第75話「悪魔のベーゼなのです」
厚木さんの中にいるラプラスは目を閉じ「キスして」とねだってくる。
叶うことのないと諦めていた俺の願い。それが、こんなかたちで叶うとは。
最愛の人との口づけ。断る理由なんて……。
彼女との距離が縮まっていく、心臓がバクバクとはち切れそうになり、身体が僅かに震えてくる。
「……っ!」
ふいに自分を俯瞰していた『もう一人の自分』が情欲にブレーキをかけた。これは厚木球沙ではないと。
「……」
思考は停止できない。考えてしまう。だから、俺は思いとどまってしまったのだ。
「……」
いつまでたっても触れてこない唇にしびれをきらしたのか、彼女が目蓋を開く。そして、目を細めてこう言った。
「……やっぱりね」
「……」
見透かされていたような視線。俺は何も答えられない。
「潔癖症ね。というか、あたしフラれたのか」
「あ、いや。その……」
うまく言い訳ができない。いや、言い訳なんか必要ないっていうのに……。
「わかってるよ。あんたの主人格……厚木球沙への想いが純粋だってことも。……ちょっと試しただけだから」
彼女はそのまま俯いてしまう。
「ごめん……」
「……あー、やっぱムカついてきたわ」
「ごめん」
「謝らなくていいから、ひとつだけ言わせて」
「へ?」
「この冷徹クソ野郎が!」
**
斉藤に仕掛ける策略はシンプルである。
名付けて「悪魔の誘惑」作戦だ。
下準備として、斉藤の未来を演算するために事前に彼に接触する。リセットが絡まない近未来ならラプラスの予知の精度が落ちないのはわかっていた。
ただし、記憶を持ち越しているのは斉藤も同じ。
なので、奴は俺のことを警戒しているはずだ。かといって、現段階でラプラスを斉藤に会わせるわけにはいかない。奴はまだ、厚木さんの主人格が引っ込んでいることに気付いていないのだから。
だから、奴と直接対峙せずに未来を演算する方法を実行する。わりと面倒くさいが失敗はしたくないので丁寧にいくつもりだ。
まずは斉藤の居場所を突き止める。
西加和まゆみがどこにいるかはわかっていたので、彼女に触れて未来予知と演算を行えば、斉藤のいる場所はだいたい分かるだろう。
現在、未来予知の能力は厚木さん本体の方にあるので、ラプラスにその役目を頼む。
向かいから歩いてくる西加和まゆみにぶつかるだけの簡単なお仕事だ。こちらは歩きながらスマホいじり、しっかりと彼女にロックオンする。といっても、相手も歩きスマホをしているので「よくある衝突」という事故を装えるのだ。
「ごめんなさい」
「……いえ、こっちこそごめんなさい」
何事もなかったかのように二人は接触し、通り過ぎていく。
しばらくしてから、俺はラプラスに話しかけた。
「どうだった?」
「うん。今日のお昼に会うみたい。彼女を尾行すればサイトーのところまで連れてってくれるよ」
**
斉藤が居たのは住宅地にある少し大きめの公園。遊んでいる子供も多いが、何か秘密の打ち合わせをしたいのであればうってつけの場所かもしれない。
西加和まゆみが斉藤と合流し、何か説明を受けている。
たぶん、リセット能力のことを話しているのだろう。自分に惚れ込んでいる彼女なら、引き入れるのも簡単だからな。
さて、俺たちは遊んでいる子供に声をかけて、用意していた玩具を渡す。
それは、吸盤の付いた矢が装填された玩具の銃である。
「これをあのお兄ちゃんに向けて撃ってきてくれ。当たったらこれをやるぞ」
と、レアなトレーディングカードを見せつける。
「うん。まかせて」
元気よくそう答えたのは、10歳くらいの短髪の男の子。
木陰に隠れてそれを観察すると、すぐに男の子は斉藤に銃を向け、玩具の矢を発射する。
呆気にとられている斉藤のおでこに、矢は見事に命中した。
「どうだ?」
「うん、オッケーだよ」
隣にいたラプラスがそう答えたので。矢に付いていた釣り糸を引っ張って、斉藤から矢を回収する。
つまり、遠距離ではあるが、糸を通して間接的に斉藤と繋がることができたわけだ。これで未来予知の発動条件は満たしている。
「例の件は演算できたか?」
「ばっちりだよ。初めっからこの方法で彼の能力の弱点を探れば良かったんじゃないの?」
「マジックアイテムが手帳だということがわかってないと、演算で苦労するぞ。最適解を出すのに、それこそ数百年コースになりうるからな」
「それもそうね」
俺たちは目的を達成したので、すぐに撤退する。
「実行日はいつにする?」
「ちょっと待って……そうね。彼が学校に来る、明後日の午後一時以降がいいかもね」
「わかった。じゃあ、部室へ行くか。今回も文芸部のみんなの協力は必要だからな」
昨日のうちに部員全員に『部室に集まってくれ』と連絡済みである。
「ええ、これが本当に最後の打ち合わせね」
**
文芸部では、3度目の状況説明と、斉藤に策略を仕掛けるための
もちろん、能力のことや、これまでの事情を話すだけでなく、厚木さんの中のもう一つの人格であるラプラスの存在も本人の口から語ってもらった。
「うそ……あたし、ぜんぜん気付かなかった」
高酉が両手で口を押さえて、いささかショックを受けていたようだ。
「なるべくあなたの前では、あたしは出ないようにしていたからね」
彼女がそんなフォローをする。まあ、基本的に高酉は、厚木さんが同性愛者であることにも気付かなかった鈍感な奴。なので、ラプラスの人格が頻繁に出ていたとしても気付かなかった可能性は高いだろう。
「ね、確認の為の質問いい?」
案山が控えめに手を上げる。
「なに?」
ラプラスが彼女へと視線を向ける。、
「今の厚木さんの人格が未来予知を使えるのよね」
「そうだよ」
「その人格が、なんらかのかたちで土路くんの心に宿った。おかげで彼も未来予知が使えたと」
「ええ。正確には心の中で彼と対話していただけで、彼自身が未来予知を使えたわけじゃないの」
「なるほど、状況が整理出来てきたわ。で、最大の疑問はあなたの未来予知にしても、斉藤君のリセットにしても、どうしてそんな能力が使えるようになったのか」
「それは……」
ラプラスが言い淀む。ここで真実を伝えるわけにはいかない。悪魔のことを話したら、その取引内容も説明しないと案山は納得しないだろう。
そんなわけで、俺の方から助け船を出す。
「能力に関しては、とある事情で守秘義務があるらしい。俺にも話せないくらいだから、相当な縛りなんじゃないか?」
「守秘義務?」
「話せないのを無理矢理聞き出しても仕方ないだろ? そんなことより今は斉藤の能力を封じる方が重要だ。すべてが終わって話せるようになったら話すだろう」
俺のその誤魔化しに、一瞬訝しげな顔をする案山だが、すぐに納得するように表情を緩める。
「そうね。今は斉藤君を止めることの方が大切ね」
ようやく本題に入れる雰囲気になったので、斉藤を欺く作戦を皆に伝えた。
6年前までリセットさせるという作戦についても伏せておく。ラプラスが言い出さなくても、俺はそれを部員に伝えるつもりはなかった。
なぜなら、全員もれなくその作戦を止めるだろうから。
誰かを犠牲にする作戦なんか承認されるはずがない。なんだかんだいって、皆、俺なんかより数百倍は優しいのだ。
今回の作戦も文芸部の皆の協力は必須だ。リセットされるとはいえ、彼女たちに罪悪感を植え付けてはならない。罪を被るのは俺一人で十分。
ホワイトボードに書きながらの説明が終わると、改めて部員みんなの顔を見る。ここでこんな馬鹿げた打ち合わせをするのも最後になるのだ。そう思うと感慨深くなる。
けど、弱気になってはいけない。
「これで奴の能力を完全に無力化する!」
自分を鼓舞するかのように、皆に向けてそう宣言した。
「土路くん。作戦の全容は本当にそれだけなんだよね?」
志士坂が、何かに気付いたのか俺の立案した作戦に疑問を投げかける。
厚木さんを救済するために志士坂自身を生け贄に捧げた作戦ですら、自力で答えに辿り着いた『俺の一番弟子』である。今回も気付かないわけが無い。
嘘を見破られるな。自信がないの悟られるな。これが最後の作戦なのだから。
「そうだよ。奴から手帳さえ奪えば、リセット能力は無くなる。そうすれば奴は下手な動きはできなくなる。失敗できなくなるからな」
「土路くんがそう言うなら信じるけど……」
志士坂はあっさりと引き下がる。前と違って、彼女は犠牲にはならない。
いや……そういう問題ではないことは重々承知だ。
でも、他に方法が見つからない。人知を越えた存在が関わっているというだけで、詰んでいる。
ラプラスと主人格の厚木さんのどちらも救うなんてできない。そもそも多重人格は精神的な病だ。治せるなら治すべきであろう。
裏ワザとして『人格の統合』なんていう方法もあったのかもしれないが、それは悪魔と契約していない場合のみだ。統合した人格をそのまま悪魔に持って行かれたら、同時に二人を失うことになる。
それ以前に、主人格の厚木さんがラプラスを拒むかもしれない。恋愛観が違いすぎる。
とにかく、選択しなければならないなら優先順位を考えろ。欲張るべきはここじゃない。
――「自身の能力を把握できていないのはもっと愚かなこと」
ふいに有里朱さんの言葉を思い出してしまう。
けど、限界だよ。今の俺は未来予知もできない凡人だ。悪魔に対抗できるわけがない。
『だったらできることをすればいいわ』
あれ? この声はラプラス……。彼女に視線を移すとにっこりと微笑んだ。俺の心の中を覗かれたのか?
「……」
『まだ迷ってくれているんだね。ありがと。じゃあ、ご褒美にあたしから最後のアドバイスをしてあげるね』
そういやテレパシー的な能力があるって言ってたっけ。しかも『俺限定』ってのが胡散臭くもあるが。
「……」
『リセット後の世界では全力で生きなさい。あなたにできることをすべてやりなさい。あたしを助けられなかったと悔やむなら、助けられる人を全力で助けなさい。それがあなたの使命』
心をギュッと締め付けられるような僅かな痛み。
「それは呪い?」
口に出さずに心の中で彼女に問う。
『呪いじゃないよ。これは、あたしからの
「
まるで形見みたいじゃないか。そんなのって……。
「せんぱぁい、どうしたんですか? 厚木せ……じゃなくてラプラスさんと見つめ合ったりして」
無言になってしまったものだから黒金に突っ込まれてしまう。こういう時に時間が止まらないのは面倒だ。
「なんでもねーよ。ちょっと昔のことを思い出してただけだ」
そう言って誤魔化すが、それで諦めるほど黒金は聞き分けの良い性格ではない。
「ならいいですけど、浮気は良くないですよ。中身は厚木せんぱいじゃないんですから」
「そんなことは言われなくてもわかってるっつうの!」
一瞬、一昨日のキス未遂の件が頭を過ぎる。
「浮気するならあたしにしましょうよ。あたしなら、いつでも歓迎です!」
「そういえば俺、別に厚木さんと付き合ってねーだろが!」
「あ、そうでしたね。じゃあ、あたしと付き合っても問題ないですね」
「いや、そういう問題じゃねーよ」
こうやって、ネコのようにじゃれてくる黒金を適当にあしらっていると、いつものように文芸部の皆からツッコミが入るのだ。
「はいはい、夫婦漫才はそこまで。他に話す事ないなら、私帰るわよ」
と案山が冷めた口調でそう告げる。
「きゃ! 案山先輩に夫婦認定されました!」
「ちゃうやろが!!」
俺が脊髄反射的にツッコミを入れると、それを宥めるように志士坂が立ち上がる。
「まあまあ、スズの言うことですから。ね、将くん」
そうやって仲裁に入られると、俺の怒りも削がれて、自分でもバカらしくなってくる
。なんだか、志士坂に飼い慣らされてきているような気分だ。
「ま、いっか」
そんな風に俺が落ち着きを取り戻すのを見て、高酉が茶化してくる。
「リオンってまるで土路の正妻みたいだよね。付き合っちゃえばいいのに」
その言葉にすぐさま反応して黒金が喚き散らす。
「ぎゃー! 凛音姉さまに妻の座を奪還されました!!」
いつもの日常だ。
『楽しい部活ね』
再びラプラスが俺の心に直接語りかけてくる。
「騒々しいけどな」
『この絆は大切にしなさい。それはリセット後の世界でも同じ』
「ラプラス……」
『あたしの願いはね。好きな男の子に幸せになってもらうこと。あたしをフッたんだから、せめてあたしの願いを叶えなさい。絶対だよ!」
そこで彼女の言葉は終わってしまう。あとは、部室の騒がしい雰囲気を楽しむように微笑むだけであった。
◆次回予告
斉藤を罠に掛け、リセットを発動させる作戦。
これで終わりではない。
最後の使命が主人公を動かす!
次回、第76話「さよならは言わないのです」にご期待ください!!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます