@9mvGF

錠前の外れた屋上の扉を開けると、蒸し暑し熱気と、鉄っぽい臭みが押し寄せた。床のコンクリートは、太陽の光を一切纏わりつけない様子で鉛色に薄汚れたまま横たわっていた。うらぶれて緒の取れかかったサンダルでその上を歩くと、亡者の呻き声のような所感が僕に伴った。サンダルと足との接着面は、酷く埃ぽかった。

 僕は、貯水タンクの梯子に手を掛けた。それは僕の目ほどの高さにあって、それを上るのには、いささか苦労しそうだという予感は確かにあったが、さりとて、それを上らないで、この屋上を徘徊しようなどという思いも当然口惜しく思われたのだった。

「あつっ」

僕は笑った。梯子は鉄製だった。太陽の熱で、かんかんに熱を溜め込んでいた。僕は体良く着ていた長袖に手を滑り込ませ、それで以って梯子に触れた。熱は人肌にまで減退した。

 僕は貯水タンクの頂上を目指した。背後から、容赦無く太陽が照りつけた。首筋から、汗が垂れ落ちて、服に染み込んだ。襟に蛇でも巻きついたようだった。途中、履いていたサンダルが脱げた。当然、足には梯子の熱が悉皆纏わったが、この時は、下へ転落する恐怖が勝り、じゅうじゅうと焦げるような音が鼓膜を痺れさせる中、僕はともかく、意識を保った。眼下をチラと窺えば、死人のように横たわるサンダルが見えた。全く瀟洒とはかけ離れた、薄暗い緑色で覆われた、さも老年の蟷螂のような色をした、サンダルであった。緒はプツンと、切れていた。片目の目尻には、太陽の光が、幻惑を期待するように光っていた。それは、僕に、死を酷く抽象化する役目を以っていた。

 こめかみや鼻筋を水脈のようにして、汗が流れた。僕はそれを拭う余裕もなく、それが唇に流れても、それをはねのけるように周囲へ唾を吐きかけようとも思わなかった。汗は全く海水のようだった。舌先から唾液が幾度となく分泌され、喉の奥が干からびて、肺は呼吸をやめたがった。

 僕は足を引きずるように梯子を上った。段々と熱に対する感覚は鈍化したが、それ以外への感覚は、反対に鋭敏になった。つまり、それは、人が死ぬ前の心地というのは、案外僕の今の情感と大差はないのではないかというものだった。

 遠くの方で、ダイナマイトが弾ける音がした。あるいはこの真っ昼間から打ち上げ花火に興じているのかもしれない。それか、落盤事故でも起こったか。活火山が噴火したというのも面白い。それが、今に飛んできて、火山灰まみれのまま死に行く僕というのも、側から見れば、劇的なのかもしれない。僕が掘り返される頃には、僕の網膜や、鼻孔、口腔や、爪の先に至るまで、火山灰が僕を侵食しているのだろう。その時、僕が一体どんな表情をしているのか、それを想像するのはぼくをより狂気たらしめる要因となった。

 上りきると、なんてことのない、石灰色をした貯水タンクの蓋が見えた。ひょろひょろした細長いパイプやらが、周囲に付随した。僕はそのヘリに腰掛けた。

 空は青かった。雲はなかった。どこまで見渡しても、青かった。カラスが飛んでいた。鳴かなかった。僕は足をぶらぶらさせていた。片っぽは裸足で、その足が貯水タンクの縁に当たる度に、火花のような痛みが踵を拘った。寝転がりたい気分だったが、さりとて見上げても見えるのは精々青い空くらいのもので、それがどれくらいの価値があるのか、僕には想像もつかなかった。

 僕はふと、空を飛ぶカラスについて考えた。僕はカラスを見ているが、カラスは果たして僕を見ているのだろうか。一体、カラスはどこを見ているのだろうか。目を瞬かせて、彼の視線を追ったが、何も見出せなかった。漆黒の羽が、脂ぎったように太陽の光を吸収していた。額の毛むくじゃらがイソギンチャクのように揺れた。鳴け、鳴け、と心に願ったが、彼はついぞ鳴かずに、とうとう降下して姿をくらましてしまった。

 僕は不意に、仮に、カラスが僕を見ていた場合を考えた。あの自由な翼から、僕をあたかも列車から風景を鑑みるように、瞳へその像を映しとったとすれば、それは非常に具合が良いのではないかと思った。灰色の円柱型の置物の上に腰をかけて、首筋や額、頰に汗をダラダラと垂れ流して、髪の毛はまるで蟹の外観そのままを具象したように全くしどけないままで、片足のサンダルがコンクリートへと落下した、一人の男を見出すのは、僕が作中的な人間へと昇華されたような幸福をもたらした。あのカラスがああして地上へと飛び去ったのも、それが理由と考えるのもまた楽しかった。

 僕は蓋へ背中を預けた。先ほどと変わらない大空が、視界を覆った。ふくらはぎの辺りを、虫がぞわぞわと這い回るような違和感を抱いたが、太陽の熱気や、微弱すぎるそよ風が、そんな錯覚を喚起したのだろうと、決着した。

 僕は、誰か現れないかと期待した。今眼前一切を占領する青の中を誰かが侵入してこないかを期待した。カラスでも、飛行機でも、蚊でも、隕石でも、人間でも誰でも良かった。特に、僕の額から顎にかけてを翳らせるようにして、そして、僕の発汗を遮るような冷ややかさを与えるようにして、誰か人が姿を現してはくれまいかと、そんな夢想をした。

目を閉じて、全く脈絡のない粒子が飛び交うような、そんな瞼の裏の光景にやや身体を任せた。背中が焼けるように熱かったが、物の数ではなかった。膵臓が、その熱さを避けるように、浮き上がろうとしていた。

僕は目を開けた。司会はやはり淀みのない青しかなかった。ただ、その時は、僕の観念が具体化したように、少しだけ、黒色や赤色が混じっているようにも見えた。虹彩に不純物が混じったように感じたが、何度目を擦っても、その色彩は失われなかった。とは言え、それは僕に対し、何か不幸や凶兆めいた暗示をもたらすということもなかった。むしろ、満足したくらいだった。

僕は上半身を起こした。結局、誰か人は現れなかったが、それを悲しむほどの機体もしていなかった。何度か、今こうしている僕を見つけ出すために、屋上の扉を開ける人がいないかと思ったが、そんな人間は一人もいなかった。僕を迎えるのは、カラスか太陽かくらいだった。

僕は貯水タンクをゆっくりと下りた。足の裏の皮がめくれるようだったが、それを気にすることも大仰であるかのように思えた。引かれて死んだ猫の死骸の惨さを思えば、それは確かに、どうとでもないのかもしれないと思った。口から内臓と血液が飛び出し、動向は全く開いていて、肛門からは、カマキリが寄生虫を体外へ排出するように、小腸や大腸が漏れ出ている。それは、幾度となく自動車のタイヤに踏みつけられ、アスファルトには、最早塗料的でしかない、血液の一本線が伸長し、タイヤには生臭さと赤い斑点だけが実在として残存する。ドライバーはただ、道が凸凹しているなとか、そんなことを考える。

僕はやっとの事でコンクリートまで辿り着いた。足の裏は確かにめくれていたが、僕はそれを嘆こうとは思わなかった。僕は落ちていたサンダルに足を置いた。緒は引きちぎれていたから、僕は水上を漂うアメンボのように、それを地上で滑らすしかなかった。その音はいよいよ、呪詛のようだった。焼け付くコンクリートが喚いているようにも感じた。

僕はその足で手すりまで向かった。物々しいフェンスの類はなかった。橋の欄干のように、僕の肩ほどしか、その背丈はなかった。幅は精々15センチほどで、僕の手のひらを伸ばしきれば、それはすっぽりと僕の手中に収まった。それは真っ白の塗料で上塗りされていたが、ところどろこ風雨の影響で剥がれ落ちているらしく、そこから剥き出しとなった錆が官能的な匂いを放っていた。血液をアルコールランプで熱しているかのような、嗅覚を破滅させようと画策する凶暴さもそれは孕んでいた。手すりの下には、さしずめ縦縞模様に、丸い鉄材が、これも白の塗装を施され、等間隔で敷き詰められた。子猫のそれのように、ひ弱ななりを見せた。

僕は手すりに肘を掛けて、地上を見下ろした。駐車場が見えた。陽のもとに晒されて、どの車も居心地が悪そうにしていた。どれも色褪せて、泥を塗りこんだようだった。フロントガラスが太陽の光を燦然と反射させていた。スズメの囀りが聞こえた。それは僕に、自らもまた、太陽に照りつけられる存在であるということを明瞭に思い出させた。軽い舌打ちをして、僕は一つ溜息を吐いた。そして、僕は一度後ろを振り返った。そこには、開けっ放しの扉とその奥に広がる空虚な階段の痕跡が見えるだけだった。

そうか。あの無機質極まりないコンクリートの段差と、死んだ貝のような冷酷さを持つ欄干と頼りに、僕はここまで登ってきたのか。そう思った。勘付いたと言ったほうが適切かもしれない。ただし、そう考えても、僕に感じられたのは、そのような事実とコンクリートの無機質さと、欄干の冷酷さくらいだった。

それに、後ろを見たのは、誰か人が、僕を訪ねてきたのではないかという淡い期待からだった。もっと言えば、淡い妄想、手前勝手な都合、現実逃避、そんなものだった。夢を見ていたと言っても差し支えはない。

僕はもう一度、眼下を眺望した。今度は、車の日陰がよく見えた。路肩に姿を見せる雑草も見えた。遠くに鳴り響くサイレンも聞こえた。電柱が揺れていた。その上にスズメが数羽止まっていた。

「こんなものでいつまで遊んでるの」

そんな言葉がその時、彼女の侮蔑しか含まない瞳と僕が大切にしていたその熊のぬいぐるみを窓から外へと放り投げた行為とともに蘇った。彼女はその後、一仕事終えたように、投げ捨てた反動で崩れた前髪を丹念に指先で整頓して、僕を一切視界にいれないまま立ち去って、僕を断罪するように自室の扉を閉めたのだった。僕はその間、ずっと放心したまま、その場でうなだれていた。

 僕は気も漫ろに、よろよろと立ち上がった。夕刻だった。窓から、夕暮れの淡いオレンジ色の光が差し込んで、真っ白の円卓をその色に染め上げた。僕はその時、その円卓がオレンジ色になっていることよりも、夕暮れがこれほどまでに黒かったのか、ということを思わされた。円卓の袂が、新月の夜空を写し取った川の水面のように、闇を湛えていたからだった。

 僕は外へ出て、ぬいぐるみを探した。それは、大木に引っかかっていた。クスノキだった。逞しい幹から、幾重にも派生した枝が夕日に彩られた。ぬいぐるみの茶褐色もまた、オレンジ色になっているかと思ったが、枝葉に遮られ、人の影のように黒々としていた。僕はそれを眺めていた。木登りしようにも、手をかける場所も、踏ん張る場所もなかった。足掻こうと幹に何度か爪を立てたが、木皮が削れるだけだった。爪には、その屑が溜まっていた。

「どうしたんだい?」

通りすがりの男が僕に声をかけた。彼は優しげに姿勢を屈ませて、両膝に手を当てて、僕の瞳を覗き込んだ。彼は青っぽい背広を着ていた。黒いネクタイが、やや右に寄れていた。前髪がやや後退して、正方形の額を夕日に晒していた。扁平な瞳は釣り針で引きずられる様に垂下し、涙袋の下にはくすんだ灰色と贅肉を保有していた。唇は色と潤いを失って、あかぎれのようにぱっくりと切れているのもあった。彼はそれを気にする様に、幾度となくその上に下を滑らせた。口髭には白髪が混じっていた。

「どうしたんだい?」

彼はまた尋ねた。僕は黙っていた。決して、彼に対しての反抗ではなかった。僕は最早、あの黒々としたぬいぐるみへの執着でいっぱいだった。あれを誰かの助けで取って貰い僕の溜飲が下がれば話は早かったが、もうそれでは治らない様に思われた。そして、この思いを、この人に話したところで、僕は何も助からなかった。説明できるとも思われなかった。

 僕は俯いていた。アスファルトもオレンジ色に染まっていたが、それは、黒々とした車や人の影を際立たせる役割も持っていた。僕はそれに終始ゾッとしていた。

 不意にその影の一つが動いた。僕の強情ぶりに辟易した男が、立ち去ったのだった。つかつかと、そこの厚そうな靴音が不規則な仕方で耳に響いていた。僕はその後ろ姿を見送った。曲がり角に見切れるくらいの頃合いに、彼は一度僕の方を見た。そして、軽侮か憐憫か、よくわからない微笑を残して姿を消した。

 僕はその後も、ぼんやりとぬいぐるみを眺めていた。風が吹くと、その影は死骸の様に弱々しく揺れた。葉っぱがさざめいたが、それは僕を立ち去らせようと躍起になっている様だった。

 日が暮れた。周囲の外灯が僕を照らしたが、ぬいぐるみを照らすことはなかった。蛾の類が、ドスドスト外灯を包むガラスに頭をぶつけて、地面に鱗粉を散らしていた。クスノキは、奇妙な虚像の様に君臨した。僕は思いっきりその幹を蹴飛ばしたが、ゆさゆさと地表に近い枝の幾らかを嘲笑する様に振るだけだった。

 結局、あの男以外、僕に声を掛ける者はいなかった。その事実は、案外僕を苦しめた。孤独を強めた。さりとて、僕の苦衷を知らしめる術はなかった。僕はぬいぐるみを置き去りにして家に戻った。家には彼女がいた。僕への行いを忘れたかの様に、味噌汁を啜っていた。一瞥もくれなかった。部屋には人工的な光が満ちた。白の円卓にもその光は広がって、美女の鼻梁の様な異才を放った。僕は、ふと円卓の下に目をやった。そこには、あの暗闇はなく、無造作に投げ出される彼女の艶やかな足があるだけだった。

 ……。

 なぜこのことを今思い出したのか、僕はよくわからなかった。ただ、思い出したにしては、それがいささか明瞭だったのは確かだった。

 僕は欄干を揺らした。脆弱な虫歯の様に、それはグラグラと今にも取れそうだった。キュルキュルと音を立てた。

 取れてしまえ、取れてしまえ、僕はそう願った。死にたいわけではなかったが、欄干が根元から剥がれ落ちることは願っていた。僕の掌はすっかり汗ばんでいた。

 僕は動きを止めて、鎮魂を思う様に最後の一瞥を眼下にくれた。車が見える。太陽を光らせるフロントガラスが見える。そうだ。あの車に身体をぶつけてやろう。その後など知ったことか。ぶつけてやって、僕の身体からあらゆる臓器が飛び出して、ハンドルや座席を血みどろにするだろうが、知ったことではない。そして、僕はこのあのフロントガラスが太陽を反射した様に、僕の濁った網膜が代わりに、あの太陽をすっかり吸収して、反射させるのだ。そうだ。それはとても具合が良い。俄然手すりに加えられる力は増大した。取れてしまえ、取れてしまえ……。

 そんな折、欄干はやけに素っ頓狂な音を立てて、―あたかも盗みを見つかった泥棒の様な表情の具現化の様に、―崩落した。僕もまた地面へと投げ飛ばされた。ああ。死ぬのか。そんなことを思った。サンダルは早々に僕の足を離れた。僕は手足をジタバタさせたが、すぐにどうにもならないことを思い知った。僕はフロントガラスめがけて急速にその速度を速める。その姿を、僕が見染めたあのカラスが、どこかで見ているのではないか、そんなことが最後の最後まで僕の心を捉えていた。そして、彼が僕の骸を突いている姿もまた脳裏を掠めたのだった……。

 僕はそこで目が覚めた。寝汗が酷く、服はすっかり湿っていた。頭を仕切りに振って、壊れた機械を嘆く様に頭を何度か叩いて見たが、てんでどんな夢を見たのか思い出せなかった。時計は、8時前を示していた。そう言えば、今日は学校であったことを思い出す。

 馬鹿みたいな晴天から目を背ける様に、僕は俯いて家を出た。その日差しは、僕に頭を垂れることを強要するみたいだった。

 近所では、児童が騒いでいた。集団登校のため、集まっているらしかった。背丈はバラバラだったが、誰の瞳も輝いて、その肌はどれも光を弾く様だった。

 彼らは何かを投げ合っていた。当て鬼の様な、そんな遊びをしている。彼らは互いに容赦無く、その何かを投げていた。

僕はその横を通り過ぎた。そして、その何かとは、ぬいぐるみらしいことに気がついた。首から綿溢れ、それが投げられる度に、タンポポの綿毛の様に、ポッと宙を舞っていた。そこで僕は、彼らがその綿の出るのが面白くて、だから、当て鬼なぞに興じているということに気づかされた。証拠に、彼らは叩きつけられたそのぬいぐるみを瞬時には拾わず、ゴロゴロとその身体を揺らすのが収まってから必ずそれを拾っていたのだ。そして、彼らは決まって笑顔であった。僕はそのぬいぐるみが一体何を象ったものであるのかを確かめようとしたが、なんだか危険な気がして取りやめた。あのぬいぐるみの綿の一切がなくなって、その辺の植え込みや路肩へ、さも枯れ落ちた花の様に捨て置かれるところまでが、なぜか容易に想像できたからであった。

 僕はもういいかと思い、ポケットに手を突っ込んでその場を後にした。その時、僕はようやく、今日見た夢の端緒を見出すのだった。何がどうであるのか、それは説明し難かった。ただ、その夢が、僕にとっては、確かに致命的であり、そして日常生活においては一切合切忘れ去られている何かであるということだけは、雲を掴む様に理解されたのだった。

 電柱にはカラスが一匹、僕を悲しそうに見つめていた。そして、カーカーと、不明瞭に喚いて飛び去った。僕はそれを見つめた、彼の背景には、すっかり青い空の色が無限に広がっていた

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