第117話 月と星と銀と金

 見上げた空には、青白いスピカが光っていた。それを呆然と見上げながら、俺は暫くの時間をそのままの体勢で過ごした。そして、俺の中で長い時間が過ぎ去った時、ゆっくりと地面から立ち上がった。

 全身の鎧には酷い酸の影響が走っており、右腕は弾けていた。俺の体には最早悪寒と間違う程の疲労と心労が、束になって纏わり付いている。


「……」


 きっと、何かを俺は言おうとした。この場にふさわしいであろう――この場面を綺麗に締め上げてくれる言葉を呟こうとした。けれども、それは出来なかった。俺の少なすぎる語彙では、どうしてもそんな言葉は見つからなかったからだ。


 ただひたすらに立ち尽くす俺に、誰かが声を掛けてきた。


「……ライチさん」


「……ロード」


 振り返れば、白いフードを下ろしたロードが杖を両手に握ってこちらを見ていた。月明かりに照らされた銀の髪は絹のようで、金色の瞳は相変わらずに美しかった。ロードは、喜怒哀楽のどれにも属さないような酷く複雑な顔をしていた。

 パチパチと瞬く瞳には、珍しく読み取れない程の感情と迷いが滲んでいる。


 それもそうだろう。ロードにとって今の状況は不安定で、急展開にも程がある。言葉に迷うのは当たり前のように思えた。


 ……何と、俺は言われるんだろうな。蔑まれるのだろうか、何でもないように振る舞われるのだろうか。……それとも、無言で軽蔑されるのだろうか。俺にはロードの心情を予測することなど出来ない。彼女が考えていることの一分だって、断言できはしないのだ。

 今のこの状況で何かを予測したとて、それはきっと俺にとって都合がいいことだ。


 だから、ひたすらに待った。ロードが何を言うのか。その言葉が何だったとしても、俺は受け止めよう。今にでも倒れそうなこの体であろうとも……受け止めよう。


 ロードは暫く視線を俺と空に逡巡させて、何かを言おうと口を開いては、何でもないとばかりにそれを閉じた。二、三度同じことを繰り返して……ロードは覚悟を決めたように俺を見て――ゆっくりと地面に正座した。


「……?」


「……」


 そのまま、ロードは無言で白いローブの太ももを叩く。……ちょっと待ってくれ。その手段は想定外だ。あまりの事に脳みそが固まるが、体は正直に安らぎを求めているようで、固い動きでロードの膝に頭を預けてしまった。あまりにも予想外の行動に固まっていると、ロードがゆっくりと俺の顔を覗き込んできた。下から見上げようと、その顔は相変わらず美しかった……けれど、浮かんでいる表情を見れば、素直に見惚れることなど出来なかった。


「……ライチさん」


「……」


「……正直な事を、言っていいですか?」


「……ああ」


 伏し目がちなロードが、真剣に俺の目を見てそういった。遠慮がちな優しいロードの、正直な言葉。それが一体どんなものなのか、予測もできずその金の瞳を見返した。


「……正直な事を言うと……僕は、僕がなんて言って良いのか、さっぱりです」


「……」


「ライチさんが帰ってきてくれて嬉しいです。でも、怪我をしていて悲しくなりました。でも、ちゃんとお姫様を助けてあげていて、やっぱりライチさんは凄いなって思いました。……それでも、ライチさんがお姫様にキスをされたとき、お姫様が帰るのを悲しんでいるのを見たとき……どうしようもなく、苦しくなったんです」


 思わず、ごめんと言おうとした。だが、その言葉がどれだけこの場にそぐわないか、俺にだってわかる。その一言で……その三文字で、ロードの悲しみや苦しみを清算できるのか?その一言で、この出来事を片付けて良いのか?

 それは酷く傲慢で、思い上がりで、考えなしの言葉だ。だからこそ、俺は口を閉じていた。ロードが思う全てを受け止めて、きっと正しい言葉を言えるように。


「分からないんです……苦しくて苦しくて、悲しいのに……それと同じ位、ライチさんに背中を向けたお姫様が苦しそうな顔をしていたから……分からないんですよ。直ぐにでもライチさんに問いただそうと思ってたのに……あんな顔を見たら、怒るにも怒れないじゃないですか」


 俺が見えなかったスピカの表情……それを真正面から見つめたロードは、スピカの顔を思い出したのか悲痛さを露にした。俺には見えなかった。何も……何もだ。きっとスピカは俺に見せないようにしていたんだ。自分が泣けば、俺が同じく悲しくなることくらい知っていただろうから。未練を見せれば、俺が同じく迷うと分かっていただろうから。

 だからきっと、俺には笑顔を向けていた。笑顔だけでさよならを言った。


 それと真逆の表情を知っているロードは、形の良い唇から沈んだ声を吐いた。


「でも、悲しかったのは本当です。……お姫様に手を出さなくても、出されたら同じなんですよ?」


「……」


「……ライチさん。ライチさんは、僕の騎士です」


 ゆっくりと、ロードが俺の鎧兜の頬を撫でて微笑んだ。僅かに緩んだ眉、潤んだような瞳、俺を見つめる表情……それらすべてが、俺を見惚れさせていた。


「ライチさんは、僕の……大切な人です。独りぼっちの僕の手を取って、きっとここまで連れてきてくれた――強くて、かっこよくて、こんな僕のことを助けてくれた……一番大切な騎士なんです」


「……」


 ロードが有無を言わさず俺の頭を両手で優しく挟み込む。目を逸らさないでと、目を見て聞いてと、言葉無くして伝えるように……ロードは俺を見つめた。俺の奥の、奥の奥まで見透かして、きっと俺と目を合わせた。

 白い頬を僅かに紅潮させて、それでも怯むことなくロードは言った。


「ライチさんは――僕のです。他の誰にもあげません。絶対です」


「……」


「……重い人って思われたくないんですけど……駄目なんです。貴方が他の誰かに取られちゃうのは……嫌なんですよ……」


 だから、あなたを抱き締めます。ロードは囁くようにそう言った。俺を見つめる瞳に迷いは無く、俺の頭を包む手にも同じく迷いは無い。


「本当に……重くてごめんなさい。でも、ライチさんが居なくなるのが……怖くて」


「……居なくならないよ」


「……本当ですか?」


「嘘じゃ無いよ。ロードに誓う」


「……んもぅ、僕に誓ったって……死神信仰者ですか?まぁ、嬉しいですけど……」


 恥ずかしそうに俺から視線を逸らして、ロードが言った。視線は逸らしても、俺を抱き締める手だけは離さなかった。頭を振って気持ちを落ち着かせたロードがじっと俺の瞳を見つめて、柔らかく笑った。その笑顔に、こちらの心まで軽くなってくる。満足そうに笑ったロードは、その後少し考えるような仕草をして……ゆっくりと顔を赤らめた。不思議なその様子に、どうしたんだと聞いてみると、吃りながらこう答えが帰ってきた。


「い、いえ……その……ですね」


「うん」


「……」


 ロードは深呼吸をした。そして、それでも赤さが引かない顔で俺を見つめてこう言った。


「……ライチさんは、僕の騎士です。僕だけの騎士です」


「ああ」


「……だ、だから――」


「……うん?」


 ゆっくりと、ロードの顔が近づいてきた。え?ちょ……え?唐突に迫るロードを見上げた俺の唇に、ロードの唇が重なった。触れるだけの、ほんの軽いキスだった。俺はそれに対して目を見開いて固まることしか出来なかった。ただ、耳まで真っ赤に熟れたロードの顔を見つめるだけだった。


 キスを終えて、顔を赤くしたロードは俺から目を逸らしながら言った。最大の殺し文句を、俺の柔らかい心の奥まで突き立てるように。


「だから――貴方の初めてが、誰かに取られちゃうのは……嫌なんです」


「……あ、え……え……」


 脳の髄の、そのまた奥まで溶けてしまったようだった。ひたすらに全身が麻痺していて、真っ赤な顔のロードを見上げることしか出来ない。

 さっきのは……えーっと……あぁ?もう、その……えーと――


 思考の溶けた俺に、ロードが畳み掛けるように言葉を口にする。


「ライチさん……僕は……僕は……えーと、その……僕の、じゃなくて……えーと――うぅぅ、忘れてくださいぃ!」


「え、ちょ……痛っ」


 俺と殆ど変わらないくらいの動揺で、ロードも何かを言おうとしたようだが、途中で顔の赤さが臨界点に達して、俺にしていた膝枕を解いて駆け出してしまった。残された俺は後頭部への痛烈な衝撃に押し黙るしかない。

 え……えぇ……?


「なんて言おうとしたんだ……?」


 やけに覚悟が決まった様子に、これ以上何かあるのか!?なんて圧倒的な緊迫が俺の体に迫ったと思いきや……残ったのは謎と虚無感だ。デートの最後で手を繋いでキスをするシーンで、彼女にくしゃみをされた主人公の気分だ……デートなんてしたことないけど。いや、したか……。


大の字になって見上げた空には、相変わらずスピカが輝いていて、それを見てしまうだけで無条件に涙が出そうになる。……ああ、やっぱり駄目だ。緊張、悲壮、恋慕、困惑、喜色。何もかもが混ざりすぎて、感情のステータスが六角形にぶち抜けていた。


「……もう、駄目だ……頭パンクする……ログアウト」


 本当に色とりどりな情動が、俺の脳の奥底から心の果てまでを埋め尽くして、鮮明に俺を染め上げている。もう立ち上がる気力も体力も無い。何かを考えれば笑うスピカと、同じく柔らかく笑うロードが割り込んでくる。こんな状態じゃ、何をしてても変わらないな。大きくため息を吐いて、大の字に地面に寝転がったまま空を見上げてメニューを操作した。


【ログアウトします】


 もう、何もかもカオスでめちゃくちゃだ。一旦寝てリセットしないと話にならない。もう丸一日寝ていたい気分だが、明日は……平日だ。


「はぁ……」


 ログアウトの前のちょっとした空白に見上げた星空は、俺のため息を吸い込んで……キラリと煌めいていた。それにどんな気持ちを向けて良いのか、何を思って見上げれば良いのか……俺には、どうしても分からなかった。

だからひたすらに曖昧な心を捕まえて、その中で一番しっくりくる言葉を選んで口に出した。


「……ありがとな、スピカ」


どうして俺が感謝するのか、自分でもよくわからなかった。彼女に大切なことを教えてもらったからかもしれないし、こんな俺でも好いてくれることへの感謝なのかもしれない。どうにも正確なことは分からないが、彼女への全てを一言に籠めるなら……どうしてもこうなるのだ。


「……」


星は語らない。燦然と光るだけだ。ただひたすらに無言なそれが、俺への無視ではないということが、今ならわかる。

光ってくれているから、俺のために光り続けているから。だからきっと言葉を介さなくても、その光だけで俺は彼女の思いを受けとることができるはずだ。


夜空の青白い光に、私を忘れないでと願った少女を重ねて、俺は静かに目を閉じた。


【お疲れ様でした】

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