高橋秀徹

遅れました、申し訳ありません!

その代わりと言ってはなんですが、ボリュームだけはすごい(2万字あります)ので、最後にぜひお読みください!




高橋秀徹は日本の兵庫県出身のサッカー選手。ポジションはFWやMF。

16歳でプロデビューを果たすと、スピードやテクニックを活かしたプレーで、一躍世界のトップ選手となった。

しばしば世界最高の選手であると称賛される選手で、7度にわたって世界最優秀選手賞を受賞している。




【生年月日】2000年7月1日 (現在51歳)

【出身地】兵庫県神戸市

【身長】173cm

【体重】64kg


【所属チーム】

15-16 (loan)FCシュトゥットガルト 30(20)

16-17 (loan)ミランfc 32(25)

15-19 リヴァプール・レッズ 91(94)

19-21 ユヴェ・トリノ 94(60)

21-32 バルサシティ 521(623)

32-36 アーセナム186(179)

36-38 マルセイユ 90(74)

38-42 クラフト神戸 101(123)

42-44 バルサシティ64(48)


【代表成績】

U-23日本代表 7(9)

日本代表 104(118)



【経歴】




2000年7月1日、高橋秀徹は元Jリーガーである高橋秀英とその妻の間に生まれた。秀英は海外でサッカーをしようとスペインへと移籍したこともあったが、2年で挫折した経験を持ち、日本と海外との差を痛感していた。

そのため、息子の秀徹を海外でも通用する選手にしたいとの思いから2歳頃から15歳までクラブチームなどには一切所属させずに二人きりで練習をしていた。そこでドリブルやシュートなどのテクニックを磨いたと秀徹は後に語っている。


16歳の時、父親がガンで亡くなったことで秀徹は海外で活躍しようと単身ドイツへと赴き、FCシュトゥットガルトのトライアウトを受けて見事合格を勝ち取るが、たまたまその場にいたリヴァプール・レッズのクラップ監督に誘われてレッズへ入団。そしてレッズに所属したまま、1年間、FCシュトゥットガルトへのレンタル移籍をすることになった。


(シュトゥットガルト時代)



シュトゥットガルトでは当初監督からの評価が高くなかったのだが、徐々に序列も上がっていき、ブンデスリーガの初戦のミュンヘン戦では途中交代で試合に初出場。

中央から単独でドリブルしてゴールを奪い、その圧倒的な才能を見せつけた。

その後もサイドアタッカー、もしくはセンターフォワードとしてスタメンに定着し、順調にゴールやアシストを重ねたものの、ドルトFCとの対戦でフルメンスにタックルを受けて以来、シュートを打つことを恐れ、ゴールから遠のき、前半シーズンを6ゴールで終えた。

しかし、後半シーズンには復調し、最終的には30試合で20ゴール14アシストという記録を打ち立て、順位が低迷していたチームを上位へと導いた。このシーズンではブンデスリーガの最優秀新人賞とシーズンベストイレブンに選出された。この頃には市場評価額が5000万€ほどになっていた。


(ミランfc時代)



上記の活躍を受けて、レッズのクラップ監督は秀徹のレッズ帰還を望んだが、レッズ上層部はまだ活躍が不十分であったことや、ミランから900万€のレンタル料を支払う大型オファーが届いたことで、レンタル期間を継続させると決定し、ミランへのレンタルが決定した。

ミランでは同郷の選手である本多、コロンビア代表のバッキとトリオとして活躍。決定力のあるCFとしてミランを力強く牽引した。


初戦のクラブミラノ戦から勝利を獲得し、守備が堅固とされるセリエAでも通用する選手であると証明した。

ただ、序盤から中盤にかけてミランの勢いは失われていき、得点力不足に悩まされたものの、中盤以降は本多、秀徹、バッキの三人のいわゆるトライアングルの決定力は高まり、秀徹はこのシーズンで32試合25ゴール8アシストを記録し、チームは3位でフィニッシュ。5シーズンぶりにチャンピオンズリーグの出場権を獲得した。

秀徹はこの活躍が評価されて、得点ランキングではジャコの29点、メルテレスの27点に次ぐ25点にも関わらずセリエAのMVPに輝いた。


(リヴァプール・レッズ時代)



ようやくミランでの活躍も評価されて、秀徹はレッズへと復帰した。

このシーズン、レッズは8000万€でCBのデークを、3000万€でRWGのサリーを獲得するなど補強に力を入れており秀徹も戻ってくることからも期待が高まっていた。

開幕から秀徹はスターティングメンバーに入り、主にLWGやCFを担当。初戦からゴールを決めて、チームも5-0で圧勝するなど上々の滑り出しとなった。シーズン途中まではRWGのサリーとの不仲説が囁かれていたが、シーズン後半になるまでには解消したようで、サディオ・マニャ、高橋秀徹、ムハメド・サリーの三人はトリプルSと呼ばれてゴールを量産した。

このシーズン、リーグではマンチェスター・ユニオンを抜いて2位となる躍進を果たし、チャンピオンズリーグでは決勝進出も果たした。

チャンピオンズリーグ決勝では、3連覇を目論むクラブマドリードに果敢に挑み、前半の立ち上がりは優勢を保つが、サリーの負傷から一気に劣勢に追い込まれ、ベレルやローガンによるゴールで4点を奪われてしまっていた。秀徹もそれに応戦してマニャへ1アシストを献上し、自身も1ゴールを決めてチャンピオンズリーグでの得点数を12点に伸ばすも、結果は4-2の敗北。得点王の座も16点を決めたローガンに譲った。

それでも秀徹はプレミアリーグの得点ランキングで3位に入り、ベストイレブン入りした。このシーズンは43試合35ゴール14アシストに終わった。


レッズでの2シーズン目はレッズ史上でも最強とされるスカッドで、圧倒的な実力を見せつけた。秀徹はそのエースとしてチームを牽引した。特に前線のトリプルSによるプレッシングやコンパクトでスピードのあるポゼッションサッカーは現代のサッカーを象徴する形であった。

プレミアリーグでは前年度の優勝チームであるマンチェスター・ブルーズに直接対決での決勝点を決めるなどの決定的な活躍をしつつも、コンスタントにゴールを量産。チームメイトのサリーが昨年度に10シーズンぶりとなる、プレミアリーグのシーズン得点記録の31点を32点に更新したばかりであるというのに、その記録を1年で42点へと大きく伸ばした。チームとしても首位を争っていたブルーズに何とか終盤の終盤で競り勝ち、プレミアリーグ初優勝を達成した。

また、チャンピオンズリーグでも強さを見せ、グループステージを全勝して突破すると、トーナメントでも勝ち上がり、準決勝でバルサシティと戦った。

しかし、秀徹が直前のトッテナム戦で負傷するというアクシデントが起きてしまった。これによって秀徹は出場できず、バルサシティにはアウェイにて4得点を奪われて4-0の惨敗を喫した。それでもレッズは諦めず、ホーム戦では後半35分までに怒涛の4得点をあげ、途中交代で入った秀徹が勝ち抜けに必要な最後の1点をもぎ取って5-4での劇的な勝利を掴み取った。これは後に“アン・スタジアムの奇跡”と呼ばれることになる。

そして、決勝戦ではアムステルダムFCと対戦。アムステルダムは18-19シーズンにはデ・リヒトやヤングといった後のスター選手となる若手が揃っており、大きな戦力を保持していた。が、クラップの戦術が完全にハマったレッズには手も足も出ず、秀徹が2得点を決めて2-0で優勝した。

この活躍で秀徹はこの年の世界最優秀選手賞を獲得。当然ながらプレミアリーグとチャンピオンズリーグでもMVPを獲得し、両方で得点王にも輝いた。また、公式戦48試合で59得点12アシストを記録した。


(ユヴェ・トリノ時代)



レッズでは2冠に輝くなど栄華を極めたものの、上層部との不和から秀徹の契約延長は難航し、最終的に契約期間を1年残してユヴェ・トリノへと移籍した。移籍金は1億8000万€とされている。

移籍した秀徹は背番号9をつけ、念願であったクリストファー・ローガンとの共闘を果たすも、初年度は新たにチームを率いることになったサッキ監督の戦術が浸透せず、セリエAの優勝は果たしたが、チャンピオンズリーグではラウンド16でリヨンに敗北した。秀徹自身も納得の行くような結果を残すことができず、結果は41試合20ゴール17アシストにとどまった。一方で、昨年度の活躍によって先述の通りアジア人初の世界最優秀選手賞を獲得した。

また、19歳での獲得は史上最年少である。


2シーズン目にはユーヴェを率いるサッキ監督も戦術を確立。4-3-2-1のフォーメーションで、秀徹とパウロ・ディブラを2にあたるOMFで起用する中央の攻撃力に特化させた形が大当たりして開幕戦からリーグでは15節まで無敗、チャンピオンズリーグではグループステージを全勝して勝ち上がった。最終的にリーグ戦では34勝2分2敗と独走して10連覇を果たし、ローガンは38得点をあげてセリエA記録を塗り替えた。秀徹も20アシストを達成し、セリエAのアシスト記録を塗り替えた。

秀徹自身はCFとして起用されるローガンのサポートのために、ここ最近フィニッシャーに転向していたプレースタイルを元に戻し、中央からサイドを切り裂くドリブラーとして活躍した。このシーズンで秀徹のドリブル回数、成功数、成功率などは全て2位以下を大きく突き放して欧州全体で1位となり、目に見える結果以上の活躍をしたと言える。

チャンピオンズリーグでは順当に勝ち上がってマンチェスター・ブルーズ、バルサシティなどを撃破。決勝戦ではクラブマドリードと対戦した。クラブマドリードはローガンの移籍後、若手を多く起用して再興しており強力であったが、ローガンの決勝点を演出し、自身もゴールを決めて3-2で勝利。ユーヴェを20年ぶりの優勝へと導いた。秀徹はこの活躍でチャンピオンズリーグのベストMFに選出された。


(バルサシティ時代)



ユーヴェはこの前の年から、チャンピオンズリーグの成績に関係なく、財政難やローガン、秀徹、ディブラといった世界的アタッカーを三人も抱えることで他の選手の起用に障害が生まれることから、最も移籍金が高くなる上、チームにそれほど愛着がない秀徹を売却することを既定路線としていた。

秀徹にはパリシティ、マンチェスター・ユニオン、バルサシティ、クラブマドリードといったビッグクラブがオファーを提出した。当初は久木も所属しており、秀徹の尊敬するローガンも元所属先としておすすめしていたことから、クラブマドリードへの移籍がほぼ確定的と報じられていた。しかし、直前でバルサシティのフォルト会長が直接秀徹に交渉をした結果、バルサシティへの移籍が決定。後にフォルト会長は、秀徹をバルサシティに移籍させたことこそが自身の人生における最大の偉業だと語るほど、バルサシティ移籍は成功することになる。


ユーヴェに払われた移籍金は3億€で歴代最高額。バルサシティと秀徹は4年契約で4年間で140ゴールを達成した場合、自動で2年の契約延長オプションが適用される契約を交わした。ちなみに、この4年間で140ゴール、つまり年間平均35ゴールのペースで得点を重ねたバルサにおけるプレイヤーは、過去10年でメーシュとスアリスしかおらず、かなり難しいものであった。年俸は4000万€とされている。

加入当初、監督はキセテンであり、以前からかなり不評な監督であった。ポゼッションサッカーを望んでいる監督ではあるのだが、その戦術に柔軟性がなく、バルサに合っていないことから批判された。

秀徹が入った年は、メーシュ、スアリスという二人のバルサのスターが抜けた年であり、かなりのプレッシャーがかかっていた。秀徹はLWGとしてプレーし、コウケーニョがCMFに、ファビオがRWGに入る形でリーグ戦に臨んだが、開幕戦からチームはぎりぎりの戦いを強いられ、ポゼッションも攻撃には繋がらないものとなっていた。

前半シーズン終盤、秀徹も今までのような結果を出せず、チームも本来いるべき1〜2位ではなく、3〜5位を行き来する状態となったことでようやくバルサのフロントも動き、監督を交代。昨シーズンにレッズを退任し、フリーとなっていた秀徹の恩師でもあるクラップを監督に招聘した。

クラップはティキタカにこだわるバルサのシステムを一新させ、レッズで導入していたハイプレスとコンパクトサッカーを適用した。

十数年に渡って定着していたティキタカからシステムを変えることに当初はチーム内外から反発もあり、適応にもやや時間がかかった。リーグ第19節のクラブマドリード戦で惨敗したことで、その批判にも拍車がかかった。

しかし、後半シーズンからはすでにクラップのサッカーを知っている秀徹やコウケーニョ、さらにアスレチックマドリードで似た形のサッカーを経験していたグレーズマンらが攻撃を牽引し、チームは復調。秀徹もリーグ戦7試合連続ゴールを達成するなど実力を見せつけ、リーグ戦では36試合23ゴール13アシストという成績を収めた。しかし、バルサはクラブマドリードの首位独走を許してしまい、得点ランキングでも秀徹はマドリード所属のナバッペの34得点、ビラ=レアル所属のロドレゴの26点に次ぐ3位であり、アシストランキングでも4位に留まるなど厳しい結果となった。シーズン成績は45試合29ゴール15アシスト。また、この年の世界最優秀選手賞はライバルのナバッペが受賞した。


勝負の年となった翌シーズン、開幕戦からハットトリックを達成するなどしてチームの気勢を上げ、マドリードのリーグ4連覇を阻止すべくリーグ戦に挑んだ。同じく、クラブマドリードも好調を保っていたものの、互いに全勝で迎えた6節の直接対決で秀徹による決勝点でバルサが1-0の勝利を手繰り寄せ、一歩リードした。

しかし、グレーズマンやコウケーニョ、ピテといった主力選手の相次ぐ負傷に苦しめられ、特にリーグ12節〜21節は秀徹の孤軍奮闘状態になった。秀徹自身はグレーズマン、コウケーニョの両者がいなかった9試合で12ゴール6アシストという圧巻の成績を残したが、重なる失点や得点力不足を露呈する場面が増え、バルサは最後に復帰することになったピテが復帰したリーグ25節までに2分5敗を喫しており、辛うじてこのシーズンでのリーグ2位は死守したものの、1位からは遠のき、最後まで順位を上げることは出来なかった。

それでも秀徹は前年度よりもぐっと得点もアシストも増やし、37試合で45ゴール15アシストを記録。得点ランキングでは2位のナバッペの36点を引き離して1位を獲得。リーグMVPも獲得した。

しかし、チャンピオンズリーグにおいては秀徹個人も苦戦の連続となった。まず、リーグ戦と同様にチームの不調があった上に、グループステージでは秀徹は4試合連続ノーゴールというらしくない状態に陥った。

決勝トーナメントではラウンド16は通過したものの、準々決勝でマンチェスターブルーズを破って勢いに乗るレバークーゼンに5-1という大敗を喫して敗北。秀徹は9試合でわずか3ゴールという結果に終わった。

また、コパ・デル・レイ (スペイン国内杯)ではアスレチックマドリードに決勝で3-0と快勝し、優勝。シーズン無冠は免れた。秀徹はこの試合で2点をあげ、シーズン50試合52ゴール19アシストという見事な結果を残した。


バルサで迎えた3シーズン目は変化の年となった。クラップ監督をはじめとしたバルサフロントは思い切った改革を実施。長きに渡ってバルサを牽引してきたピテとの契約延長をしない決断をし、グレーズマンをクラブミラノに4000万€で売却。代わりにクラブミラノからマルティネルを6000万€で買い取り、CBにはユヴェ・トリノに1億€を払ってデ・リヒトを獲得した。さらに、DMFのブスケットらも退団することとなった。

そんな中で秀徹は23歳にしてクラブ最年少でチームキャプテンに任命され、持ち前のキャプテンシーを発揮することとなった。ポジションはRWGへと移動した。

リーグ戦では開幕から10節までに怒涛の10連勝。チームの得点数も28点と大爆発した。この年から加入したマルティネルは予想外に低調でシーズン通して41試合で8ゴール7アシストに留まったものの、秀徹は最初の10試合で13ゴールとゴール数を伸ばし、宿敵・クラブマドリードにも4-0での快勝をもたらした。しかし、後半に入って過密日程に対するメンバー層の薄さから徐々に失速。第33節でのアスレチックマドリードとの敗戦をきっかけに、バルサは不調に陥った。それでも1位のマドリードとは2pt差の勝ち点89でシーズン2位という結果を残した。

ただし、この年にアスレチックマドリードはCFに超新星・ホーレンドを獲得しており、秀徹はその勢いに勝てず、得点ランキングで37点と好成績ながら、39点を取ったホーレンドに首位を譲った。

一方、バルサはこのシーズン、チャンピオンズリーグにおいて輝きを放った。初戦からパリシティと対戦するなど、開始前は不安視されていたが、上手くクラップ監督のハイプレスとカウンターが炸裂し、5-0と快勝すると、その後も連戦連勝。順調にグループステージを突破し、秀徹は8ゴールをあげた。

決勝トーナメントでも、クラップがチャンピオンズリーグを優先したため、チームは良いコンディションでゲームに臨めた。特に、準決勝のアスレチックマドリード戦のホーム戦では互いのエースである秀徹とホーレンドが大爆発。二人だけでそれぞれ3点と2点を取り合う展開となったが、最終的には6-4で競り勝った。

決勝戦では古巣であるユヴェ・トリノと対決。ローガンのユーヴェでのラストマッチとなったこの試合では、またも両エースが打ち合う展開となり、ローガンと秀徹がそれぞれ2点を取り合った。2-2で迎えた延長後半14分、バルサLWGのファビオが得点し、3-2で決勝を制して優勝した。

リーグでは優勝出来なかったものの、このチャンピオンズリーグとコパ・デル・レイの2連覇を要因として、秀徹は実に4シーズンぶりとなる世界最優秀選手賞を獲得。ライバルのナバッペと並ぶ2度目の受賞であった。


24-25シーズンは昨年に引き続き、バルサはさらなる改革に着手した。ここまで3シーズンに渡ってバルサを率いてきたクラップは契約満了とし、クラブのレジェンドであるティビィを監督に招聘。本格的にティキタカの再興に乗り出した。

そのため、昨季に期待されながらも活躍できなかったマルティネルを3000万€で放出し、右サイドのウインガーとして、マドリードで苦戦してベンチメンバー化していた久木を1億€で獲得。また、右サイドバックとしてアレキサンダーも獲得し、右サイドの攻撃力を拡充した。これに伴って昨季は右サイドを主戦場としていた秀徹のポジションはCFへと移り、定着した。

元々バルサの下部組織にいたことから、久木の定着は早く、レギュラーとしてまたたく間に結果を残していった。特に、秀徹との連携力は日本代表で長年共演しているだけあって凄まじく、久木はシーズン半分で21試合7ゴール13アシストをマーク、秀徹は25試合36ゴール9アシストをマークした。特に、秀徹はシーズン折り返しにおける自身の得点記録の31ゴールを塗り替えており、爆発的な得点力を開花させたシーズンとなった。

リーグでは、バルサ、アスレチックマドリード、クラブマドリードの三つ巴の激しい優勝争いが繰り広げられ、それぞれのエースである秀徹、ホーレンド、ナバッペの三者は得点を伸ばした。とは言っても、得点ランキングの上では秀徹の地位は圧倒的であり、それを二人が追う展開となっていた。また、秀徹はこのシーズン、アスレチック、マドリードに対しては戦った全試合で得点をあげており、初のリーグMVPにも輝き、優勝争いを制した。リーグでの結果は36試合47ゴール12アシストであり、ラ・リーガにおけるシーズン最多得点記録を持つメーシュ、その次点のローガンに次ぐ3位の記録となった。

引退したローガンから"CL男"の称号も受け継いだ秀徹は、このシーズンもチャンピオンズリーグで躍動した。グループステージの時点ではやや不調で4ゴールに留まったが、トーナメント戦からは髪先を金色に染めて気合を注入。ゴールを量産した。特に準決勝のミュンヘンFCとの2戦では両方でハットトリックを達成。決勝戦でも決勝点を決め、13試合で15ゴール4アシストを達成。コパ・デル・レイでは3試合3ゴールも記録して優勝したことから、クラブ単位では三冠。秀徹は49試合65ゴール16アシストを達成し、ライバルの二人との差をつけた。


これ以降のシーズンではティビィ監督の元、秀徹、ファビオ、久木の三人を軸に攻撃を展開。秀徹だけはバルサ出身ではないが、他はバルサ出身ということもあり、ティキタカが上手く決まり、グアディオ時代の再来と評された。2024シーズン以降、秀徹は継続して50ゴール以上を決め続けた。特に、26-27、27-28、29-30シーズンはシーズンで70ゴール以上を決めるなど個として圧倒的な力を見せつけ、バルサの黄金期を築き上げた。

しかし、30-31シーズンの終わり、秀徹は突如会見を開き、自身の衰えを感じ始めてきたことを告白し、来シーズン限りで退団する意向を表明した。ラストシーズンも、衰えを感じさせないプレーを見せ、最終的には50試合57ゴール19アシストを記録したが、やはり退団の意向は変わらず、退団。11年間で6度のリーグ制覇、5度のチャンピオンズリーグ優勝、6度のコパ・デル・レイ優勝を達成するなどのチームの素晴らしい結果に貢献し、521試合623ゴール246アシストを記録。クラブ2位の得点記録も保有することになり、5回の世界最優秀選手賞にも輝いた。


(アーセナム時代)



バルサを退団し、フリーになった秀徹にはオファーが殺到したが、8月になるまで移籍先は決めなかった。最有力となったのは古巣のリヴァプール、ミランや、パリシティなどの金満クラブであった。特にパリシティは、年俸1億€にも及ぶ破格の待遇を提示したため、一時は合意間近とされたが、8月1日に、大方の予想に反してアーセナムへの入団が決定。年俸はわずか1900万€とされており、入団の理由は本人いわく、アーセナムの再興を手助けしたいと思ったからとのこと。


移籍後に決まった背番号は10番で、ポジションはCFやOMFであった。チームはかつてのライバルである、リヴァプールやマンチェスター・ブルーズ、ユニオンらとは5年以上突き放されており、辛うじてプレミア・リーグで1桁を取る程度に落ち込んでいた。

エースで左サイドの支配者と呼ばれたサカや高速RSBであるベジャリンといった古株こそ奮戦していたが、他の新戦力はことごとく適応していなかった。

当初、秀徹は日本代表やバルサでもしていたポゼッションサッカーから、いきなりカウンターサッカーに切り替えられるかというのは疑問視されていた。しかし、元々カウンターを得意としていた秀徹は難なくそれに対応し、アーセナムに明らかに欠如していた得点力やチャンスメーク力を十二分に補強した。

初シーズンには久しぶりとなるプレミア・リーグで存分に力を発揮し、ロンドン・ブルーズとマンチェスター・ブルーズ、リヴァプールの3強となっていた状況をひっくり返してアーセナムの首位独走体制を築いた。リーグの前半戦が終わった時点で19試合20ゴール12アシストと躍動しており、後半シーズンも一切気を緩めずに36試合で38ゴール19アシストを記録した。チームも勝ち点92ptを獲得するなど、ここ20年で最も勝ち点を獲得するシーズンとなり、優勝。秀徹は得点王、アシスト王、MVPの三冠を達成し、史上最多タイとなる6回の世界最優秀選手賞を持つ選手としての矜持を示した。

また、初の出場となるヨーロッパマスターズリーグでは、チャンピオンズリーグでの最多得点記録を保持するほどの圧倒的な得点力を発揮して優勝に貢献。リーグ戦を優先したため、10試合の出場に留まったものの18ゴールを記録し、シーズン最多得点記録を更新した。


次シーズンには、アーセナムは秀徹の相棒であった久木を6000万€で買い取り、弱かった右サイドからの攻撃力を補強。鋭いカウンターの場面から、左からはサカ、右からは久木という優秀なアシスターから中央の秀徹へとボールを供給してゴールを決める体制を確立した。

また、それがダメでもサカ、久木の両名は決定力も高く、あえて秀徹が中央からサイドへ流れて二人のいずれかがスイッチして中央に入るという流動的に攻撃するパターンも確立しており、特にチャンピオンズリーグでこの攻撃は非常に有効に働いた。

しかし、前線の三人は全員30歳を超えており、リーグ戦では選手層の薄さが露呈することになった。チャンピオンズリーグを優先するあまり、秀徹をなかなかメンバーに入れられず、彼の出場は29試合に留まった。それでも出場した際には変わらないクオリティを発揮。27ゴール9アシストを記録した。チーム成績は3位に終わった。

逆にチャンピオンズリーグでは、ほぼ全ての試合で前線の三人が揃い、安定した攻撃を見せた。長らくこの大会へと出場すらできていなかったアーセナムだったが、グループステージを難なく突破するとその後も順当に勝ち上がっていき、準決勝のバルサ戦では接戦ながらも、古巣との対決に息巻く秀徹のハットトリックで逆転。決勝戦へと駒を進めた。決勝戦では、アスレチックマドリードと対決。昨年度の世界最優秀選手賞を獲ったライバルのホーレンドとの久々の対決となったが、0-0でPK戦にまでもつれ込む苦しい戦いであった。最終的にはPK戦を4-2で制したアーセナムが優勝。秀徹はアーセナムに、実に40年ぶりとなる優勝をもたらした。


その後、サカの退団に伴って秀徹は左へとポジションを移し、CFに新たに加入した下部組織からの生え抜きのティエム・アルリの育成に当たった。また、33-34シーズンの世界最優秀選手賞も獲得し、世界最優秀選手賞の単独最多受賞者となった。

プレースタイルも得点者からドリブラーへと豹変。得点もしつつアシストを量産し、34歳にして30歳に受賞して以来となる、欧州1のドリブラーに授与されるゴールデンマーカー賞を受賞した。

最終的には、36歳で退団するまでにアーセナムの成績を見事に立て直し、アーセナムのレジェンド選手として語り継がれるような存在となった。


(マルセイユ時代)



アーセナムとの契約期間切れに伴って、各欧州のチームは熾烈な秀徹の獲得レースへと乗り出したが、秀徹のまだ未経験のリーグでサッカーをしたいという希望と合致する、リーグアンのマルセイユへの入団が決定した。当時、同じリーグに所属していて、豊富な資金力があったパリシティからも誘いがあったが、頑なに拒否したという。契約は2年で年俸は1500万€。他クラブからは3000万€を超えるオファーがあったにも関わらず、このオファーを呑んだことで、秀徹の金に執着しない姿勢が改めて証明された。

マルセイユは近年力を付けつつあったものの、パリシティはここ20年以上圧倒的な実力で優勝し続けており、その打倒が目標とされた。この頃、秀徹はシーズンあたり、およそ30ゴール20アシストを記録する選手となっており、得点力だけではなく、チャンスメーク力でも評価されていた。

マルセイユの1年目はCFとして得点力を発揮。当時、パリシティのエースとして活躍していたウルグアイの怪物・カバルーネはこのシーズン、開幕10連続ゴールをあげるなど、彼自身の過去最高シーズンを送っていたが、秀徹はそれに食らいつき、リーグ前半戦ではカバルーネ18ゴール、秀徹13ゴールと大差をつけられていたが、後半からギアを入れて2連続ハットトリックを達成したり、パリシティとの一戦では一人で2ゴール2アシストを記録するなどみるみるうちに差を縮め、最終的にシーズン38ゴールを叩き出して得点ランキング上で逆転。マルセイユとしてもパリシティとの熾烈な優勝争いを直接対決の勝利などで、終盤になって有利に進め、第37節のモナコ戦の勝利によって優勝を決定させた。

また、チャンピオンズリーグでも躍動した。クラブマドリードとクラブミラノと同組になったグループリーグ。当初、突破は不可能とされていたが、Mr.CLとも呼ばれる秀徹の活躍もあって5勝1分という極めて優秀な成績でグループリーグを突破。クラブにとって7年ぶりの決勝トーナメントでは、第1戦からリヴァプールと戦うことになるも、2ndレグの後半アディショナルタイムでPKを獲得したマルセイユが秀徹のPK弾で勝ち越し、1-0の辛勝をもぎ取った。しかし、準々決勝のユヴェ・トリノ戦では4-3と惜敗してしまった。とはいえ、グループリーグすら突破困難と言われたマルセイユをここまで勝ち上がらせた功績は評価され、世界最優秀選手賞授与式では、3位となり、全公式戦では50試合45ゴール14アシストを記録。変わらない決定力を示した。


そして臨んだ翌シーズン、ここで顕著に秀徹の衰えが見え始めた。初戦では今まで外さなかったような決定機を2度も外し、ドリブルも10回仕掛けて3回しか突破に成功しないなど、批判というよりも心配されるような出だしとなった。これは本人にとってもショックであったようで、次戦からはシンプルなプレーを好むようになり、ドリブル回数やその距離は激減した。それでも、リーグアンでシーズンを通して22ゴールを記録、チャンピオンズリーグでも6ゴールを決めたが、リーグアンのような決してレベルが高くないリーグでのこの成績は本人にとって納得の行くものではなく、ついに帰国を決意した。


(クラフト神戸時代)



秀徹が帰国の意思を示すと、Jリーグの各クラブはこぞって彼の獲得を目指したが、イエニスタの在籍時代以来、資金を投入しても補強が上手く決まらず、Jリーグの下位の常連となっていたクラフト神戸が、彼の地元ということもあって、秀徹の心を射止め、2年半の契約を交わした。年俸はわずか5億円だった。

チームは3-4-1-2のフォーメーションを採用しており、当初は慣れない3バックからのビルドアップに苦戦するも、OMFとして、どれだけマークについてもそれを難なくすり抜けてゲームメークしていくさまはまさに圧巻であり、衰えたと言いながらも未だに欧州で一線級の働きができる彼の実力を遺憾なく発揮した。

欧州は国内リーグもカップ戦なども夏に始まり、春に終わるというサイクルだが、日本をはじめとする欧州以外の地域では冬に始まって秋または冬におわるというのが定番であり、神戸加入時にはすでに38-39シーズンは半分終わっている状態であった。そんな中でも秀徹は結果を残し、残っていたリーグ戦19試合に全て出場し、20ゴール9アシストを記録。得点ランキングで3位に食らいつき、半分ちょっとしか出場できなかったにも関わらず、リーグのベスト11に選出された。また、クラフト神戸も彼が来る前は14位に沈んでいたものの、秀徹の加入後は7位に浮上した。


翌シーズンから、秀徹はCFにポジションを変更。欧州では彼のドリブルは通じなくなりつつあったものの、日本国内ではやはり圧倒的であり、リーグ3節の名古屋戦では、味方のペナルティエリアからドリブルで独走。変わらないスピードと華麗な足さばきで相手選手累計7人を抜き去り、ゴールを奪った。このゴールは日本のみならず、世界規模でも最もこの年の美しいゴールに選ばれるほどであった。

リーグ戦では神戸はDFの脆さに苦しめられながらも随所で秀徹が決定力やゲームメーク力を発揮し、失点は非常に多く、リーグでもワースト3に入るほどであったが、得点力もまた高く、総得点数はリーグでトップであった。秀徹自身も得点ランキングでは他の選手を完全に引き離して独走体制を確立。2位の選手が全日程終了して21点だったのに対して秀徹は41点。Jリーグの最多得点記録を更新した。チームとしては、序盤こそ苦戦したものの、秀徹のゴールの量産とともに徐々に順位を上げ、ついに第25節終了時点でアジアチャンピオンズリーグ出場圏内である3位以内に食い込み、そこからも順当に勝点を稼いで2位フィニッシュに終わった。やはりこのシーズンにおいて、秀徹の実力はJリーグの中でもずば抜けており、このシーズンのMVPに選出された。また、ファン投票でも史上最多となる、全体得票の8割以上を獲得してベストプレイヤーに選ばれた。


日本での最後のシーズンとなった41−42シーズンでもゴールを量産した。本人はこのシーズン限りの現役引退を示唆しており、その引き止めに5万人のファンが集まる事態にも発展した。

シーズン序盤から爆発的な得点力を見せた秀徹はJリーグ史上最高と言われた昨年を上回るペースでゴールを生み出した。特にこのシーズンはワンタッチゴールが増え、40歳を超えてフィジカルではなく経験とテクニックで勝負する姿勢で臨んだのが見事に功を奏した。最終的には35試合44ゴールを記録。並行して行われた天皇杯では準優勝に終わったが、アジアチャンピオンズリーグでは10試合12ゴールと決定力を見せ、リーグとチャンピオンズリーグの2冠に貢献した。

最終的にこのシーズンだけで50ゴール以上を獲得した秀徹だったが、引退する意思は変わらず、惜しまれながらもクラフト神戸を退団した。


(第二次バルサシティ時代)



引退してからもトレーニングやサッカーすることを怠らなかった秀徹に、補強に失敗してFWが手薄となったバルサが突如オファーを提出。9月2日、年俸500万€の1年契約で両者が合意したことを発表した。

42歳という年齢もありCF登録であり、当初は前年度にローテーション要員ながらも17得点を決めていたロマレオがスタメンとなるので、そのサブとしての役割を期待されていた。しかし、秀徹は初戦の後半10分から背番号10としてピッチに登場し、変わらぬテクニックを披露して1アシストを獲得して勝利に貢献したため、ファンや監督の心を鷲掴みにし、42歳ながらも世界最高峰の舞台であるラ・リーガで競えるということを証明した。

そうしてレギュラーの座を奪取した秀徹は第10節までに8試合6ゴール3アシストを記録。全盛期までとはいかなくも、秀徹の退団以来のバルサに欠如していた得点力を補う存在となった。このシーズン、バルサは秀徹の31試合25ゴール13アシストという飛躍的な活躍で2シーズンぶりに優勝。秀徹は43歳にして得点王となった。これは五大リーグにおける最年長得点王記録となった。

チャンピオンズリーグにおいても秀徹率いるバルサが躍動。ユヴェ・トリノと同組のグループリーグを首位通過すると、決勝トーナメント初戦のミュンヘンを5-1で下し、続くアスレチックマドリードも3-0で完封した。準決勝のマンチェスター・ユニオン戦では秀徹は負傷離脱しながらも2-1で辛勝。決勝トーナメントに駒を進めることになった。

決勝戦で戦ったパリシティとは壮絶な戦いを演じることになった。秀徹はこの試合の序盤でカウンターの場面から独走し、チャンピオンズ最年長ゴールとなる先制点をあげるが、その後壮絶なパリシティの攻撃に屈し、3-1で決勝戦を敗退した。これは秀徹にとって初の決勝戦での敗退であり、「この時引退すべきなのだろうと思った」と後に語っている。


翌シーズン、契約を1年延長し、これが本当のラストシーズンだと宣言して挑んだ秀徹は得点力は落ちたものの、ポジションをLWGに戻し、アシストを量産した。スピードこそかげりが見られたものの、テクニックやキック精度は未だ健在であり、44歳にしてバルサシティという一流クラブでレギュラーを掴み続ける姿は日本の誇りとなった。

リーグでは新加入選手、リバルド・デク・ロナルドらの力を借りてバルサは躍進。中盤以降は独走体制を築いて秀徹は26試合11ゴール12アシストを記録した。

また、コパ・デル・レイでも優勝。残るチャンピオンズリーグでは秀徹が決勝戦のリヴァプール・レッズ戦で後半10分から投入されてアディショナルタイムに1-1の均衡を破るバイシクルシュートでの決勝点をあげ、このシーズンの総合結果は37試合18ゴール20アシスト。彼にしては衰えたと言えるが、決して引退する選手が出すような成績ではなかった。



引退後はサッカー教室を開講しており、新たなスターの育成に全力を注いでいる。また、監督業をするつもりはないと公言しており、今後も先述の活動に専念するつもりだという。



(代表経歴)



シュトゥットガルトやミランで活躍する中、クラブは代表への招集は選手にとって悪影響であるとして拒否していたが、リヴァプールへのレンタルバック後にはそれが解禁。18歳にして日本のA代表へと招集された。

最初に彼がつけた背番号は11で、代表合流後は元チームメイトである本多とともにエースとしてチームを牽引した。

その過程で2017年から秀徹を代表で指導することとなったヘイルホジッチ監督と真っ向から対立。ヘイルが推進する縦に速いサッカーは日本には合わないとして、ポゼッションサッカーをする方針に切り替えるように要求した。そして、それに長谷川や本多などのベテランプレイヤーも同調するようになると、日本サッカー協会は代表監督を急遽交代させ、監督にはヘイル政権で強化部門担当であった西田氏が就くことになった。


そうして迎えた初めてのワールドカップ。ロシアで行われたこの大会で秀徹は評価を高めることになった。元々この大会前のシーズンで、リヴァプールで定位置を掴んだ彼はエースとしてチャンピオンズリーグ決勝戦でも点を決めていたので期待値も高かったが、その期待を裏切らない活躍をした。

初戦のコロンビア戦では序盤からPKを獲得するのに貢献し、後半には2-1でリードした状態でダメ押しの追加弾を放ち、3-1での勝利に貢献。試合でのMVPにも選出された。続くセネガル戦ではアシストとゴールを記録。最終節のポーランドでもゴールをあげ、1-1と引き分けたことによって、日本はグループリーグを2位通過した。

決勝トーナメント初戦のベルギー戦は非常に激しい試合展開となり、前半は優勝候補のベルギーに対して日本は一歩も譲らず互角の戦いを見せて0-0で折返し、後半には秀徹が先制弾を放ち、続いて本多が追加点を奪った。これによって日本の勝ちムードが高まるが、ベルギーも負けじと反撃に出た。身長の高いフェレイニを投入すると、直後に彼がヘディングでゴールを揺らすなど的確な戦術に日本は苦しむ。そして、もう1点を取られて後半アディショナルタイム。ベルギーの猛烈なカウンターが炸裂。ゴール付近まで日本は追い詰められるも、それを事前に察知していた秀徹がゴール手前でスライディングして食い止め、延長戦へともつれこませた。しかし、延長戦後のPKで秀徹は公式戦初となるPK失敗をしてしまい、日本は敗退。このトラウマに、秀徹はしばらく悩むこととなった。


翌年、アジアカップにはリヴァプールの反対を押し切った新たな監督・森谷から召集の依頼を受け、疲労困憊の中で大会へ挑んだ。大会の全日程で7ゴールをあげ、得点ランキング2位、チームとしては優勝を記録した。この時、のちの相棒となる久木や長きに渡ってチームメイトとなる冨岡らと初共演しており、新黄金時代の到来とメディアからは称賛された。


そして、2020年夏、U-23の日本代表に召集され、オリンピック東京大会で大暴れした。まず、大会の開会式でド派手なパフォーマンスをし、注目度を高めると、大会に出場する中で唯一の世界最優秀選手賞の受賞者であるという実力を遺憾なく発揮し、強豪のスペイン、ブラジル、フランスなどを撃破していった。開催国ということもあって、日本は実力以上を発揮して優勝。秀徹は得点王とMVPを受賞し、オリンピック通じても主役であったとされるほどの活躍を見せた。


2022年、カタールでのワールドカップは日本にとって過酷なものとなった。秀徹は所属チームのバルサではエースとして君臨し、22歳にして早くも日本の歴代最多得点をマークする(66試合54ゴール)など輝かしい功績があったし、マドリードの久木、ローマの冨岡、リヴァプールの北野、ドルトムントの近藤など欧州の強豪チームから代表が集まる、まさに日本にとっての黄金時代が到来していたのだが、グループリーグではポルトガル、アルゼンチンと同居する死の組に入ってしまった。

ポルトガルとアルゼンチンはそれぞれローガンとメーシュがこの大会をもって引退すると表明しており、両チームとも奮起。秀徹をもってしても勢いは止められず、予選敗退となった。


その後、チームは変革を望み、森谷監督は二年後に退任。新たに代表監督に選ばれたのは現役を引退し、指導者としてドイツで活動を始めていた元日本代表キャプテン・長谷川であった。

彼は日本の弱みも強みも知り尽くした人物であり、秀徹をキャプテンに据えると、一気に変革を進めた。まずはチームに残っていたベテランを一掃し、秀徹を始めとしたOMF久木、CB冨岡、DMF近藤、RMF堂本、CB板付、LMF安倍らの実力者によるポゼッションとカウンターとの複合型サッカーを打ち出した。

これにより、カウンターの場面では秀徹や久木、堂本といったスピードのある選手が一気に勝負を決める体制となり、背が低い日本代表の弱点を克服した。また、それ以外の攻撃のシーンではサイドの選手も基本的には中央へと寄って動き回るポゼッションを行った。

長谷川政権下で日本代表は戦術の適合もあって躍進するが、一方でこの戦術もきちんと整合されたものではあるものの特に秀徹や久木といった、個人の能力に依存したものであり、彼らが抜けた際には明らかにチームがパワーダウンしていた。


2024年のアジアカップでは、秀徹が大会最多得点記録となる12得点を決めて連覇を果たし、続くワールドカップ最終予選でも大会史上最速で進出を決め、日本は史上最多得点を記録した。

米加墨共同開催となった2026年度ワールドカップでは、日本はアジア最強国として優勝候補の一角として数えられていた。その要因としては、単にメンバーが揃っているのもあるが、その一年前から行われた調整試合ではアルゼンチン、スペイン、オランダ、イタリアなどに勝利しており、フランスやブラジルにも引き分けるなど確実な実力を示したということも挙げられる。

グループステージではドイツ、コートジボワール、アメリカと同居する、またしても死の組に入るがそれぞれ2-0、2-1、3-0で下し、秀徹はドイツ戦では2ゴール、コートジボワール戦こそノーゴールに終わったが、アメリカ戦ではフリーキックからのゴールを含むハットトリックを達成。得点ランキングでトップに立った。

一位通過して臨んだ決勝トーナメント初戦、相手は日本と同じく近年強豪と化したスウェーデンであり、秀徹の元同僚であるクルゼルスキを中心とした若手の勢いがあるチームだった。怪我ではなかったものの、コンディション不良のため、秀徹はベンチで試合を迎えた。前半戦、日本はスウェーデンに圧倒される展開となり、2ゴールをあげられるなど不利な状況へと追い込まれたが、体調不良をおして後半から秀徹が出場すると、形勢逆転。普段よりも運動量の少ない秀徹であったが、着実なポストプレーで味方を随所で手助けし、後半12分に久木が見事な連携からゴールを生み出すと、そこからは日本のゴールラッシュ。24分に北野が同点弾、27分には冨岡がコーナーから逆転弾を押し込んだ。さらに40分には日本がPKを獲得し、秀徹がそれをねじこんで4-2での勝利を飾った。

日本としては史上初となる準々決勝では前回惨敗を喫したポルトガルとの一戦となった。ポルトガルはフェルクスなどのスター選手が揃っており難敵であったが、前回のような勢いはなく、秀徹のハーフラインからの単独での切り込みによる“理不尽”なゴールで先制した日本がリードを守り抜き、3-0でポルトガルを下した。

準決勝ではブラジルと対戦。バルサでしばしば顔合わせをしているロドルゴらが所属するチームであり、優勝候補の筆頭とまで呼ばれていたが、このゲームでは秀徹、北野、久木の3トップが光り、それぞれが1ゴールずつあげるという破壊的な得点力でブラジルのそれを上回り、3-2の辛勝を得た。

初となるラウンド16突破からトントン拍子で決勝戦まで辿り着いた日本を待っていたのは、16年前の優勝以来、あまり良い結果を残せず燻っていた大強豪・スペインであった。秀徹や久木の同僚であるファビオも所属しており、所属メンバーの多くが世界最高峰のリーグである自国のラ・リーガ所属であるという日本とはまさに真逆のチームでもある。故に、スペインは同リーグに在籍する選手同士、サッカーの組み立て方が似ていたり、考え方が似ているので言ってみれば組織的なチームだ。一方で日本は各地から寄せ集めたチームであり、個の力に頼りがちなところがある。それすらも長谷川監督にとって計算内であったが、この試合は、組織的なスペインによるポゼッションと日本のカウンターがぶつかることになった。

この試合ではスペインで普段からプレーをしている秀徹・久木のコンビが早くもスペインの守備に順応し、前半の立ち上がりから素晴らしいカウンターを披露した。しかしながら、ポゼッションを基調とした攻撃は他選手のスペースが確保できないようにするスペインの組織的な守備に阻まれた。

前半21分、コーナーキックのこぼれ球を拾った秀徹のロングカウンターが炸裂。自陣の中央部分から相手陣までの70m近くをほぼ独走し、計7人を抜いてゴールをあげるという衝撃的なプレーを見せた。さらに、30分には右サイドで与えられたフリーキックを久木が着実に決め、2-0として前半を終了した。

しかし、後半は苦戦を強いられる。スペインは前半ですら60%を誇ったポゼッションを中盤の枚数を増やすなどしてさらに強化したので、さらに日本の攻撃のチャンスが減少したからだ。後半11分にはファビオが完璧な中盤の崩しから1ゴールを奪い、その10分後にはペナルティエリア外からサウーレが左足を豪快に一閃。2-2の同点へと導いた。

追いつかれた日本はひたすらに秀徹へとボールを集めた。もはや勢いは完全にスペインのものとなっており、普通のやり方でそれを覆すのは困難と考えたからだ。そんな期待に秀徹は最高の形で応えた。

後半36分、CMFの橋下から浮き球のスルーパスが秀徹の前方へと上がった。落下地点はペナルティエリア内であり、咄嗟に反応した秀徹がそれに合わせようと走り出した。秀徹は圧倒的なスプリント能力で相手DFを振り切り、それに追いつくと、相手GKと交錯しながらもヘディングでそれに合わせる。彼の頭はGKが出した手にわずかに競り勝ち、ボールはそのまま無人のゴールへと転がっていった。これによって、日本はなんとか3-2でスペインに勝利。日本は史上初の南米と欧州以外のワールドカップ優勝国となった。

また、秀徹はこの大会で前回大会までの大会記録である8点を上回る10点を記録し、得点王とMVPを獲得した。


そんな彼だが、ワールドカップの優勝の二年後のアジアカップに優勝すると、自身の存在は日本代表の成長を妨げるとして代表引退を表明。若くから代表として活躍し、104試合に出場し118ゴール31アシストを記録した。




【評価】




若くして名将クラップに拾われた秀徹は当初こそ日本人であることから期待されない存在であったが、シュトゥットガルトで初戦から活躍すると、その後は一躍期待の新星として認知されるようになり、二年目のミランで結果を出した時点で歴代の日本人でも最高レベルであると目された。また、そのシーズンの活躍により、サッカーゲーム大手2社での評価は一流選手の基準とされる85を上回った。

リヴァプール時代には、コウケーニョ、サリー、マニャなどの名手が同僚にいる中で、常に一番人気を誇り続け、2年間で94ゴールを決めるとリヴァプール史上最高の選手であると評され、実際に50試合以上に出場した選手の中で、最も得点率が高い選手であった。2050年の節目に発表されたリヴァプールファンが選ぶ歴代最高の選手ランキングでは所属した期間が2年と短いながらも4位に選出された。

ユーヴェ在籍時代にはローガンという圧倒的なスターがいる中で、自身が王として振る舞えないことに苦しみながらも、献身的なプレーを行う姿に心惹かれるファンは多く、ユニフォーム売上もローガンに肉薄するほどであった。

バルセロナでは自他ともに認めるエースとしてハイレベルなプレーを披露し、バルサのエースの前任者であるメーシュすらもはるかに上回るペースでゴールを上げ続けた。また、バルサの暗黒期を終わらせたという業績もある。そのため、バルサ史上最高の選手とみなすファンも多く、在籍した10年程度でメーシュには届かなかったものの、それに次ぐ623ゴールをあげた。



サッカー業界の各方面でも秀徹は非常に高い評価を受けている。


・彼の憧れ選手でもあり、ユーヴェ在籍時代から非常に親密な友人であるクリストファー・ローガンは、「僕は自分のことを常にサッカー界でトップだと思ってプレーしてきたが、もしそれを超えれる存在があるとすればそれは彼(秀徹)だと思う。」とし、「少なからず、僕が対戦したり練習したりしたサッカー選手の中では一番上手かった。」と絶賛した。


・バルサのOBであるメーシュは「バルサを背負うに相応しいクオリティとリザルトを持った選手」と評価し、自身との比較については、「彼の方が少し上かもしれない」と言及した。


・長年秀徹を指導し、彼から恩師と慕われるクラップは「シュウトは自分が教えた選手で間違いなくベストだ。」と称賛し、「そして、彼は少なくとも私の中では歴史上でもNo.1だと思う。速さ、戦術、技術、決定力の全ての面において他とは桁違いだからだ。」と付け加えた。


・インターネット投票によって、その国の歴代最高の選手を選出する、ベストプレイヤー・イン・ザ・ヒストリー(日本版)では秀徹が全体得票の約9割を獲得して日本1位となった。各国でもここまで票が分散しないのは非常に珍しいケースであり、それだけ彼が国民的な英雄であることを表している。

また、その世界全体版であるベストプレイヤー・イン・ザ・ワールドではクリストファー・ローガン、メーシュ、マラドゥー、ナバッペ、ペル、クラエフなど、歴代の名手を抑えて全体の19%の得票を獲得して1位に選出された。アジア地域だけでなく、イングランド、スペイン、フランスなどの彼が今までプレーした地域でも得票数が高かった。


・2050年という節目の年には、世界最優秀選手賞の主催元でもある、フレンチ・フットボールが調査した21世紀における最も偉大なプレイヤーに選出された。「公式戦において1000ゴールをあげるという誰も成し遂げられなかった偉大過ぎる結果を残し、所属した代表やクラブチームであり得ないような活躍をしてチームに貢献した。また、結果もさることながら、内容も素晴らしかった。」と彼の説明文には記されている。




【記録】




・クラブ通算1246ゴールを達成している。これは世界最多記録であり、2位以下とは300ゴール以上の差がある。また、この記録を1209試合で達成しているため、キャリアを通じて1試合に平均1ゴール以上を決めていることとなる。このようなプロの選手は彼以外に存在していない。


・日本代表における118ゴールは歴代最多記録であり、世界でもクリストファー・ローガンの137点、ナバッペの122点に次ぐ記録である。


・チャンピオンズリーグにおける最多得点記録(232得点)


・チャンピオンズリーグにおけるシーズン最多ゴール記録(23ゴール)


・ラ・リーガにおけるシーズン最多ゴール記録(58ゴール)


・プレミアリーグにおけるシーズン最多記録(42ゴール)


・ラ・リーガにおけるゴール数歴代2位記録(468ゴール)


・世界最優秀選手賞受賞回数単独1位(7回)


・チャンピオンズリーグにおけるシーズンMVP最多選出回数(9回)


・チャンピオンズリーグにおけるベストイレブン最多タイ選出回数(16回)


・欧州五大リーグにおける、最多ドリブル成功数(3855回)


・Jリーグにおけるシーズン最多得点記録(41ゴール)

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