桜の木の下で

第45話

「――君にお願いがあるんだけど」

 玲が体を離し、首の後ろを気にしながら彼が言う。

「何かしら?」

「僕をあの公園に連れて行ってもらえないかな」

「いいけど。今あの木を見たら、あなた……」


 どういうつもりなんだろう

 俺の代わりにこのまま生きるんだから、もう桜を羨む必要もないのに……


「どうしてもこの目で見ておきたいんだ」

 彼女がとても驚いた顔をした。

 そして少し寂しそうな顔をして「分かったわ。行きましょう」と言い、鍵を手にした。


 しばらく車を走らせると、いつもの景色が見えてきた。

 いつもの道。それなのに全く知らない道のような気もする。

「そろそろ見えてくるわね」

 彼女の声で窓の外を見る。

 雨上がりの空気の中、少しだけ色付きはじめた桜の木が見えてきた。


 この桜――こんなに綺麗だったのか

 大地にしっかりと根を張り、堂々と幹を広げ美しく色付く

 この木はきっと女性なんだな

 なんとなく……そう思った


「着いたわよ」

 会社の駐車場ではなく、公園のすぐそばに車を停めた。

 二人は並んで歩き、桜の木の下で立ち止まる。

「連れてきてくれてありがとう」

 彼がゆっくりと微笑んでお礼を言う。

「いつも君の背中越しに見ていたこの桜を、最後に自分の目で見たかったんだ」


 最後にって……


「間近で見たご感想は?」

 玲が普段どおり明るく尋ねる。

「やっぱり僕は桜にはなれないってよく分かったよ」

「どうして?」

「この木は女性なんだってあいつが言った。こうして目の前で見て僕もそう思ったよ」

「そうね……言われてみればそうかも。中川君もたまにはいいこと言うわね」

 そう言って二人で笑った。

 とても穏やかな時の流れ。


 なんだか切なくなる


「ありがとう」

 桜を見ていた視線を玲に移して言った。

「これでもう思い残すことはないよ」

「……どうするの? これから」


 こいつは――


 俺は懸命に心の中で話しかける。


 俺のことは気にするな

 お前は自分の好きなようにしたらいいんだ

 そんなこと考えるな

 俺はもういいんだ

 お前は――


 彼は静かに口を開く。

「僕は――ずっとこうしていたいと思わない訳じゃない。だけど、もういいんだ……いいんだよ」

 彼女は桜を見上げたまま言う。

「さっき中川君の思いが私にも聞こえてたの。あなたに、このまま生きろ――って……自分がつらい思いを引き受けるからって」

「ああ」

「それでもあなたは……」

「僕は、ずっと嫌な役だけを引き受けてきた」

 彼も桜を見上げる。

「それがなぜだかさっき分かったよ。僕は――あいつのことが好きなんだ」

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