No.4 ブレイクブレックファースト
窓の外から暖かな朝日が差し込み、仄かな温もりを感じながら俺は目を覚ます。
寝癖頭をくしゃくしゃと掻き、思い切り伸びをしたあと目やにを擦り取った。
もう俺がエルカーペンダルの村に来てから、今日で五日目だ。
適当に泊ったこの薄ボロの宿屋にも、少し愛着が湧き始めているくらいだ。
すでに親切な宿屋のおばさんから、次の待ち合わせ場所であるエルホインまでの地図は貰っている。
ここからだと普通に歩けば軽く一日くらいはかかってしまいそうな距離があるので、そろそろエルカーペンダルを立った方がいいかもしれない。
「あら。やっとお目覚めね、ムト」
「あ、おはよう、ラー。どこに行ってたの?」
「散歩よ」
そうやってまだ半覚醒状態の頭でぼんやり虚空を見つめていると、ふいに半開きの窓の外から麗しい貴婦人を思わせる銀毛の猫がやってくる。
もちろん彼女こそが、尿道の裏側をくすぐるようなボイスで有名なラーだ。
猫の習性なのか、いつも彼女は俺より早く目を覚ましていて、今回のように時々朝帰りをかますこともあった。
付け加えて言えば、俺はラーが眠っているところを見たこともない。
いったい夜な夜なナニをしているのだろう。
朝になって訊いてみても、いつも散歩とかいう老人みたいな返事しか帰ってこなかった。
「とりあえず顔でも洗ってきたらどう? 私は先に降りてるわ。コーヒーはどうする?」
「あ、お願いします」
「ふふ、貴方も早く来るのよ」
あれ? なんか今の会話、ラブホ明けのカップルっぽくね?
まあ俺はこれまでの人生でビジネス以外のホテルを利用したことも誰かとそういった関係になったこともないけど。
「うーん、今日もいい天気ですなぁ」
空は全て分厚い灰黒雲に覆われているが、これがこのサワーエルロード湿原の辺りでは好天気とみなされることは最近知った。
いつまでも可愛いオニャンコを待たせるわけにもいかないので、俺は固いベッドから起き上がり洗面台に向かった。
「《水を》」
まずは大きめの水塊を自らの顔面にぶつけ、
「《風を》」
強めの風でびしょ濡れになった顔と髪を手揉みしながら乾かしていく。
「フィッ! イエアッ!」
軽く奇声を上げれば、これで俺の草食系男子風イケメンフェイスは完全にセット完了だ。
もし現代日本でこの顔ならば、余裕でヤリまくりパコりまくりのマジックミラーライフになっているはず。
残念ながらこちらの世界では、顔面偏差値ジャスト50の没個性にしか過ぎないが。
二階にある借り部屋を出て下の食堂の方へ降りて行くと、そこでは何人かの客に混じってラーが優雅に鮭のような魚の切り身を食べている様子が見て取れた。
フォークとナイフこそ使っていないが人間のような座り方をしていて、ほんとに一瞬銀髪の麗人が幻視したほどだ。
俺が近づていくのを察知すると、ナイフを置いて手を振ってくれる。
ピンクの肉球がエロ可愛い。あの手でどうやってものを掴んでいるのかはわからない。
「コーヒー、頼んでおいたわよ」
「ありがとう」
すでにテーブルに用意されていたコーヒーはまだ熱々で、俺は少し舌先を火傷する。
水を頼むついでに、自分の分の朝食を準備してもらおうとこの宿屋を一人で切り盛りしているオバサンに向かって手を挙げる。
もうここに泊って五日目。
いくらコミュニケーションドンマイ症候群の俺でも、これくらいの人間交流はできるようになっている。
「あら、貴方、猫舌なの?」
「まあ苦手ってほどじゃないけど、熱いものが得意ってわけでもないんだよね」
「そうだったの。ムトならマグマでも何食わぬ顔で飲み干してしまう気がしていたわ」
「いやいやそれ人間じゃないから。だいたいラーこそ熱いの苦手でしょ?」
「いいえ。熱いものはどちらかといえば得意な方よ」
そんなことを言いながらラーはまた器用にナイフとフォークを駆使してサーモンを口に運んでいく。
テレテテッテレー、ボクDREモン。
不思議とそんな音楽が聞こえた気がした。
「はいよっ! やっと起きたのかいこの寝坊助っ!」
「グエッ!?」
脳内で鳴りやまないBGMに耳を澄ましていると、突然背中を強烈にしばかれる。
その反動で膝を机の足か何かにぶつけてしまった。
俺はうんざりした気持ちで大声の主に振り返った。
「マリエッタさん……注文するたびに背中叩くのやめてくださいよ……」
「ガハハっ! 今日も相変わらずナヨナヨした顔してるねアンタはっ!」
「マリエッタさん、少しクッションを増やしてくださる? まだ椅子が少し低いわ」
「あいよっ! ラーの嬢ちゃん! ちょっと待ってなっ!」
だみ声で快活に笑うのは、男勝りなショートカットをした女性だ。
この今にもポケットから飴玉を取り出しそうなオバサンこそが、ここの宿屋兼食事処を一人で切り盛りしているマリエッタだった。
ご覧の通り豪放磊落な彼女はよく見れば顔の造詣は整っているので、若い頃はさぞかし美人だったのだろう。
残念ながら今やもう使い物になりそうなのは、胸部にぶらさがる熟し過ぎの巨大な果実くらいだ。
表情は明るいが、普段の生活の疲れのせいかだろうか、少し老いて見える。
ちなみに実年齢は訊いても教えてくれないので知らない。
「マリエッタさん! 俺の注文がまだですよっ!」
「うるさいなアンタはっ! ガキんちょは待つことを覚えなってのっ!」
俺が呼んだにも関わらず、俺の注文を一切聞かずに厨房の方へ戻ったマリエッタに抗議の言葉を上げるが、案の定無視される。
ここに泊った最初の時から、ずっとマリエッタはあの調子だ。
俺を子供扱いし続けているが、もしかしたら本気で俺のことを子供だと思っているのかもしれない。
「本当にムトはどんな人とでもすぐに打ち解けてしまうのね。貴方の人懐っこさをセトにも見習って欲しいくらいだわ」
「いやいや、俺ほど人懐っこいという言葉から遠い人間は中々いないよ。それこそセトさんと大して変わらないくらいだから。マリエッタさんに関しては、向こうのパワーが凄いだけだって」
「そうかしら? まあ、貴方がそう言うなら、そういうことしておきましょう」
わかってるわよ、みたいな大人の表情をしながらラーはミルクの入った皿をペロペロと舐める。
ナイフとフォークは持てるのに、なぜかグラスやコップは持てないらしい。
それにしても実際ここは居心地が良かった。
事前に聞いていた話だと、人種差別がどうとか、革命軍がどうとか、あまり好ましくないイメージがあったが、住めば都ということか、案外暮らしやすい。
たしかに沼と泥以外何もない湿地帯ということもあって田舎感が拭えないが、村の人々も皆親切で暗い面は少しも感じられなかった。
今日この村を立つのがおっくうになり始めるくらいだ。
エルホインも平和な村だといいと思う。
そういえば初日以降、革命軍のメンバーを見ていない。彼らは普段どこにいるのだろうか。
「はいよっ! ラーの嬢ちゃん! これで足りるかい?」
「ええ、十分よ。マリエッタさん、感謝するわ」
「……あの、俺の注文」
「わかってるよっ! 早くしなっ!」
どう考えてもラーの方が人懐っこいし、マリエッタさんとも打ち解けられている気がする。
俺はおずおずと注文を終えると、やっと冷めてきたコーヒーを口に含んだ。
「ムト、今日ここを立つのよね?」
「うん。そのつもり。思ってたよりいいところだったけどね。平和だし」
「それは……いいえ、そうね。私たちはこの平和な風景だけを思い出にしておきましょう」
頼んだ品が来るまでの間に、適当な世間話をしていると、ふとラーの表情に影がさした。
人間並みに表情豊かな彼女の顔にはいくらかの哀しみも垣間見えたが、俺にはその理由にまるで見当がつかない。
厨房の方に目を向けてみれば、マリエッタさんが俺の注文した料理を運んでこようとしているところだ。
それはいつも通りの、俺の知っているエルカーペンダルの日常の風景だった。
「ハッ! なんだこの豚小屋は!? 糞尿にも劣る家畜共の悪臭で満ちているではないか!」
するとその時、唐突に宿屋の扉が蹴り破られ、趣味の悪い金色の外套に身を包んだ痩せ型の男が中に入ってきた。
瞬間、さきほどまで和気あいあいとしていた宿内の雰囲気が一変し、凍り付いた静寂が満ちる。
陰茎みたいな形をしたピアスをした男は、そのまま大股で食堂を見渡し、嘲るように鼻を鳴らした。
誰だこいつは。
一重瞼の三白眼が爬虫類を想起させ気味が悪い。
「おいおい、この村で一番の宿屋がまさかこの豚小屋ではないだろうなぁ!?」
沈黙に支配された食堂で、男だけが声を高らかにしていた。
男の後ろには二人の従者のような者達が付き添っていて、そいつらも男と似た冷笑を浮かべている。
とても嫌な感じだ。
そして誰かに訪ねなくともわかった。
この成金感丸出しの激ダサゴールデンファッションの男たちこそが、ボーバート大陸のエルフ人なのだろう。
「申し訳ありません、天人様。精一杯の歓迎をさせて頂きますのでどうかご容赦下さい」
「なんだ貴様は? まさか貴様のような薄汚いメス豚がこの宿屋の支配人とは言わないよなぁ?」
明らかに傍若無人が過ぎる男たちに、媚びたような態度を取るのはマリエッタだった。
そこにさっきまでの快活な笑みはなく、耐えるように苦悶の表情を見せるだけ。
俺は目の前で起きていることが白昼夢か何かなのかと、非現実感に囚われていた。
天人様ってなんだよ。俺のことはガキんちょなんて呼ぶくせに。
たった数秒で崩れ去ってしまった日常を前に、俺は呆然と言葉を失うことしかできない。
「フンッ! まあいい。私は長旅で腹を空かしている。最高の品を出せ。今すぐにだ」
「はい! わかりました! すぐに私に出せる最高の――」
――その時、鈍い音を立ててマリエッタが転倒する。
呻くような声と、床に薄く滲む真っ赤な跡。
打ちどころが悪かったのか、倒れ込んだこの宿の主はまだ立ち上がれない。
転倒の理由は常軌を逸したものだった。
エルフ人の男が、突如マリエッタの足を蹴り払ったのだ。
「おい。私は今すぐにと言ったはずだ。なぜお前はそこで這いつくばっている? もしや豚には人間の言葉が通じていないのか?」
「……うっ!」
邪悪な哄笑と同時に、エルフ人の男はうずくまるマリエッタを腹をまた痛烈に蹴りつける。
その光景を目にした俺に、ピリッとした痛みが走る。
なぜだろうと痛みを感じた右手を見てみれば、強く握り締め過ぎた拳に自分の爪が喰い込んでいた。
「おいおい、勘弁してくれ。まさか豚だから二足歩行ができないのか? これだから家畜は。貴様らと同じ空気を吸っているのが不愉快で仕方がない」
危険な闇がエルフ人の男の蒼瞳に宿る。
腰に帯刀されていた剣を抜き、男は口元を歪ませる。
醜い笑顔だ。
これほど醜い笑顔を俺は見たことがなかった。
「何の役にも立たない家畜は、廃棄処分だ」
いまだ倒れ込んだままのマリエッタは、自らの頭上に掲げられる刃を見つめ絶望に顔を染める。
あれほど明るい性格をしている彼女の顔に、疲れたような老いをこれまで感じていた原因がやっとわかった俺は、気づけば席を立っていた。
やけに色っぽい女性が俺を引き留める声を上げていたことにも気づいたのは、病的に白い肌をした男の顔がなぜか目と鼻の先に現れたあとだった。
俺はいつも気づくのが遅いんだ。
「……なんだお前は? この村の人間じゃないな?」
機嫌を損ねたのか眉を曲げるエルフ人の男は、剣の切っ先を俺に向ける。
恐怖は不思議と感じなかった。
ヘタレかつサカンなだけの俺は、不思議とこの時だけは怖れも怯えも抱いていなかった。
「豚の次は猿か。なんとも賑やかな家畜小屋だな。まあいい。最後に言い残す言葉はあるか?」
吐き捨てられるような言葉と共に、振りかぶられる細身の剣。
そんな中、俺は空腹を感じていた。
「残念ながら人の言葉以外を聞く気はないがな」
なぜこんなにお腹が空いているのだろう。
理由はすぐにわかった。
俺が注文したはずの朝食がまだ来ていないから。
そして待ちかねていたように噴流する衝動に応えるように、俺は自らの望みを口にする。
「《俺の朝食の邪魔をしないでくれ》」
瞬く間に閃光する黄金。
身体が軽くなり、自分を俯瞰的に見ているような漂白の感覚に身を委ねる。
振り抜かれる拳に宿った激憤の感情が誰のものなのか、判断はつかない。
「叶えよう」
醜悪な笑顔が不細工に潰されていく男の蒼い瞳の奥には、両目を眩しいほどの黄金に輝かせる俺の姿が映っていた。
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