いかもしれない。



「準備を急ぎましょう」

「そ、そうだね」 



 俺は幸せを噛み締めながら、これから先の展望に思いを馳せる。

 

 ――抜き身の黒刀が視界の隅にちらつき、仮初の未来に影を落とすが、それには気づかないフリをしておく――、



 雨を忘れたような晴天を見上げれば、二つの月はその姿を消し、大きな太陽が朝を終わらせようとしていた。




—————




「にしても思いがけない展開になったねぇ~?」

 

 茶緑の小草がまばらに生える荒野で、鳥類を模した仮面を被る大男が双眼鏡で遥か遠くを覗いていた。

 少し体勢を変える度にカシャカシャと金属質な音がして、往々に騒がしい。

 大男の横には一人の男と一人の女。

 紅い髪を尖らせた男は寝ぼけ眼で欠伸を噛み殺していて、紫髪の女はどこかのんびりとした表情で乾燥した風に目を細めていた。


「そうですねぇ。ルナさんには一応友好的に近づいてもらって、正体がバレないようでしたらそのまま勘づかれるまで情報収取を、気づかれてしまった場合は正確な力を測る指針の一つになってもらう予定でしたが……まさか前者になるとは思いませんでしたぁ。私は絶対気づかれて戦闘になると予想してたんですけどねぇ」


 アメジストの瞳を細めたまま、女は弛んだ口調で言う。

 風で乱れる長髪を手で抑えながら立つ姿には、嫣然として神秘的な魅力が備わっていた。


「……つーか滅茶苦茶眠いんすけど。俺もう寝ていいっすか? てか逆に昨日から寝てないのに二人はよく眠くならないっすね」

「もう~! ゼルド君はルナ君が心配じゃないの~? あんなにルナ君が警戒されてるのにぃ~?」


 瞼を何度も擦る痩せぎすの男に、金銀煌びやかな大男は窘めるような言葉をかける。

 ゴキュゴキュと首を回す音は実に異質だった。


「え? ルナ、警戒されてるんすか? たしか今は仲良く手繋いでるんすよね?」

「馬鹿だねぇ~ゼルド君は~! あれはどう考えてもルナ君に対する牽制でしょ~? 黒髪の彼も昨日から一睡もしてないんだよ~? 昨日出会ったばかりのルナ君を一日寝ないで観察していた彼が、親愛の印に手を繋いでるわけないじゃん~!」

「マジすか。じゃあいつ闘いになってもおかしくないじゃないすか。ルナ、勝てるんすか?」

「まあ無理だと思いますよぉ。ぶっちゃけルナさんには捨石になってもらってますぅ」

「マジかよ。意外にマリンちゃんって鬼畜?」


 片耳にピアスをしている男は眉を顰める。

 だが女は男の反応を全く気にしていないようで、顎を手でさすりながらどこまでも続く広陵の大地に視線を飛ばしていた。


「なんたってキミマロ君を一撃で殺した相手だからねぇ~。正直僕ちんでもゼルド君でも歯が立たないと思うよぉ~?」

「もう監視やめません? 何で俺たちそんな化け物を追ってるんすか?」

「それはそれが総帥の命だからですよぉ、ゼルドさん。ライプニッツ兄妹との関係性もまだわかりませんし、何より、私たちの仲間が殺されてるんですよぉ?」

「はぁ。監視だけで済むといいんだけどなぁ」


 憂鬱な息を吐き。赤髪の男は肩を落とす。

 太陽に衣装が反射して眩しい大男はそんな様子を見てカシャカシャと騒がしく笑うと、一時手放していた双眼鏡を再び顔に上げ、遠望に意識を乗せた。



「さ~て、彼は僕ちんに何を見せてくれるのかなぁ~~~?」



 心底愉快そうな声を上げて、大男は頭部を九十度傾ける。


 彼の目線が向けられている先には平坦な大地以外に何も見えない。



 しかしそれでも仮面の大男は飽きもせず、双眼鏡越しに灰色の世界を見つめ続けていた。




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