No.8 フェイト・ウィッシュ
窓から差し込む陽の光にあてられて、俺は重たい瞼をこじ開ける。
身体を半分覆っている分厚い毛布をどけて上体を起こせば、西洋風の内装がなされた寝室を見渡すことができた。
大きな欠伸を一つ。
鼻糞をほじりながら備え付けの洗面所へ向かうと、そこで初めて髪に寝癖がついていることに気づく。
それにしても、昨晩は本当に疲れたな。
これまでの非礼の詫びも込めてと、国王ガイザスが歓迎パーティーの開催を俺のためにしてくれたのだが、それはもう酷いものだった。
宴は立食式で、贅沢な嗜好品も含めて口にするものは全て非常に美味しかったことは良かった。
大陸一自由な国家を謳うだけあって無礼講、それも構わない。
国家の重鎮たちや、ある程度の階級を持つ王国騎士との世間話に関しても、なにを話したのかはまるで覚えていないが悪い記憶はない。
しかし夜も更け込み、食より飲酒の割合が増えてきて、幼いイルシャラウィなどが先に引き上げ始めた頃、そのその悪夢は始まったのだ。
問題は二人の男と二人の女だった。
二人の男とは、お察しの通り国王ガイザスと銀髪ヤンキーことヴォルフのことである。
ガイザスは泣き上戸で、愚痴を大声で喚きつつ所かまわず泣き出すというかなり迷惑な存在になり果て、ヴォルフはいつにまして一層ガラが悪くなり、俺に話しかけようとする人物全てに喧嘩を吹っかけていた。
問題の女の内の一人は王妃のベネットで、個人の凶悪さではぶっちぎりでトップだといえる。
悪酔いのタイプでいえばまさにガイザスとヴォルフの融合系。その変貌はあまりに苛烈で、ほとんど災厄に近い。
突如癇癪を起したかと思えば、今度は洪水のような涙を流して大号泣。
気づけばガイザスに馬乗りなっていたのに、次の瞬間には逃げるレクサス王子に接吻しようと宴会場を走り回っている。
それでもこの恥ずかしい三人の大人たちは、直接的な被害を俺に及ぼすわけではなかった。
だがあまりの混沌っぷに逃げ出そうとした時、問題児四人衆の最後の一人が俺に牙をむいたのだ。
その名もモカ・パンニーニ。
まさに伏兵。予想外のダークホース。
音もなく俺に忍び寄った彼女は、問答無用で俺に正座を強いらせ、酒臭い口で突如説教を始めた。
今思い出しても、思春期ならば一生のトラウマになっていそうな攻撃的な言葉は、有頂天気味になっていた俺を容赦なく貫く。
『全体的に英雄としての自覚が足りない。体格が貧租。基本的に挙動不審。顔からヘタレが滲み出ている。笑顔が変。胸や尻を見過ぎ。結婚できなそう。雰囲気が変質者っぽい。童貞は東京湾に沈んでろ。存在を慎め飛べない豚が。アバダケダブラ』
その内容は俺の軟弱なメンタルにクリティカルヒット。
東京湾がどうとかいくつか実際には言われていない台詞が記憶に混じっている気がするが、とにかくかなりの心的ダメージを負わせられたことは間違いない。
容赦ないお説教タイムは俺が逆に快感を覚え始める頃、モカが顔を青ざめさせ口を抑えどこかに急いで走り去るまで続いた。
そしてその後は落ち込みとかすかな興奮を胸に、用意されていた客室に一人戻り、スヤスヤと眠りについたというわけだ。
泥酔状態の美人に罵られるという体験。
昨日の夜のことは決して忘れないだろう。
顔を洗い終わり、自慢の黒髪がいつものサラサラヘアーも戻ったことを確認すると、俺はベッドの上に腰掛ける。
たった二日間の間に王家の城で、地下牢と最上級の来客部屋で過ごしたのはきっとこの世界でも俺くらいだろう。
無意味に身体をバウンドさせながら、俺は今日の朝ご飯は何だろうかと考えていた。
「すまない、ガイザスだ。入るぞ」
「……うぇ?」
するとノックもなしに、いきなり部屋の扉が開けられる。
完全に油断していた俺は間抜けな声を漏らしてしまうが、高貴な気配を全身にみなぎらせ、昨晩の痴態を一切感じさせないその男は気にすることなく室内に入ってきた。
「君に頼みがあると言っている者がいる。……昨日の今日で申し訳ないが、私に着いてきてほしい」
これまで見た中で最も厳かな表情。
どうも朝食のお誘いをこの城の主自らしに来たわけではないらしい。
とりあえず言われるままに廊下に出ると、部屋のすぐ傍で横になって眠りこけているヴォルフがいて、それがやけにホラーだった。
さすが一国の王と言うべきか、二日酔いの影響がまるでないガイザスの背中を追うこと数分。
俺が案内されたのは少し煤けた感じのする古部屋だった。
そこでもノック一つせず中に入っていくガイザスに俺も続くと、内部は書斎のような造りになっていた。
「すまんな、椅子は一つしかないんだ。我慢してくれ」
「は、はい。それは別にいいですけど……」
綺麗に整頓された部屋の中には、先客が二人いた。
一人は俺の被害者であるイルシャラウィ姫で、もう一人は救世の三番目ことユラウリだ。
彼女たちのどちらかが俺に頼み事をしたいと言っている人物だろうか。
書斎唯一の座椅子に腰掛けるガイザスの言葉を、俺だけでなく二人も待っている。
「さて、それでは青年、いや、ムト君。いきなりで悪いが、君の前にも“英雄”、そう呼ばれていた人物がかつてこの世界にいたことは知っているかな?」
「え? す、すいません、ちょっとわかんないです」
「そうか、知らないか。意外だな」
唐突に投げかけられる質問に、俺は戸惑いを隠せない。
質問の意図がわからないし、そもそも結局俺に頼み事をしたい人がいるという話はどこにいった。
「今から二千年前に、君と同じように世界を救った一人の女性のことだ。名はミヤ・マスィフ。
「あ、そ、そうだったんですか。な、なるほど」
自慢ではないが、この世界では俺の名を冠した暦が今では使われている。
しかしその前まで、つまり三年前以前にどんな暦があったのかは知らない。
それは単純に俺の勉強不足であり、異世界基準であればまだ俺が三歳児だからに他ならなかった。
「ミヤ・マスィフも君と同じように“闇の三王”を打ち破り、“ディアボロの篝火”を消したと言い伝えられている。一説では、彼女は私たちカエサル一族の先祖とも言われているが、まあ、それは今はどうでもいい。彼女の仲間に帝国ゼクターの暴帝の先祖を筆頭に、他の五帝の先祖がいたとかという与太話と同じレベルだからな」
闇の三王。
これはまた懐かしい言葉が出てきた。
今から三年前に俺、というかジャンヌが片っ端からぶっ倒した凶悪な魔物たちに付いていた呼称が闇の三王だった。
そういえば闇の三王の内の一柱だけはとある事情から生かしてあるが、最近会いに行っていないので様子は知らない。
世界魔術師機構の現会長に見てもらっているのでそれほど心配はしていないものの、久し振りに顔を見に行きたい気分になる。
「そして話を戻すが、その英雄ミヤの伝説の中に“憂いの拝殿”と呼ばれる場所が出てくるんだ。壁一面が蒼白光に輝き、神秘的な雰囲気に包まれる洞窟。その洞窟の中心に聳え立つ紅い炎で彩られた拝殿。私は御伽噺にしか過ぎないと思っているし、実際にそんな場所が存在しているとは思わない。しかし、とにかくそのような場所がミヤの伝説には出てくる」
ガイザスが話すのは、俺ではなくもう一人の英雄にまつわる伝説について。
女英雄という箇所にはたしかに興味が惹かれるが、一向に見えてこない話の終着点が気掛かりで仕方がない。
「さて、ここから先は、自分で言いなさい。イルシャラウィ」
「……はい。お父様」
「え?」
だがなんとここで話し手がガイザスから、その娘に移り変わる。
これまで静観に徹していたイルシャラウィは俺に真っ直ぐと目を向けると、その桃色の唇をゆっくりと動かす。
「私、その絵が描きたいの。実際に行って、見てみたい。ミヤ・マスィフの伝説に出てくる憂いの拝殿の絵が描きたい。だから私を連れてって」
「ちょ、え、どういうこと?」
ついに明かされた俺に頼み事がある人物の正体とその内容。
それでも願い事の中身を中々噛み砕けない俺は、目に見えた狼狽を露呈させる。
「い、いや、連れてってもなにも、本当に実在するかどうかわからない場所なんですよね?」
「そうだな。所詮は伝説。なにが真実で、なにが嘘かわからない」
「だったら、なんで?」
「嘘じゃない。憂いの拝殿は本当にある。あの人がそう言ってた」
「あの人?」
ガイザスに詳しい説明を求めようとするが、それはイルシャラウィに遮られてしまう。
確信に満ちた王女の瞳。
その確信の理由を話してくれたのは、昨日俺を英雄だと証明してくれた古い知人だった。
「…少し前に、イルは“智帝”に手紙を出した。内容は憂いの拝殿が実在するかどうか。返事の手紙は意外なことに戻って来て、書かれていたのは“する”という二文字」
「智帝? 智帝って、あのファイレダルの?」
「つまりは、そういうことなんだ。まさかあの変わり者で有名な彼女から返事はこないと思っていたのだがな。驚いたよ」
“智帝”ユーキカイネ・ニコラエヴィチ・トルストイ。
実際に会ったことは一度もないが、その名は聞いたことがある。
大陸最北の国、ファイレダルの女帝で、彼女もまた五帝と呼ばれるほどの傑出した魔法使いらしい。
しかし彼女に関して最も驚くべき噂は、この世界のこと全てを知っているという馬鹿げたものだろう。
この世界のこと全てを知っている。
正直言って、その噂の意味さえよくわからない。
とにかく知識が凄いということなのだろうが、いくらなんでも全知は盛り過ぎだと思う。
「とにかくその、何でも知ってるユーキカイネからイルシャラウィはお墨付きを貰って以降、ことあるごとに憂いの拝殿を探しに外へ出たがるんだ。どうかな? ムト君? ここは私の娘の願い事を聞いてやってくれないか? 世界最強の魔法使いとして名高い君が警護についてくれるならば、私も安心して娘を送り出せる」
「実在する可能性が高いと言っても、場所はわからないんですよね?」
「もう一度手紙を出したら、“待ってる”って書いてあった。たぶん、直接会いに行けば教えてくれるはず」
俺はガイザスに訊いたつもりだったが、代わりにイルシャラウィが答えた。
かつての英雄の伝説を辿る王女の警護か。
別段断る理由はないのだが、何か作為的なものを感じてしまう。
特に智帝ユーキカイネの手紙が気になる。
俺もあまりよくは知らないが、ファイレダルの女帝は人嫌いで有名だった。
それにも関わらず会ったこともない他国の王女にはなぜこうも、彼女にしてはだが、協力的な態度を示すのか。
「話を整理すると、俺への頼み事っていうのは、智帝の下へ会いに行き、憂いの拝殿とやらの道筋を教えてもらい、実際にその場所へ行くまでの護衛ってことでいいんですか?」
「うむ。その認識で構わない」
「お願いする。ムト・ジャンヌダルク」
おそらくたった一人の娘が国外に出るというワガママを、このいかにも身内に甘そうな国王は俺が護衛につくことを条件にして許可したのだろう。
きっと俺がここで断れば、彼女が国から出ること、つまりは憂いの拝殿探しの旅に出ることは叶わない。
これまでと同じように、週に一度街に出ては、燻る思いを抱えたまま紅い絵を描くだけ。
もしかしたら街の風景画を描く際に紅色しか使わないというのは、蒼白に煌めくと云われる憂いの拝殿の景色を描けないことへの意趣返しだったのかもしれない。
なら昨日のちょっとしたセクシャルハラスメントのお返しというわけでもないが、少しくらい付き合って上げてもいいだろう。
「……わかりました。どうせ暇ですし、いいですよ。イルシャラウィ姫の護衛を引き受けます」
「ほんと!? やったぁ! ありがとうムト!」
「うひぃっ!? くぅお! こ、これはっ!?」
俺が了承の言葉を伝えると、イルシャラウィが勢いよく飛びついてくる。
ふわりと俺を包む甘い香りと、柔らかく暖かい感触。
これはもうカップル成立。
他人に抱き締められ慣れていない俺は、必死で涎がこぼれないよう努める。
「か、感謝するよ、ムト君。私のイルシャラウィの護衛を引き受けてくれて。そう護衛! ご! え! い! を引き受けてくれてな!」
「…イル。喜び過ぎ。いつまでくっついてる」
俺はやたらと表情筋をプルプルさせているガイザスに尋常ではない力で肩を掴まれ、イルシャラウィはなぜかイライラしているユラウリに強く引っ張られたせいで、至高の時間は一旦終わる。
それでも男には決して生み出せない感触はしっかりメモリーされていて、もう俺のヤる気は満々だった。
「私のお願いを聞いてくれてありがとう。やっぱり貴方は本物の英雄だった」
「お、おう。当然さ」
そしてやる気に満ち溢れているのは俺だけではないらしく、イルシャラウィ曰く、出発はなんと明日らしかった。
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