あの日描いた水彩画
タオル青二
荷造りにて——
子供たちをあやしながら行う引越しの荷造り最中、僕は数年ぶりにこの絵を見つけた。
——嗚呼、なんて懐かしいんだろう。
「そうか、持ってきてたんだ、僕」
描きあげたその絵は15年経った今でも、目にすれば淡い記憶を呼び起こさせる。中学時代にはパソコン部に入った。ただ、余りにもつまらなく感じて、僕には不向きかもしれないと思い至った。
そこで高校に入学してから友人に勧誘されて入部したのが美術部だった。分からない事ばかりで、上手く描けない事に不満は募る一方だったが、それでも辞めたいとはならなかった。
美術部で2年目を過ごせば必然、2度目の文化祭がやってくる。美術部の文化祭は毎年恒例で美術部展示場を設けているため、9月には作品を画く時期に差し掛かる。
ついてはいつも遅筆な僕は、いったい何を真っ白なキャンバスに落とし込むかと悩み続ける処から始まるのだった。
実際描き出すテーマ自体は予め決められていた。昨年は『世界に羽ばたく日本の未来の姿』なんてご立派な内容だったのに、今年は『我が校内での誇らしい生徒の姿』と規模が一気にこじんまりとしたのだった。教員がどんな基準で決めるのかは不明だが、何に決まったにせよ描きたいものが浮かばなくとも描かなくてはならないのだ。
まだ戸締りされていない教室に入室する。教卓を突っ切り窓の外を眺め、真っ新のキャンパスを三脚に縦掛けた。校庭に蠢く運動部を眺めて、あーでもないこーでもないと筆を投げていた。
何処で描いても構わないのは有り難かった。もし皆と同じ対象を同じような角度でという条件だったら、手が止まって期限日を迎えていたかもしれない。
とはいえ画材具を持ち歩いて誇らしい生徒を探すのはもう疲れた。
期日が近いこともあるし納得はできないが、もう適当に誰かを——と考える場にあの人はやって来た。
——がらがらと後ろのドアが開く。
「あれ、木村君、この教室で描いてるの?」
「井ノ原先輩……何でここに」
井ノ原先輩は僕の一学年上で美術部の副部長だった。
見た目通りの補佐人で、考え事をしている素振りの中、時折り眉間に皺が入るのを気にして華奢で細長い人差し指と中指を眉間につんつんと押し当てる仕草をしていた。その際、太ぶちの黒い眼鏡を外しながら少しだけ口角を上げているのを僕は知っている。
教室の——未だに活用されている木製の——生徒机を避けて迫る彼女は、夕焼けを逆光にスラッとしたシルエットを浮かび上がらせる。
彼女を見る僕の視線と、僕を見る彼女の視線。交わるそれに頰の熱を覚えた。
前に出ている濡れ烏のサイドポニーは画家ならばコリンスキーの筆のように高級で上品な物に映る。薄紅色の唇は髪の色と眼鏡縁の色によって引き立たされ、口元の左下、小さな黒子がそれを色っぽく魅せた。
「ここ、私のクラスだから。忘れ物したから取りに来たの。——そしたら木村君が絵を描こうとしてた」
全然気付かなかった。今日は校庭で大会活躍に向け切磋琢磨する生徒の様子を俯瞰で捉えれたらと思って、3階の教室にずかずかと上がり込んだのだから当然だ。刻限迫る中、空白のキャンバスを埋める何かを探そうと必死になっていれば周りを把握することも疎かになる。
彼女は立てた三脚の隣にある生徒机にスカートを整えて腰を掛けた。教室には学らん姿とセイラー服姿の異性同士2人っきりだった。
「ここ、私の机なの。一番前の一番窓際の席」
「……へぇー。あ、あの、ここの角度って黒板、見え難いですよね。外れ席っぽいから嬉しくないんじゃないですか?」
何と言葉を返したものか、分からなかった。というのも先輩の座り方は少し前のめりに、両手はそれぞれ机の縁を軽く握っている。膝下3cmほどのスカートからすっと伸びる脚は斜めに揃えておりとても美しかった。そう、如何しても先輩を意識してしまうからだった。
何より彼女の目にやられていた。僕は校庭を見下ろす形に直立しているのだ。そんな僕を、座る彼女は上目遣いに見つめてくる。とても直視できたものではない。せめて耳が赤くなっているのが夕陽のせいであったと思って欲しい。
少しはにかみ、フフっと声を漏らして君は言った。
「確かにそう、黒板は反射してるからノートに写しづらいね。…………でも、ここで良かったなって思う事もあったの」
彼女の右横顔が目に入る。いっちに、いっちにと声のするグラウンドを見遣っていた。
「少し机を窓側に寄せるとね、授業中に走ったり、棒高跳びしたり、ラジオ体操したりしてる人が見えるの」
しっとりとした感覚で耳に残る。彼女の声に僕は包まれていた。外の部活動の声など入ってこない程に。
「それに頑張ってる人って素敵だと思わない?」
こっちを向き直る彼女。その澄んだ瞳にはっきりと映り込む僕。ふと思う、見つめてくる貴女に僕がどう見えているだろうか。
「……素敵、だと思います」
それ以上言葉が思いつかない。そこまで人との会話で緊張することはないのに、何故こんなにも井ノ原先輩とは緊張するのだろうか。
「特に気にしてた人がいてね。……その人、頑張り屋さんなのか、運動苦手そうなのにいっつも肩で呼吸するまで、真剣に授業受けてた」
なんだか楽しそうに話す先輩。言い終えてニコッとする表情からは純粋な気持ちを感じた。
「……僕は、そういう人ってきっと何かを追いかけてて、皆から良い意味で注目もされるし、きっと誰もが憧れるような。そんな人だって思うんですよね」
先輩は違うんですか? と投げかけると苦笑いでこう返されたのだ。
「私はそこまでかなぁ。だって授業中に外眺めちゃってる訳だし。好きな事以外はねー」
意外だった。新人勧誘も真面目にやらないちゃらんぽらん部長の相手を永遠やってる人だったからそう言うとは思ってもおらず、意識せぬ間に目をぱちくりさせてしまった。
それが面白かったのか、彼女は吹き出していた。手で口元を隠しながら「何その反応〜」なんて台詞が出たもんだからこっちも吹き出してしまって、気が緩くなった。
「先輩がよく、部長の尻を叩いてる所しか見てなかったから印象がそんな感じだったんですよ」
脚の左右をそれぞれ前後に振りながら少し口元を尖らせる彼女は、まだ僕が見たこともない彼女だった。
「あれは、剣持がしゃんとしてないから。私が全部しなきゃいけなくなるって、いっつも怒ってるだけ。ただの苦情」
なるほど、苦情だったのか。よく一緒にいるし、事あるごとに剣持部長がベタベタと先輩話しかけるから2人の関係は気になっていたが、違うのか。
「それに、ここだけの話にして欲しいんだけど、正直私剣持のことそんなに……あいつに構ってばっかりで、本当に知りたいと思ってた人に……なかなか関われなかったし」
そう口にした彼女の頰は赤らんでいる気がする。
いったい誰のことか。部長と関わる時間といえば部活中。つまり部員ってことかな……気になってしょうがない。
「あの先輩、その人って……ッきっと努力家なんだろうなぁ! きっとめげないしへこたれない。きっと描くたびに上手くなるような……そんな……人かな?」
話し出した瞬間、交わった瞳に頭の中は真っ白く、それにより動揺が露わになり、顔は真っ赤に変化した。一瞬で目線を逸らしてしまった。
しかも口に出した人は僕じゃない。同級生で同じく美術部の佐川だ。来年部長をすることになるだろう2年生で、3年生を除けば一番上手くキャンバスに塗り描く男。
自分自身が一番彼を羨ましいと思ってる。だからこういうときに頭に浮かんできてしまうのだ、多分僕は、選ばれはしないと。
でも、もしも選ばれるのなら——
「——そうだね、私もその人は、そういう人だと思うなぁ」
「…………」
やっぱりそうか。選ばれはしないよな。描いてはめげて、描いても上達せず、そんな人物は誰からも認められることはない。
「羨ましいですね、その人。皆に尊敬されてるんでしょうね。……僕なんかとは大違」
「——そんなことないよ」
遮った声は静かな室内に、何より心にすっと通った。
机から腰を降ろして、僕の前に、キャンバスを挟んで佇んだ。手は下半身の前で組んだ指を少しもじもじとさせている。
「……私が見てた木村君は筆を取れば、本当に描きたいと思ったものを探し続けて、熱中しながら、今できる限界をキャンバスに載せていってた」
確かに今回だって描きたいと思えるものを探し続けてた。時間さえあればここで妥協することもなかったのに。
「それに、キミは描くたびに進歩してる、ちゃんと向上してるんだよ? 入部してから初めて描いたよね、夏茜の——」
そう続ける彼女は日を受けて満開になった向日葵のような笑顔で、僕の今までの作品を褒め続けたのだった。
——嗚呼、なんて嬉しいんだろう。ちゃんと見てくれた人がいた。ちゃんと何処を改善しようと躍起になっていたのか理解してくれた人がいた。
このことで漸く報われたような気さえして、同時にこんなにも胸の内が暖かく鼓動していることを認めた。
そうか、やっぱり想っていた僕がいるのだ。親や教師から褒められて嬉しかったが、井ノ原先輩からは特別幸せを感じた。
「——ね? ちゃんと貴方が頑張れる人だって見てきてる。貴方の努力を、私はちゃんと認めてるから」
ここまで対面で直球に言ってくれる彼女に感銘を受けた。そして思う、僕は何を返せるだろうか。
きっち、投げやりになることなく、今まで通り改善を考え、妥協することなく絵を描き続けること。きっとそれを望んでくれている。
「あの、ありがとうございます。井ノ原先輩がこんなにも注視してくれてるなんて思ってなくて」
「……ッ!」
窓から吹き込んだ風に揺れる濡れ烏の髪。美しい赤さを放つ林檎のような色になった先輩がとても愛らしい。
あ、あの、ええとなんて慌てふためく彼女がとても、とてつもなく愛しい。
「何というか、元気が出たっていうより、勇気が出たって言う方が正しいかもしれないです」
多分僕は彼女に告白する。今まで僕はそこまで恋心らしいものは抱けなかったのに、貴方にはそれを抱いているのが分かる。
……でもその前にやることが一つ。今回のテーマは『我が校内での誇らしい生徒の姿』。
「井ノ原先輩、先輩はもう今回の絵画は終わっていますか?」
「——っ! えぇ、もう描き終えてる」
流石に副部長、抜かりなしだ。
でも、それがどうかしたの? なんて質問が飛ぶ。だから僕はこう言うわけだ。
「先輩は『我が校内で——」
————パパぁ!
っう。背中から首にがっしり手を回されているとは恐れいった。
お前の好きなカエルの舌捌きもビックリの速さだろう。
「パパぁ、もうお片づけあきたぁ〜」
「分かった分かった。じゃあちょっと休憩な」
「やったーっ! じゃあパパ、またカエルさんごっこして!」
「またそれか」
訳がわからない親子カエルの真似をする大人とその子供。
カエルは子供の時は『おたまじゃくし』なんだよと画像も見せているのに、娘の叶佳は『子供のカエル役』を演じてばかりだ。
そんな娘の相手をしていると、ぬっと部屋に入ってくる男の子。そして、その後ろから付添う女性。
「ぱぱ、おなかへった」
「それはちゃんとお昼ご飯食べなかったからでしょ、怜」
実際そうだったのでムスッとして悔しがる息子。
そして、事実を我が子に告げる僕の妻。
「まあまあ。そうだ、今から4人で休憩にしよう。実は僕も腹減ってきちゃってさ」
「もう、そうやって直ぐ甘やかす。本当子供には甘いんだから」
「おやつだやったー!」
「やったー」
姉の喜びに続いて出る、弟の喜びたるやなんと覇気がないものか。
「ねえ、パパ。あの絵はなぁに?」
「うん? ああ、あれはね——」
台所の上の棚に置いてあるお菓子を取ってきて家族で食べる。その間に娘から問われた質問に答えようと思う。
キャンバスは埋まっている。窓から校庭を見下ろす女子生徒の姿を中心にして。淡い水彩画の中で彼女は美しく輝き、その光は今もなお私の横で、家族を支えてくれているのだった。
あの日描いた水彩画 タオル青二 @towel-seiji
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