1―4
担任が帰りの連絡を伝えると多くの場合生徒というものは教室に残って駄弁ったり、仲間内でトランプ遊びに興じたりするらしい。しかしここは特進クラス。授業が終わると全員それぞれの目的のために一斉に教室を出る。彼らの中には本気で東大を狙って予備校でさらなる学力を身につけようとしたり、身なりがいい彼女は家の事情を優先したりとそれぞれが個人主義者だ。そりゃ会えばお互い挨拶くらいするけど、それは教室での話。誰だって学校だけが生活じゃない。このクラスが良いのはそんな雰囲気がある事だ。
「さてと……」
私以外誰もいなくなった事を確認すると、私はリュックからTシャツとジーンズを取り出して手早く着替える。たまにボール遊びに興じているバカがここの奥の立地にやってきて覗いてきたことがあったけど、睨んだら二度と近寄って来なかった。そりゃ私だって女子だし恥じらいはあるけど……安物の下着に痩せた体。背丈は一六〇後半だけどこれじゃ見栄えが悪い。着替えの時はカーテンくらいかけるけど、羞恥よりも優先させるべきは時間だ。
「ふう」
廊下は走らない。別に校則って訳じゃないけど体裁だけは守って早歩きで昇降口まで移動する。
「アレって……」
「ああ、あの――」
学校という場所は当然だけど制服、ジャージ、部活のユニフォームなど生徒はとにかく学校指定の物を身につけるのが決まりだ。私は学校に生活苦を理由に下校時にこの全身ユニクロ以下の仕事着を着られるように許可を貰っている。だから別段恥ずかしがる必要も無いのだけど……まあ目立つ。目立てば当然噂話の対象になるわけで。頼むから特進クラスは全学年一階に配置して欲しい。一年の頃は視線の数は半分で移動時間も短い。貧乏を知らないのはいいことだけど、だからって人を珍獣みたいに見てくる視線は……、
「チッ」
どうでもいいクソガキからのものだからってたまった物じゃない。
昇降口を出ればもう廊下じゃない。私は全速力で駐車場へ。リュックを前カゴへ投げ入れヘルメットをむしり取って装着しキック「ガン!」無事に始動したから気にしない。それなりに賑わうそこからカブプロを引きずり出してシートに座る。
「はぁ……」
シフトペダルを踏むと「バツン」と音が返ってくる。これでようやく第二の戦場から第三の戦場・そば屋へと気持ちを切り替えることが出来る。スロットルを開いてあっという間に制限速度へ。学校周辺に都市部までの道のりはお行儀のいい運転を強要されるけど、勉強で頭をイジメ抜いた直後だけはこののんびりとした速度が気持ちいい。帰りのピークで混み始め、流れが若干緩やかになった道も心を落ち着けるのに一役買ってくれている。
そうやって巡行しているとそば屋まであっという間に到着する。私は勝手口付近の従業員用のガレージにカブを停めてそのまま店の中へ。
「おはようございます!」
「おう、おはよう!」
私のバイト先のそば屋「月見庵」はいわゆる老舗という奴で、店舗の増改築、スタッフの増補を定期的に行えるほど繁盛しているやり手だ。地元民はもちろん、県外からもお客さんがやってきて私が働いている範囲だけでもお客さんの波が絶えたことが無い。
「じゃあ早速だけどこれ、頼むよ!」
「はい」
当然そば屋に付き物な出前もスタッフを三人雇うほど。学校のつてだったか覚えていないけど、私はたまたま出た欠員の中に潜り込むことが出来たのだ。
私は恰幅の良いエネルギッシュな店長が軽々と渡して来たかも南蛮そば大盛りを腰を落としてしっかり受け取り勝手口を出る。
そば屋の出前といえば、これもまたスーパーカブがセットらしい。私の人生はこの原付とよほど縁があるのか……あんまり父親を連想させるものを他の場所でも見たくないのが本音だけど、だからって一年前の朝夕のバイト全部自転車でこなしていた時代に戻りたいかといえばノーだ。物と思い出を結びつけるなんてナンセンス。道具は使いよう、そこに感傷を入れるべきじゃない。
そばがのびないように後部の出前機に手早く乗せ、カブを発進させる。そば屋で使っているのは私のカブプロと同じくらい年代物のノーマルなカブ。前カゴの無い普通のやつだ。そのせいか走らせている時は前方の方が少し心細い。反対に、後ろには新聞と違って細心の扱いが求められるつゆがたっぷり入ったそばが入っている。まったく、夏場なのにどんぶりいっぱいに熱々のかも南蛮なんて誰が頼んだ!
いくらスーパーカブの低速での安定感と出前機の精密なバランス設計があるとは言え、ライダーに慎重な運転が求められるのは言うまでもない。お客さんが口にするもの、後部に大きな責任を感じながらカブは夕飯時の街を行く。
「すみません。月見庵です」
チャイムで呼びかけると扉が開く。
「……どうも」
無精ひげを生やした……お兄さんとしておこう。私はまず先にお金のやり取りをしてからそばを渡す。扉が閉まればこれで一息。それなりのスピードでそば屋へ戻る。
私が朝も夜も配達系のアルバイトをしているのはバイト代が良いのもあるけど最低限の愛想で済むから。この仕事では「愛嬌」よりも「早く、正確に」運ぶことが優先される。そば屋のほうはもちろんお店の看板のためにある程度の愛想が必要だけど……え? 私の愛想の最大レベルが気になる? 懐の深い店長が私の顔を見るなり「接客は無理だね。ハッハッハ」と断言するレベルだ。私がこんな顔なのは全部貧乏が悪い。
そば屋に戻って、出前に出て、コースによっては食器を回収する。それを繰り返すだけでもあっという間に時間は流れてゆく。
「おっ、そろそろ良い時間だな。お嬢ちゃん、休憩な!」
「はい」
交代で休憩。
「ふう……」
おそばの匂いが鼻を、お腹を襲撃する。疲労にこれはキツイ……。
でも――
「おあがり!」
そば屋のバイトの特典。新聞配達とちがってこっちにはまかないがつく!
「いただきます!」
どのそばも八〇〇円以上する強気の値段設定。私のお財布じゃ絶対に味わえない、三食の中で唯一「食事」をしている感覚。この時間だけは早食いせずに休憩時間いっぱいまでゆっくりつゆの一滴まで味わい尽くす。
「はふぅ……幸せ……」
この瞬間のために生きている、なんて言うのは大げさだけどこれで残りの出前も頑張れる。再び店長からそばを受け取って勝手口へ。私とカブは夜の街を縦横無尽に駆けてゆく。
そうして時刻は午後九時。朝から絶え間なく続いた戦いが終わる。
「お嬢ちゃんお疲れ様!」
「お疲れ様でしたー……」
勢いのある店長の声に押し出されるように勝手口を出る。店長の、店の雰囲気に合わせた声色も尻切れに。さすがに……、
「ああ……暑い……」
ガレージへカブプロを引っ張り出しに行く。暖気なんていらないほど、もう滅茶苦茶に熱を籠らせている。ようやく気を緩められるところに疲労と熱は勘弁してほしい。季節は夏に向けてどんどん気温を上げるのだから天井が見えない。
「今日は買い物しないと」
もはや閑散とした公道。私はシフトペダルを何度も踏み込みあっという間に制限速度を超える。少しでもまとわりつく熱から逃れたい、その一心で流星のように猛烈にカブをスーパーへと入れる。
カブを駐車場に停めて店内に入るとバイクの風とは別種の凍てつくような空気が全身に降り注ぐ。家には無いエアコンという便利なもの。夏も冬も過度に温度を支配しようとするそれは羨ましいやら風情が無いやら。
「早いとこ済ませよう……」
環境に微塵も適応できないエイリアンになった気分で私は一直線に食品売り場へ向かう。狙うのはおつとめ品コーナー。それも生鮮食品では無く出来あいのものを。十分、いや数分単位で時間が惜しい私に自炊なんてする余裕は無い。料理なんてものはブルジョアの特権。それに一人暮らしするなら自炊も外食もあまり値段の差が出ない。正規の値段でそれならば手間と値段を節約できるおつとめ品が一番効率がいい。
支払いを済ませて自動ドアをくぐると外気が再び熱波の如く降り注ぐ。体表の急激な変化に気分が悪くなるけど、どちらがマシかと言われると私はエアコンの無い方を取る。貧乏が染みついてそちらの方が慣れているって言うのもあるけど、天然の、外の環境であれば原付が風を生み出してくれる。
「バツン!」「ふぅー……」
一速、二速、三速。竹林の坂だってそのままのスピードで駆けあがる!
「いやっほう!」
一カ所にとどまっているとどうしても私を縛る色んな物が……貧乏を軸に学力の維持、他人の目、睡眠不足、制限速度、バイト代、食事……なにかと憂鬱な事を考えざるを得ない。
でもこれに乗って移動している間だけは何も考えなくていい。風に吹かれて、大気と一体化して、星のように夜空を駆ける。そんな想像で胸をいっぱいに膨らませることが出来る。
今だってカブの調子は絶好調だ。今朝の坂で確信した通り、カブはスピードを維持したまま陰鬱な境界線をぶっちぎる。余計なしがらみを一切捨ててそのままアパートへ――
「――っ‼」
急制動。有頂天な気分は一瞬にして打ち切られる。
「あ……………‥」
目の前の光景に空いた口が塞がらない。
「なんで……」
今朝は慌てていたから見逃したのだろうか。竹林が広すぎて? 奥まっていて? それとも角度? とにかく、眼前の光景を受けて私は逃げるようにスロットルを目いっぱい開く。
カリカリとカブが情けない悲鳴を上げる。四速のままスロットルを捻ればギアがパワー不足を起こすのは当然だ。私は足りない加速を地面を蹴って誤魔化して無理やり原付を軌道に乗せる。
「ありえないありえないありえない!」
あの光景は悪夢では無かったのか。これが熊とか変質者だったらどれだけいいか。熊はアクセルターンで市街地まで逃げればいいし、人間だったらスピードのままひき殺せばいい。幸いな事にこんな田舎の山なら埋め放題だ。
埋め放題。そう埋める穴。竹林のあの角度、青竹が光っていたと思しき場所には真球状に削り取られた無残な姿があったのだ。
「――ッ!」
駐輪場に滑らせるようにカブを停めて急いで二階へ上がる。錆びついた階段が軋み不愉快な音を立てるけどどうせ私の他に入居者はいないから近所迷惑にならないしそれよりも逃げるのが先だ。
「何なのよもう!」
慣れた動作が幸いしてカギの解錠は一瞬で終る。私は最低限の隙間を作ると中へ滑り込み閉めて内側のカギとチェーンで戸締りを完了させる。
「……ポスト見るの忘れた……」
一階の集合ポスト。郵便物は全てそっちに入れられる。当分公共料金は払わなくていいはず……
「ははっ……ふぅ~……」
どこまで追い詰められても、気が緩めば気になるのはお金の事。自分の中の最優先事項が相変わらずな事を自覚して緊張が解けると私は思わず玄関でへたり込んだ。
「ははっ……ただいま」
両親が、母親がいた時まで使っていた言葉、それがどうして口から出たのか分からない。ひょっとしたら悪夢が忌まわしくも懐かしい記憶を掘り出したからか――
「おかえり」
「!!?」
――それとも無意識に誰かの気配を感じ取った結果だったからなのか……仮に、あくまでも仮にあの夢が本当だったのだとしたら――父親のSFの趣味、その鉄則では気が緩んだ時が最も危険……、
「かひゅっ……」
かろうじて吐き出せた息は我ながら情けないほど擦れ擦れで、木造建築特有の蒸し暑さは背筋の悪寒の前に完敗している。
「………………」
意を決して立ち上がって電気を点ける。目の前に広がるのは相変わらず殺風景な私の部屋。さっきの声は気のせいか……それとも、声の主は奥の方にいるのか。
もう何年も住んでいるはずの自宅が化け物の胃袋にでもなったかのように足裏がぐにゃりと安定しない。全身はすでに脂汗でぐっしょりで本能は警告し続けている。それでも、私はあの日、あの夢のように一歩、また一歩と日常をなぞるように未知の存在に向けて歩き出す。
「―――――――――ッ!!!!!」
自分が発したのは最早言葉なのか、グチャグチャになった感情で最も近いのは驚愕だった。
「お帰りなさい」
部屋が光っている。いや、彼女という存在自体が光り輝いているかのような……光る君が実在するのであれば、きっと彼女のようなこの世の物とは思えないほど見目麗しい存在の事を言うのだろう。
「? どうしたの。自分の家なのにそんなにかしこまっちゃって?」
大丈夫? ひょっとして体調悪い? 彼女は昨日とは異なりごく自然に地球語・日本語を話し、四人掛けのダイニングテーブルの上で頬杖をついて家主である私よりもリラックスしている。グラスに注がれた麦茶は節約のための水出しタイプ。彼女が纏う空気はあまりにも「当たり前の日常」のようで――
「ちょっと! ■■、■■!」
ただでさえストレスフルな日常に処理を超えた事態。もはや疲労が限界まで達して、もう認めよう、目の前の美女は昨日の異常事態を引き起こした張本人であると。
「む……」
麦茶代を返せ。口に出そうとした言葉はここに来てまでお金に関わる事。これが最期の言葉になるとしたら、我ながらあまりに貧乏くさい。
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