第二章 宇宙人は恋がしたい

2―1

 家が最も豊かだったのはきっと物心がつく前。園児のころがピークだったと思う。そのころの両親はそれぞれの仕事が上手くいっていて一家は東京を拠点に生活していた。

 ところが、何が原因かは分からないけど両親は同時に仕事を失い、私が物心つき始めた小学生の頃にはこのボロアパートに落ちのびてからの生活が始まった。

 自分を自覚するきっかけが貧乏というのは自分でもあんまりだと思う。けれど子供という生き物は――本人たちが自覚していないのが厄介なことに――に敏感でそれが弱さ由来の物であれば、貧乏であれば攻撃を始める。やせた体、毎日のように鳴るお腹、シャワーも満足に浴びれない、服も襟や袖、裾が擦り切れるまで着潰す。分かりやすいくらい弱い私は当然世間から孤立していた。

 これはきっと家族全体が貧乏くさかったのだろう。学校という、子供という最小単位の生き物がいじめを行うのであれば、それが大人スケールの世間ともなれば貧乏への風当たりはもっとキツイ。本当の所何が原因なのか分からずじまいだけど父親は私が小学五年生の時にいきなり蒸発した。

 なんの前触れも無く、書置きすら残さなかった。少なくとも母親とはコミュニケーションを取っていたらしい。だから正確に表現するなら、別居というのが正しいのだろう。当時は相変わらず貧乏だけど父親は母子二人が当時の生活水準を維持できる分のお金を振り込んでくれていたし、私は父親よりも母親の方が好みだったので呑気に「お父さんがいなくても大丈夫」なんて言っていた。

 そう、貧乏の原因が両親の収入だと分かっていても私にとって母親は絶対の世界だった。小学時代どれだけいじめられても、臭くて痩せっぽっちでも母親だけは抱きしめてくれた。「大好き」と言ってくれた。純粋だった私は愛情さえあればお腹が鳴っても平気だったし、父親がいなくても寂しくなんて無かった。どれだけ世間に殴られても母親と一緒だったら立ち上がれる本気でそう思っていた。

 だから中学に進級した時は本当に嬉しかった。女子にしてはそれなりに背が高い私。成長期を迎えた時は成長に合わせた服を買えずに母親の古着まで着なくちゃいけなくって、自分に不釣り合いなソレが自分の中でどうしても似合わなくって……初めて制服に袖を通した時私はようやく「自分に合った服」を着ることが出来たと有頂天になった。学問の門戸の前にみな平等、貧乏を隠してくれる、感じなさせないでくれるそれが嬉しくて嬉しくて、母親の前でシンデレラのドレスみたいに無意味に踊って、それだけで楽しかった。

 でも、親にとって子供は絶対なんかじゃない。現に父親は私と母親を捨てた事実を、今思えばあの頃の私は重く受け止めるべきだったのだろう。

 中学二年の頭辺りから父親の仕送りが不安定になり、電気や水道が止まるようになった。それでも私は母親がいるから大丈夫だとお気楽に、ゲームでもやる感覚で勉強に打ち込んだ。日が沈む前に宿題を終わらせるとか、シャワーを浴びれない代わりに問題集を解くとか、とにかく母親の喜ぶ顔が見たくて、子供の自分が出来る事は、制服に似合う行動は勉強でいい成績を出すこと。制服が垢まみれになるのに比例するように私の成績はいつの間にか学年で一位になっていて、私は有頂天でそれを報告しようとして――

「お母さん!」

 家に帰ったとき母親はいなかった。その場に残されたのは新しい私用の通帳と「ごめんなさい」と一言弱弱しい字で書かれた書置きだけ。

 バイトをしている今なら分かる。世間は性別が女だと言うだけで弱い存在だと決めつけ攻撃を仕掛けてくる。これがシングルマザーになったらどうか。貧乏な母親を世間はどう扱ったのか、少なくとも母親はそれを私に見せなかった。母親は私の前では完璧に、完全で安心できる世界を作ってくれていたのだ。その点だけ、私は彼女を憎むことが出来ない。

 しかし、父親が耐えられない圧力に彼女が耐えられるはずがなかった。結局彼女も私という重荷を抱えきれずに姿を消したのだった。

 それ以降の中二の途中から中三の記憶はとても曖昧だ。頼れる親戚は両親共に持っていない事。親の義務的に口座に振り込まれる金額は両親共にまちまちな事。両親に裏切られた事。お金が無いこと。貧乏なこと。生活インフラが不安定なこと。苦労していないクソガキがお金があると言う理由ででかい顔をしている事。教師は憐れみの表情を見せるだけでなんら手助けしない役立たずだという事。憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて……とにかく、目の前に映るものすべてが敵に見えた。貧乏なアウトサイダーは社会に交わる事なんて一切できない。世の中は結局お金が全てなのだ。

 憎悪を、虚無感を満たすために私は勉強に打ち込むしか無かった。どれだけ制服を誇ろうとも中学生という身分ではお金を稼ぐことが出来ない。だったら自分で、自分だけの力で出来る事で身を立てるしかない。猛勉強しまず試験に合格。中学三年間の成績が全て主席、家庭環境が劣悪だという同情を引くアピールと、勉強がしたいという情熱を表現すれば大人はチョロイ。私は晴れて高校生という身分を己一人の力で手に入れることが出来たのだ。

 そう、人間は一人で生きることが出来るのだ。高校生になってバイトが解禁されて、自転車で朝・夕街中を縦横無尽に駆ければ子供一人生活出来る分のお金を電気も水道も止まらない生活を維持できる。それどころか原付だけど免許だって、公道で一人前だと判断される資格を持つ事だって出来る。あの図体だけは大きな箱庭の中で私以上に原付を乗りこなせる人間はそういない。私はもう、私一人で生きることが出来るんだ――


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