第2話寄木細工

 信濃国、諏訪の町――


 諏訪大社の門前町で栄えているが、国人領主の諏訪氏が武田家によって滅ぼされてしまって以来、かの家の信濃国攻略の経絡の地として利用されているのは否めない。それでも諏訪湖などの名所に預かり、人々の往来があることは変わりない。


 雪之介は関所を越えて、この町に来ていた。いくらなんでも織田家の追っ手が大国で敵国でもある武田家の領内に来れるわけがないと踏んでのことだ。昨年、今川義元を桶狭間にて討ち取り、松平家と同盟を結んだことも風の噂で聞いていた。政略に疎い雪之介でも、織田家の次の目標が美濃国の斎藤家であることは想像できる。


 ならば向かうとすれば東国だろうと雪之介は考えた。もちろん北陸や西国へ逃げることも模索したが、逃げ出した時期が不味かった。絡繰の腕が達者でも、身体の強さは平凡である雪之介では、冬の北陸を目指すことも、西国へ向かうための山越えもできなかったのだ。


 だから彼は東国を目指していた。なるべく織田家から離れたかったこともある。あの恐ろしい織田信長から遠ざかりたかった。身内を平然と殺すような、恐ろしい魔王から。


 さて。雪之介は絡繰道具が入った大箱を背負いながら、諏訪の町の目抜き通りをてくてく歩いていると後方から「泥棒!」と怒鳴る声がした。振り返ると、桐の箱を両手に抱えながら、こちらへ走ってくる一人の少年が居た。


「どけよ! そこをどけ!」


 血走った目で暴言を吐く色黒の少年。背丈はあまり大きくないが、その分足は速い。雪之介は無言で脇にどいた――足を伸ばしてひっくり返した。

 少年は転がりながら近くの出店にぶつかった。櫛屋だったので、辺り一面に櫛がばら撒かれてしまう。商人が「なんてことしやがる!」と怒っていた。


「やっと追い詰めたぞ……おい、こいつに縄を打て」


 息を切らしながらやってきたのは数人のごろつきだった。頭らしき男の言葉に従い、少年を縄で縛る。どこか打ったのか、ぐったりとしている少年は引きずられながら、どこかへ連れて行かれる。


「あーあ。せっかくの櫛が……」


 ごろつき相手に文句を言えなかった櫛屋。辺りの櫛を拾いつつ、ぼやいていた。雪之介は地面に落ちた櫛を拾いつつ「これは良い櫛だな」と呟く。


「店主。落ちた櫛を買おう。どうせ欠けてしまって使えまい」

「はあ? 酔狂だねえ。こっちは助かるけど」

「だが三割引にしてくれ。そのくらいいいだろう?」


 雪之介の申し出に櫛屋は「捨てるよりはマシだな」と言う。


「歯の欠けた櫛なんて、何に使うんだい?」

「材料に使う」


 答えになっているのか、なっていないのか分からないことを言いつつ、雪之介は引きずられた少年の後ろ姿をじっと見つめていた。




「このくそったれが!」

「うぐ!」


 小さな橋が架かっている川の河原で、少年は簀巻きにされて、ごろつきたちに殴る蹴るの暴行をされていた。通りかかる者は目を逸らすか、立ち止まって笑っているだけで、彼を助けようとする者は居なかった。

 それもそのはず、ごろつきの後ろで、腕組みしているのは、諏訪の町の大商人である権兵衛だった。彼に逆らったら諏訪の町で生きていけないと噂されるほどの権力者だ。


鉄太てつた。これで何度目だ?」


 権兵衛は呆れながら少年――鉄太に問う。

 その間も暴行は続いていた。


「一度や二度なら、軽い折檻で済ませた。でもな、五度目ともなるともう容赦できない。そりゃ、お前の親父さんとは懇意にしていたし、お前がこれを盗む気持ちは分かるさ。でも、約束は守らないといけない。もう期限は過ぎたんだ。しかるべきところに売るのが、質屋の本分というものだよ」


 言い終わると権兵衛は手を挙げた。するとごろつきは鉄太に暴力を振るうのをやめて、顔を無理矢理権兵衛に向けさせた。


「もう二度と、盗みをしないって約束してくれるかい? ま、そうは言っても、今までと同じように嘘を吐くかもしれない……だから親父さんのこれに誓ってくれるか?」


 そう言って、桐の箱を鉄太に向ける権兵衛。

 鉄太の顔色がさっと青くなる。


「そ、それは……」

「できないんなら、腕を切らせてもらうよ。手癖の悪い腕なんて要らないだろ」


 鉄太は目を見開いて――すぐに答えた。


「……腕を切れ」

「本気で言っているのかい? こんなもんのために、腕を無く覚悟をしているのか?」


 鉄太は吼えるように喚いた。


「俺にとっちゃ、お前にとってこんなもんでも! 腕より命より大切なもんなんだ!」

「…………」


 権兵衛は冷たい目で鉄太を見て――冷やかに言う。


「刀を貸しなさい。それから腕を押さえるように」

「……腕くらい、俺らが切りますけど」


 権兵衛は「私は素人だ」と残忍な笑みを浮かべる。


「心得のない者のほうが、痛みは増す」

「……かしこまりました」


 ごろつきは鉄太の拘束を慎重に解き、腕を真っ直ぐ伸ばした。

 鉄太は震えながら目を閉じる。


「一太刀では切れぬだろうが、我慢しなさい」


 権兵衛が大きく刀を振り被った――


「――待て!」


 その身からは信じられないぐらい大きな声で止めたのは、雪之介だった。

 土手の上から、ゆっくりと河原に下りていく。


「てめえ、何者だ!」


 ごろつきたちが刀を向ける――


「やめなさい。刀を納めるんです」


 静かに制したのは、権兵衛だった。どこか焦ったような声で、ごろつきたちを止める。


「旦那? 一体どうしたんで?」

「いいから言われたとおりに……いかがなさいましたか?」


 表面上はにこやかに権兵衛が訊ねると「その者の事情が知りたい」と雪之介が言う。


「盗みをしたことは分かる。しかし自身の腕を失っても良い物など、そうそうない」

「……ええ。彼が盗もうとしたのは、これですよ」


 権兵衛が桐の箱から取り出したのは、年季の入った金づちだった。おそらくは二十年か三十年以上使い込まれている。


「金づち……」

「ここに居る鉄太は鍛冶屋の子どもでしてね。その親父さん――六助さんが亡くなった折に借金のカタとして頂戴したんですよ」

「それはどのくらい価値があるのか?」

「価値などそれほどありませんよ。おそらく二貫もないでしょう」


 雪之介は今度、鉄太に顔を向けて問う。


「そのようなものに、どうして腕を懸ける?」

「……親父の形見ってこともあるけどよ。そいつは鍛冶屋の魂が篭もったもんなんだ」


 鉄太は真っ直ぐ雪之介を見据えた。

 熱を込めた――熱心な目で。


「たとえ腕を切られても、魂だけは売り渡せられないんだ!」

「…………」


 雪之介は無言のまま、背負っていた大箱を下ろして、その中から奇妙な箱を取り出した。

 それは表面に様々な模様が施された、珍妙と言うべき箱だった。


「それは……?」

「店主。これを引き換えにこいつの身柄と金づちを交換してほしい」


 権兵衛は手渡された箱を興味津々に眺める。


「寄木細工という。一定の操作で箱が開く。それ以外は壊さない限り開けられない。倉の鍵でも入れておけば安心だ」

「……なるほど」

「開け方はこの紙に記している」


 紙も手渡す雪之介。

 そんな彼に権兵衛は問う。


「どうしてそこまで、鉄太を助けようとするのですか?」

「……人を助けられないのは虚しい」


 雪之介はまたも答えにならないことを言う。


「どうする? こいつと金づちを譲るか?」


 権兵衛は少し考えて「あい分かりました」と頷く。


「手前も人間の腕を切りたくないですしね。それにもう盗みに入られるのは勘弁願いたい」

「交渉成立だな」


 雪之介は権兵衛から桐の箱を受け取り、中身の金づちを鉄太に渡す。


「あ、え、その……」


 戸惑う鉄太を無視して、雪之介は歩き出す。


「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」


 鉄太は金づちを大切そうに抱えて、雪之介の後を追った。

 残された権兵衛とごろつきたち。するとごろつきの頭が「良かったんですかい?」と訊ねる。


「あれは流れ者ですぜ? あいつ殺してその箱だけ奪っちまえば――」

「お前は馬鹿か?」

「へっ?」


 権兵衛は厳しい顔で頭に言う。


「そんなことしたら、手前たちは全員あの世行きだよ。あれは有名な人殺し――絡繰奇剣の雪之介だからね」


 権兵衛はようやく、我慢していた冷や汗をかいた。


「あんなもん、敵対せずに居られたらそれでいいんですよ」




「なあなあ。あんた何者なんだ?」


 鉄太は雪之介の後ろを歩きながら訊く。


「自由になったんだから、どこか好きなところへ行け」

「淋しいこと言うなよ。これでも鍛冶の心得はあるんだぜ?」


 鉄太はにやにやしながら言う。


「きっと役に立つさ。だから名前を教えてくれよ」

「……雪之介だ」


 自身の名を言うと鉄太は「へえ。雪之介か」と頷いた。


「俺は鉄太だ。これからよろしくな、兄貴!」

「……好きにしろ」


 すっかり同行が決まったのを認めるしかない雪之介。

 彼の放浪に、一人の仲間が加わった。

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