最後のわがまま



 両親が死んでしまったのは、私がまだ二歳になるかならないかの頃だったらしい。

 父の姿も母の面影もあまり良く覚えていないけど、確かとても暖かい存在だったような気がする。

 それからこの前十歳になるまでずっと私は、デーズリー村の村長であるジュリアス・マーキュリーという人の家に住んでいた。

 でもこの村では十歳でとりあえず一人前という考えがあるらしく、先月から私は一人暮らしを始めていたところだったのだ。


 でも、寂しくなんてなかった。

 だって私には先生がいたから。


 あれは私が五歳ぐらいの頃だ。

 友達の居なかった私は一人で村の外に出て薬草取りに行っていた。

 その日私は、意地の悪そうな邪悪な男達と出会い、問答無用で乱暴をされ、縛り上げられ捕らえられた。後で聞いた話だが、あの男達は盗賊と呼ばれる最低辺の種の人間らしかった。

 その時私は、とても、とても怖かった。暗くて、臭くて、私はひたすら泣き続けた。

 でもその男達は私が泣き喚く度に嬉しそうに不細工な顔を歪めて、私を更に痛ぶった。

 私は絶望した。もう死ぬんだと思ったの。

 でも、そんな時だった。


『探したわよ。リエル』


 凄く美しい女の人が突然私の前に現れ、信じられない程優しい微笑みを浮かべながら私の名前を呼んだの。

 天使だと思った。

 天使が私を助けに来てくれたんだと思った。

 でも私はその天使の顔に見覚えがあったの。その綺麗な顔は、私にいつも美味しいお茶を淹れてくれる近所のお姉さんと同じ顔だった。

 その人の名は、レウミカ・リンカーンと言った――、





「はぁっ……! はぁっ……!!」


 ――何でこんな事を今更思い出すんだろう。


 頭の中でぼんやりと湧き上がった記憶を拭い去り、自らの選択を思い出す。

 踏みつける大地は落ち葉に覆われていて、私は冷んやりとした空気の中無我夢中で駆け続けていた。


「はぁっ! はぁっ……!!」


 耳をすまさなくても済むほどの音量で、遠くから獣の呻き声がひっきりなしに聞こえてくる。


 何で私は走っているんだろう。


 私は今、村の皆から決して入ってはならないと言われていた“ダイダロスの森海”という場所に来ている。

 この森は大陸の窪んだ土地に広がる大森林らしく、中心に行けば行くほど高度が下がっていき、その最中心部は海よりも深い所に位置しているらしいと先生も言っていた。まぁ私はその海とやらも直接見たこと無いんだけどね。


 ウキキキィィィ……。


「くっ!?」


 濃霧のせいで辺りはかなり見渡しが悪い、敵が何処まで迫って来ているのかも正確には分からない。

 そう、私は今、敵に追われているのだ。

 村を飛び出して自暴自棄に陥った私は吸い寄せられるようにこの森の中に入り、そして当然と言うべきか野生の魔物に襲われた。

 私に襲い掛かって来た魔物は“イエローモンキー”という名の低級魔物だ。単体ならばそんなに脅威のある魔物じゃない。実際に私は一匹返り討ちにしてやったわ。

 でも、イエローモンキーは単独行動をする生き物じゃないの。本来群れで行動する魔物なのよ。

 そして案の定、私はその返り討ちにした奴の仲間達らしき魔物の群れに追われる事となった。きっとあいつは偵察係だったのね。魔物は意外に知恵が回るから。

 五、六匹のイエローモンキーの群れだと、まだ基礎魔法しか使えない私には荷が重い。

 だからこうやって私は湿った埃の舞う木々の間を駆け逃げ続けているのだ。


「痛っ!」


 すろと不意に膝の付近に鋭痛が走る。

 どうやら折れて先の尖っている枝で膝を切ってしまったようだ。スカートが破れてしまい、血で赤く滲む私の細足が剥き出しになっている。

 痛い、凄く痛い。何で私ばっかりこんな目に合わなくちゃいけないの?


「ウキキキィィィ」

「え?」


 私と同じくらいの背丈で、紅い眼を持ち、黄色の体毛に全身を覆われ、童話で聞く悪魔のように尻尾というものを生やした異形の生き物に、気づけば私は囲まれていた。


「《ファイア》!!!」

「ウキキキィィ!!!」


 魔力をありったけ込めた私の出せる最高威力の魔法を繰り出す。

 目の前が紅く輝き、握り拳大の火の玉が私の目の前のイエローモンキーに向かって飛んでいった。それはもろに標的に直撃し、悲痛な唸り声を引きずり出す。


「ウキキキキキキィィィッッッッ!!」


 だがその瞬間別のイエローモンキーが私に飛びかかって来た。私は間一髪で横に転がり避けるが、鋭い爪の一撃を擦り受けてしまう。


「んっ……!《ファイア》!!」

「ウキキキィッッ!」


 それでも私は怯むことなく反撃する。至近距離で魔法を発動させて火炎の一撃を見舞い返した。


「ウキキキキキィィッッ!!」

「うっ!」


 勿論その程度じゃイエローモンキー達の戦意は削がれない。更に別の二匹が牙を尖らせながら迫ってきて、片方の攻撃は何とか避けられたんだけどもう一匹の頭突きは腹部に直撃してしまった。


「はぁっ、はぁっ……!」

「ウキキキィ」


 身体中が痛みで軋む。もう疲れた。横になりたい。

 イエローモンキー達が再び私を囲む様にジリジリ陣形を整えながら距離を詰めてくる。

 でも何で私は必死になって闘っているんだろう?

 逃げ延びるため?逃げ延びた先に何があるの?

 そう、私に帰る場所は無い。もう居場所なんてない。ここで私が死んでも誰も悲しまない。きっと先生だって。


「ウキキキィィィッッッッ!!!!!」


 一斉にイエローモンキー達が飛びかかって来る。もう私に闘う力は殆ど残っていない。闘う理由だってない。

 真綿で首を絞められるように時間が流れるのが遅く感じる。私はここで死んじゃうのかな。誰にも知られずに。誰にも必要とされずに――、


「《ウインド》!」


 でも次の瞬間には私はこれまで使った事の無い風の魔法を発動させて、飛びかかって来たイエローモンキー達を一斉に吹き飛ばしていた。

 私は魔力纏繞を自分にかけ直し、イエローモンキー達が復活する前にと、その場から全力で逃げ出す。


「はぁっ……! はぁっ……!!」


 一心不乱に逃げ続ける。今にも魔力切れを起こしそう。心臓がきりきりと痛む。


「あぁっ!」


 大きく伸び隆起していた木の根に躓き盛大に転んでしまう。しかし、もう起き上がる力は残されていなかった。

 私は嫌だった。

 死ぬのが怖かった。

 人知れずこの世から消えるのがたまらなく嫌だったの。

 私は、最期の時は、大好きな人の元で迎えたかったの。


「はぁ、はぁ」


 もう動く事が出来ない。魔力が切れかかっているのだ。じきにイエローモンキー達が私に追いつき、今度こそ私にとどめを刺すだろう。

 でも死にたくない。どうすれば、どうすればいい?

 このままじゃ……。


「はぁ、はぁ……?」


 しかし待てども暮らせもイエローモンキー達はやって来ない。

 それどころか近づいて来る気配すらしないみたい。


 一体どうなっているの?


 じめっとしている土の上で倒れたまま、ほんのり暖かい空気の中私はただひたすらに伏せ続けた。


 ドン………。


「!?」


 不意に確かな地響きが土に転がる私に伝わってくる。


 ドン………。


 またも不穏な地響き、だがその振動は確実に大きくなってきていた。


 ドンッ!


「これは!」


 熱気が微かな風に乗って私に届く。何かが近づいてきているのは最早明確だった。



 ドォォォンッッッッ!!!!!



「うっ!」


 そして突如出現した凄まじい熱風、体が一気に汗ばんでいく。

 熱を堪えて顔をゆっくりと上げると、周囲が一変していた。

 

 真っ赤に燃え盛る木々、数m先にある巨大な深紅の影。


 私は、イエローモンキー達が私を追いかけて来なかった理由を理解した。


「あぁ、あぁ……」


 燃えるような紅色の体毛、仄かに炎の揺らぐ大木の幹程もある両腕、私の何十倍もあるように思える分厚く大きな躯体。

 直感する、私は、ここで死ぬ。


 悪魔が、そこにいたのだ。


「先生……」


 悪魔の紅い瞳が私を捉えるのが分かった。

 拳がゆっくりと振り上げられる。普通なら届かない距離、でも私にははっきりと分かる。あれが振り降ろされれば最後、私の命はこの世から消えてしまう。


 助けて、誰か、レウミカ先生。


 涙で視界が滲む、私は目を瞑った、私の惨めな人生の呆気無い最期を自分自身で確かめたくはなかった。



「《グァスト》!!!!!」



 え?

 不意に、とても懐かしい声がしたと思った。

 そして私は――、



「探したわよ。リエル」



 ――いつものように優しく微笑む、先生の暖かい胸に抱かれていた。




――――――




 レウミカは生い茂る樹木の中を縫う様に駆け飛ぶ。

 誰かが魔法を使って戦闘を行った跡が残っている。それを目印にして、森の奥へ奥へとひたすらに進んで行く。

 間違いない。リエルはこの近くにいる。

 地面の焼け焦げた跡もあった。そして、人間の血らしき痕跡も。


「おいレウミカ。この血は………」

「リエルはまだ生きてるわ。急がないと」


 少量の赤い液体が土にこびりついているのを見て、ロビーノが足を止めて暗い声を漏らす。

 それでもレウミカは足を止めない。

 確かにこの状況で最悪の事態を想定して悲観するのも無理はない。

 しかしだからと言って、今すべき事を中断して微かな希望から遠ざかるのは嫌だった。

 それゆえにレウミカは足を止めない。


「ん!?おい、レウミカ!この魔力はやばいぞ!!!」

「これは……!」


 不意に超圧的な空気の感触が肌に伝わる。

 ロビーノも進行方向から凄まじい魔力が近づいてくるのを感じたのだろう。

 後ろの方からロビーノがレウミカに危機を伝える言葉を張り上げるのが聞こえる。

 レウミカは迷わず速度を上げた。

 もしこの先にリエルがいるなら、このままだと確実に死ぬ。

 それだけは、何としてでも避けなければいけない。


「いた……!」


 飛ぶ様に駆け抜けるレウミカの眼前に、ついに赤毛の少女が倒れているのが視認出来るようになった。

 だが、様子がおかしい。

 リエルの居る場所だけいやに明るい。先程から感じ続けている凶暴な魔力。その主がどうやらそこにいるらしかった。


「不味いわね…!」


 やっと視界に辺りを火の海に変えた張本人の姿が入ってきた。

 

の名前は知っている。だけれどこんな場所に居ていいはずは……いえ、それを考えるのは後にした方がいいみたいね。

 このままじゃリエルが焼き殺されてしまう。あの振り上げられた拳はそういう意味を持つはず。

 このままじゃ間に合わない。でも私の使える魔法の中で最大の加速をだせる魔法なら……)


 「《グァスト》!!!!!」


 唱えた刹那、レウミカを包み込む突風。

 そしてその風に乗って一気にリエルの元へ加速する。


(届いて!)


 願いは届く。

 の放った火炎の一撃をすり抜けるように最高速を維持しながら、レウミカはリエルを抱き取った。


(間一髪だったわね)


 後ろを見ればリエルが居た場所の辺りは見事に落ち葉一つ残さず消し炭になり、火炎の燃え盛りに変わっていた。


「探したわよ。リエル」


 レウミカの可愛い友人は全身傷だらけで涙で頬を濡らしつつも、しっかりと胸に収まっている。


「先生……?何で……?」

「話はとりあえず後よ。まずは生きて帰りましょう」


 火の粉が舞い散る中、リエルを抱きかかえたまレウミカは敵に目を向ける。

 敵は獰猛そうな牙を剥き出しにして、低い唸り声を漏らしながらこちらを睨みつけていた。

 そして再び片手を豪壮に掲げ、噴煙の強撃を繰り出そうと構えている。

 まだレウミカはあの一撃を止められる威力の魔法を発動させられる程の魔力を溜められていない。


(でも私には守るべきものがある。だから自分の限界程度に縛られるわけにはいかない。そう、思考するのよ。溜めた魔力を放出するのでは無く、無理矢理魔力を捻り出すイメージ)


「《グァスト》!!!」


 レウミカが突風を前方に吹き出すのと、灼熱の波動が彼女達に向かって振り抜かれるのはほぼ同時だった。


「ぐっ……!!」


 凝縮された突風と猛然の勢いの火焔が前方で衝突し、激しい衝撃波を生み出しながらせめぎ合い続けている。


「先生…このままじゃ……」

「わかって……いるわ…!!」


 レウミカは必死に魔力を消費し続けるが、荒々しい炎の勢いはまるで衰える様子が無い。

 リエルが心配そうに片手を突き出し続ける彼女を見つめる。



斬風一閃ざんぷういっせん!」



 そんなレウミカに遂に完全な限界が迫っていた時、唐突に特大の風の刃が木々を薙ぎ倒しながら飛んできて、大きな激突音を撒き散らしながら炎と風のせめぎ合いを打ち消した。

 

「へへっ!!生きてたかリエルっ!?ったく心配掛けやがって」

「ロビーノ。遅刻よ。寄り道でもしてたの?」

「そんなわけねぇだろっ!?!?お前が速過ぎんだよ!!しかもやっと追いついたと思ったらやっぱり明らかヤバそうなのとり合ってるしよ」

「しょうがないじゃない。人生、不幸は重なるものよ」

「十六の餓鬼が何言ってやがんだよっ!」


 金色の短髪を辺りの炎光に照らされながら、鈍く輝く鉄の剣を携えたロビーノがレウミカ達の元へ降り立った。

 それによって、前方に相も変わらず君臨する暴君の赤眼の鋭さが少し増したかもしれない。


「どうやら腕は落ちてないみたいね。頼りにしてるわよ。ロビーノ」

「……はぁ。その言い方だとやっぱあの野郎とは闘わなきゃなんないのか?」

「そうね。ロビーノが囮にでもなってくれれば私達は逃げられるかもしれないわ。まあそうした場合十中八九犠牲者が一人生まれるけれど」

「おいっ!俺は捨て駒かよっ!!」

「冗談よ。逃走という選択肢は無いと伝えたかっただけ。あと野郎呼ばわりは失礼なんじゃないかしら?雌の可能性だってあるのよ?」

「はいはい…そうかよ……」


 極限の状態でもロビーノは普段と同じ様に軽く笑いながら、レウミカの軽口に付き合う。


(いい友人を持ったものね。失うわけにはいかないわ)


「だんで……!二人は……ここに…!どうじでっ…!私何かを……!?」


 レウミカが無意識の内に覚悟を定めていると、胸の中の小さな友人の涙混じりの言葉が聞こえてきた。

 ロビーノがニヤリとレウミカに目配せをする。

 少しの間、敵の動きの注意を任せる事が出来るらしい。

 レウミカは涙で可愛らしい顔を萎びらせている少女のつぶらな瞳を見つめ、短い会話をする事にした。


「リエル。貴女は私の大切な人なの。だから泣くのをもう止めて?私は貴女のそんな顔を見たくないのよ」

「!?……でも、先生は、私の事が嫌いなんでしょう?」

「馬鹿な子ね。私が貴方を嫌いになる事なんてあり得るわけないでしょう?私はリエルを家族だと思ってるわ。貴方の事は大好きよ。リエル」

「せ、先生………」


 リエルの表情が、眩しい笑顔に変わっていく。

 まるで太陽の様だ。この表情を守る為ならば命も惜しくない。

 改めて、レウミカはそう思った。


「さてさて、感動の再会の時間に水を差すようで悪いが、そろそろ奴さんが動き出すぜ」


 ロビーノが片眉を上げながらレウミカ達に視線を投げかけた。

 

「“獄猿ごくえんヘルゴリラ”、それがあいつの名。魔術師ウィザード級の魔物よ。リエル、背中にしっかり掴まって。ここから先は命がけよ」

「あ?ヤバそうとは思ったが魔術師ウィザード級かよ。ツイてねぇな。殆ど勝ち目ねぇじゃねか……!?来るぞっ!!」


 レウミカの背にリエルが移動したと同時に、これまで不気味に大きな動きを見せなかったヘルゴリラが視界から突然消えた。

 否、それは消えたのではなく、圧倒的な跳躍。


斬炎衝波ざんえんしょうは!!!」

「《ウインド》!!!」


 全力でその場から距離を取る。

 その直後に地面を凄まじい衝撃が襲い穿つ追突音が大きく轟く。

 大きく跳んだヘルゴリラが、レウミカ達の居た所に超重量級の拳撃を振り下ろしたからだ。


「ロビーノ! 私が援護するわ! 直接の攻撃を頼むわっ!」

「任せろぉっ!」


 ヘルゴリラを挟んだ向こう側から、ロビーノの返事が明瞭に届く。

 レウミカは着地して直ぐに体勢を立て直した後、赤毛の怪物の背後に向かって全速力で駆け出す。


「リエル!絶対離さない事!!」

「はいっ!先生っ!!!」


 火の粉がチリチリと舞い飛ぶ中、薙ぎ倒された木々を避けつつ膨大な熱を纏う敵に一気に近づいていく。

 背負われるリエルは、レウミカに一体化するかの様にピッタリと身を寄せている。これならば振り落とす心配は要らないだろう。

 倒れた大木を踏み台にし、高く跳ぶ。

 そして、敵の無防備な背後に渾身の魔法を狙い定めた。


「《アックア》!」


 大きな球状の水の塊が横回転しながら、ヘルゴリラの背に向かってレウミカの手から放たれる。

 しかしその瞬間、紅い魔獣は唸り声を叫びながらこちらに振り返り、火炎を纏った拳撃で私の魔法に応戦を試みた。

 ジュウッという液体が高熱で焼かれる音が鼓膜に届く、みるみる内にレウミカの魔力によって創り出された水球は蒸発し形を縮めていった。

 時期にレウミカの魔法は掻き消されてしまうだろう。

 そうすればヤツは間違いなく彼女の方に狙いを定め、必死の攻撃で命を刈り取ろうとする筈だ。

 だが、そうなる事は無い。


「背中がお留守だぜぇっっっ!? 斬水鋭突ざんすいえいとつ!」


 獄炎の野獣がレウミカの魔撃を完全に打ち消した瞬間、その隙にヤツの背後に回り込んでいたロビーノが渾身の一撃を無防備な背肉に叩き込んだ。


「ヴゥゥゥォォォォッッッッッ!!!!!」


 ヘルゴリラが怒りの雄叫びを上げ、全身から豪炎を噴出する。

 それなりの手負いは与えられたらしい。


「おおっと!?あぶねぇあぶねぇ! いきなり炎撒き散らすんじゃねぇよ全く」

「駄目じゃない、ロビーノ。一撃で仕留めてって言ったでしょう?」

「言われてねぇよっ!!つーか無理だからな!?超上手立ち回ってやっと弱らせられるかどうかっつう相手だぞコイツは」

「あら。冗談よ」


 髭が若干焼け焦げているロビーノがレウミカ達の横に軽快に着地する。


「リエル。ここからが厳しくなるわよ。覚悟は出来てる?」

「勿論です先生っ!!しっかり生き抜いて、村に帰って先生に感謝と謝罪をキチンとするんですっ!!」

「俺には無しかよ……」


 赤毛の怒れる獣が再び咆哮する。

 レウミカとロビーノは目を合わせ互いに頷く。

 瞬時、火炎の放射が私達を襲う。

 それをレウミカ達とロビーノは二手に分かれて紙一重で躱した。

 そしてレウミカは躱した勢いのまま再び走り出す。右手に魔力を集中させもう一度ヘルゴリラの注意引きつける準備を整えながら。


「くっ……!」


 だが敵も本気になったようだ。

 すかさず目障りに動くレウミカに向かって巨大な炎破を放った。

 それを彼女はすんでの所で避ける事が出来たが、完全に体勢を崩してしまう。


「先生っ!」

「!?……《アックア》!!!!!」


 直後の爆発的な突進。

 ヘルゴリラは足を止めたレウミカに向かって、一直線に拳を振り上げて近づいて来た。


「ヴォォォッッッッ!!!!」


 魔力を溜め損ねたレウミカの水魔法は、ヘルゴリラの狂進の止める助けにまるでならない。

 しかし微かな速度の減退は生み出す事が出来た。


(それだけあれば充分な筈よ。そうでしょう?)


「おらぁっっっ!斬水鋭突!!!」


 宙に忽然と現れたロビーノの手に握り締められた鉄剣の先端に高速で水が渦巻き、それが一瞬速度を落とす事で隙の生まれたヘルゴリラの首筋に向かって突き出される。


「はっ!どう……だっ!?」


 紅猿の首に確かにロビーノの一撃は届いた。

 しかし、その攻撃にヘルゴリラは異常な速度で反応を見せたのだ。


「ロビーノっ!」


 メキっという鈍い嫌な音と共に、木の幹程の太さの尻尾での渾撃をロビーノはもろに食らい、地面に叩きつけられた。

 ヘルゴリラの咆哮が轟く、首にはロビーノの鉄の剣が浅く突き刺さったままだ。

レウミカは首の剣を抜こうと躍起になる獣の横を通り抜け、ロビーノの元へ駆けた。


「ロビーノ!大丈夫!?」

「お、おう……何とか生きてるぜ………」

「………」


 背負うリエルが悲痛な声でロビーノに無事を確かめる。

 どうやら命に別状は無い様だ。しかし背中を強く痛めたらしい。それに剣はもう使えない。


(これは本格的に覚悟を決める必要があるかしら)


「で、どうするレウミカ?剣技はもう使えない。マジでいよいよヤバイぜ?」

「……少し時間を稼げない?ロビーノ?」

「あ?お前、何か策があるのか?」

「ええ、一つだけ」

「先生?」


 たちの悪い凶猿はまだ一人で暴れている。

 今の内に次の動きを確定させておく必要がある。

 もう迷っている暇は無い。


(私の生命を捧げる事になっても、二人を助けられるか分からない状況なのだから)


「中級魔法を使うわ」

「は!?!?おいレウミカ!?お前自分が何言ってるか分かってんのか?」

「先生は中級魔法も使えたんですか?」


 ロビーノが目を鋭くしてレウミカを睨む。

 そしてリエルの尊敬に溢れた声も耳元に伝わる。


「ええ。心配は要らないわ」

「レウミカ。もし、中級以上の魔法を無理に発動させたらどうなるか分かって言ってんだよな?今の体力でも確実に成功させられるんだよな?」

「勿論よ。時間はかかるけれどね」

「流石先生ですっ!!!」


 レウミカがそう言ってもロビーノの蒼い瞳は疑念の光を消さなかった。

 リエルの純粋で敬愛に満ちた声と違って。

 だが、ロビーノの猜疑心は間違っていない。

 事実レウミカは、生まれてこの方ただの一度も中級魔法を成功させた事がないのだから。


「……分かった。お前を信じるぜレウミカ。時間は稼いでやる。任せな」

「ええ。頼むわ」


 それでもロビーノは吹っ切る様に頭を振ると、小さく「魔力纏繞」と呟き立ち上がった。

 それに呼応するように紅い悪魔も独り暴れるのを止めこちらを向く。


「行くぜ糞猿っ!!!」

「ウォォォッッッッ!!!!!」


 中級魔法は、下級魔法とは使う魔力量も要求される魔力コントロールも段違い。

 だがその威力も下級以下の魔法に比べれば天と地ほどの差がある。

 その代わり発動に失敗すると身体中の魔力が抜け消え、最悪心臓が止まり命を落とす。


「リエル、少しの間私から離れていて」

「え?はい…先生……」


 レウミカは全身の魔力纏繞を解く。

 魔力全てを使っても足りない可能性すらあるのだ。

 しかし失敗するわけにはいかない。失敗の代償はレウミカ一人の死だけでは済まないから。

 心を鎮め、内なる魔の力に全神経を注ぐ。

 聴覚が働きを止め、呼吸すら意識出来ない。

 とても不思議な感覚だった。

 これ程大きな魔力を練った事はないはずなのに、難しさはそれ程感じなかった。


「レウミカぁぁぁっっっっ!!!!」


 知らぬ間に閉じられていた瞳をゆっくり開く。

 ロビーノが凶悪そうな野獣に殴り飛ばされるのが映った。

 レウミカはおもむろに眼の赤い悪魔に向け両手を掲げる。

 なぜか失敗する気は、しなかった。



「《スプレイトシュー》」



 視界の一変。

 蒼い竜が、紅い猿に、突き刺さった。

 赤炎舞い散る樹林の中、野獣の苦しそうな哮けりが轟いた。

 強烈な魔力の激流が、レウミカの体の中から外に向け解き放たれている。

 レウミカの掲げた手の先の空間から竜の形をした青い水流が噴出され、ヘルゴリラの下腹部に直撃したから起きている現象なのだろう。


「……足りない!」


 しかし、ヘルゴリラはその一撃が身体を穿つのを阻止するかのように、その燃え盛る両腕で魔法の水撃を押さえつけ、今にも潰し消そうとしている。

 恐らく魔力濃度が薄過ぎて、完全な威力を出し切れていない。

 それかもしかすると、そもそも中級魔法を使ってもそう簡単には倒せる相手ではなかったのかもしれない。


「はぁっ……! はぁっ……!!」


 それでも、そうだとしても、諦めるわけにはいかない。

 レウミカには、守りたい物があるのだから。


「はぁぁぁっっっっ!!!!!」


 声を張り上げ、ありったけの魔力を注ぎ込む。

 この魔法が消えたら最後、それは正真正銘の終わりを指し示す。

 が、凄まじい前方の圧力は一向に変わらない。

 圧倒されるような熱量と共に、レウミカの全身全霊の魔法は完全に塞き止められていて、致命傷を与えるに至らない。

 灼熱の炎がその勢いを増していく。レウミカの魔力に限界が迫る。


「くっ!」


 そして突然の爆風。

 遅れて訪れたのは、当然の静寂だった。


「はぁ……はぁ………」


 身体から筋肉の働きが消え、弱々しく膝をつく。

 呼吸をする度に全身に激痛が走る。

 それでも水蒸気が揺らめくレウミカの視線の先には、獰猛そうな眼つきでこちらを睨む、悪魔の姿がまだ写っていた。

 彼女の魔法は雲消し、魔力は果て、動く事もままならない。

 ロビーノも向こう側で倒れ伏したまま、微塵も動かない。

 願うだけで、救われる程、現実は甘くない。

 そんな事くらい、分かっていた筈なのに。


「駄目よ…まだ諦めちゃいけない……」


 何かを悟った様に、ヘルゴリラは一歩一歩ゆっくりと、だが確実に近づいてくる。


「考えるのよ……考えないと……」


 死との距離がどんどんと狭まっていく。

 考えれば考えるほど絶望が深まっていった。


「あ……」


 腹部が赤黒く傷ついているのが視認出来る距離までヘルゴリラがレウミカに迫った時、彼女はとうとう終わりを確信した。


(私は弱い。何一つ守れないほど弱かったのね)


「誰か、助けて」


 レウミカは、やはり願う事しか出来なかった。


「……え?」


 すると不意に、レウミカの横を通り過ぎ、赤い化物と彼女との間に立ち塞がる人がいた。


「何をして……」


 その人は背中に綺麗な紅い髪を流している、とても小柄な少女だった。




―――――




 先生が私を助けに来てくれた時、私は嬉しさと同時に安堵も感じていた。

 全てが嫌になって、自分は孤独だと思い込んでいた癖に、何処か心の奥底で先生が助けに来てくれると信じていたのだ。

 何て自分勝手ではた迷惑な人間なのかしら。本当に子供っぽくて救いようが無い。


 でも、そんな私を先生は本当に助けに来てくれた。

 こんな森の奥に危険も顧みずに助けに来てくれた。

 こんな私を大切な人、大好きだと言ってくれたの。


 そんな先生が今、目の前で命を懸けて私を守ろうとしてくれている。

 私にはそんな風に守ってもらう資格なんてないのに。

 先生は傷だらけになっていた。

 私のせいで、私のために、先生は闘い続けてくれた。

 それを私はただ見ていただけ。どんな場所よりも居心地の良い先生の背中からただそれを眺めているだけだった。


 そして今、先生が力尽きた。

 先生は私の目の前で、他のどんな物よりも価値のある物を散らそうとしていたの。


 だから私は踏み出した。

 先生の前に、壁になるように、全てを奪い壊そうとする悪鬼から先生を守るために。

 刺々しい熱気に身を包まれる。大きな影が私の目の前で死を剥き出しにして、ありったけの恐怖をばら撒いていた。

 でも、不思議と怖くなかった。だって後ろには先生がいるから。私は先生を守るためにここに立っているんだから。


 そう、死ぬのは私だけでいい。

 先生はこんな所で死んでいい人じゃないのだ。

 確かに私がここに立った所で先生を守れるとは思えない。

 でも私を守ろうとして、先生の命が消え果てる事だけはあっていけない。それだけは許せない。

 私の最後の我儘なの。


 だから先生私を許して?


 お願いだから私を守れなかった事を責めないで。私は自らの意思でここに来たのだから。


 先生みたいに綺麗で強い女に成りたかったな。


 先生と一緒にやりたい事沢山あったのにな。


 先生にはいっぱい謝らなくちゃいけなかったのにな。


 ——重い唸りが頭の上の方で鈍くこだました。

 どうやら知らない間に紅い眼の悪魔が腕を振り上げ、私の命を終わらせようとしているらしい。


 私は小さな溜め息を吐き、後ろに少し顔だけ振り返った。

 目を真っ赤にしたレウミカ先生が私に向かって何かを口早に喋っている。きっと私の身を案じてくれているのだろう。

 でもその言葉に耳を傾ける事は出来ないのだ。

 大好きな先生の言葉だけど、この我儘だけは譲れない。

 

 だって、最後のわがままだから。


 ごめんなさい先生。

 先生には大切な人を目の前で失わせる事になってしまう。

 でもこれはしょうがない事なの。自業自得だし、最初からこうなる運命だった。


 でもお願いだから先生は死なないで。

 神様一生のお願いです。私は自分の罪を償います。

 だから先生だけは生かしあげて下さい。


 不意に私と先生の目が合った。

 とても綺麗で優しい翠色の瞳だった。

 でも先生は泣いていた。

 

 それだけが唯一心残りかな。



「ありがとう。先生」




――




 目の前の光景を直接見ながらも、レウミカには一体何が起きているのか理解出来なかった。

 何故なら前方にリエルが突然歩いて行ったと思ったら、ヘルゴリラの目の前にレウミカの盾になるかの様に立ち塞がったのだから。

 レウミカはリエルに向かって精一杯声を掛けた。

 リエルは何故だか知らないが死のうとしている。

 それを止める為にレウミカはここに来たのに、逆にリエルの死の引き金になろうとしていた。

 それだけは嫌だった。

 自分を守ってリエルが死ぬなんて、それだけは許せる筈がなかった。


 でも願う事しか出来なかった。

 誰かリエルを助けてと、救われる筈の無い願いを必死に祈る事しか出来なかった。


 そうしていると、不意にリエルが振り返り、何か言葉を小さく呟く。

 その瞬間、無慈悲な死の一振りは振り下ろされた。

 紅蓮の業火が無慈悲に吹き荒れる。

 一瞬の後、リエルの姿は文字通り跡形も無く消し去られ、熱を帯びる風には微かに血の匂いが乗っていた。


 やはり非情な現実はレウミカの願いを叶えなかったのだろう。

 願うだけで、救われる程、現実は甘くない。

 そんな事くらい、分かっていたはずなのに。


 最後に見たリエルの表情は優しい優しい笑顔。



 その光景だけがやけに、心に残っていた。




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