1-3 宙



 1年前、宙を失って軍隊を抜けてから、宇美はずっと魂の抜けたような生活をしていた。缶詰工場での勤務があるから、朝起きることだけは出来たが、仕事の時以外はほぼ食うことと寝ることしかしていなかった。工場での休憩時間でも、誰とも何も会話を交わさなかった。元軍人ということもあり、距離を測りづらいためか誰も話しかけてくることはなかった。

 しかしそんな生活を一変させる出来事が起こった。死んでしまったと思っていた宙が帰ってきたのだ。

 それは、工場での仕事を終えて、ぐったりして帰ってきたある日のことだった。なぜか家の戸が開いていた。この場合、合鍵を持っているが、もういないはずの宙か、あるいは泥棒かの二択だった。そしてこれはほとんど一択といっても差し支えないものだった。

 家の中に泥棒がいるという恐怖を身体から押し出すように、宙は背負っていたリュックを前に押し出して盾にする。そのまま勢いよく戸を開けた。そこには宙が、部屋の真ん中で小さくうずくまっていた。


 宙のことは、寝ても覚めても想い続けていた。それはほとんど悪夢としてであったが。そんな宙が急に目の前に現れた。宇美の脳内では、多種多様な感情や思考がぐるぐると渦を描いて回っていた。そもそも情報を整理でできていないのだった。


 生きていてくれてよかった。そうだ。それが一番の感情ではないか。ではなぜこんなに戸惑っている?

 どうしてずっと帰ってこなかったのか? これは後で聞けばいい。今ではない。

 怪我はないのか? 大事な疑問だ。じっくり確認しよう。


「宙、生きていたのか。いや、本当によかった。てっきり、もう……」


「う……ぇ」


「どうした?」


「ぇあ?」


 様子がおかしかった。確かに宙が帰ってきたことは間違いなかったが、まともに会話が出来ているようには感じない。宙の口は、うめき声のような言葉ともいえない音しか発さない。目はうつろになり、宇美のことを見ているようで見ていなかった。黒々とした闇が目の奥に佇んでいた。

 宇宙人に襲われた時のトラウマで、言語能力を失ってしまったのかもしれない。ああ、私が上手く戦えなかったばっかりに。命が助かっただけでも、幸運に思わなければ……。

 宇美にとって、この状況はこれまで以上に残酷なものだった。自分の不手際で命を落としてしまったと思っていた友人は、実は命だけは助かっていた。しかし、取り返しの付かない後遺症を患ってしまっていた。


 宇美は混乱する頭と戦いながら、なんとかその現実を受け入れ、宙と共に生きていくことを決意した。 数日ほどの観察の結果、どうやら宙は言語能力だけではなく、思考能力自体が低下してしまっているらしいということが分かった。食べ物を口に持っていけば問題なく食べるし、自分でトイレなども行ける。本能的な行動や、既に身についている日常的な行動は問題なく行えるということが分かった。

 対して、会話をしたり、一緒に過去の写真を見て思い出に浸る、といったことは出来そうになかった。宇美にとって、それが一番辛いことだった。何か思い出してくれないかと思って、幼い頃の写真を見せることはあるが、宙は不思議そうに首をかしげるだけだった。

 これに何の意味があるの? 

 宙の目からは、そのような残酷な疑問が投げかけられているように思われた。


 病院に診せた方がいいという意見が、宇美の頭の大部分を占めるようになる。それと同時に、いや、このまま良くなるかもしれないしもう少し自分で面倒を見ていよう、という反論が現れ、まともな方の意見を端へ端へと追いやってしまう。

 1人分しか配給がもらえないのに、2人で暮らしているため、貯金は少しずつ減っていた。だから、病院に診せるような余裕は既になくなっていた。

 ありがたい副作用としては、宇美の働きぶりが劇的に改善されたということだろうか。缶詰工場で働き始めた頃は、何度もミスをして工場の設備を壊したり、宇美自身も危ない目にあったりしていた。工場長はそんな宇美のことを心配していた。しかし宙と暮らすようになって、生活のためというのもあるだろうが、1人で2人分の仕事をこなすまで成長したのだ。他の労働者からの信頼も得ていた。わずかだが、給料は増加した。

 宇美は軍にいたときから、宙と一緒に暮らす世界を守るために必死で闘っていた。そして今、宇美は宙と共に暮らす家を守るために働いているのだ。宇美にとっては、本来の生き方が帰ってきたとも考えられるのだ。

 宙が経済的にも身体的にも宇美に依存しているという事実こそが、反対に宇美を元気づけるという効果を発揮していたのだ。


 宙をかごの中の鳥のように閉じ込めて、誰の目にも触れないようにして、そんな行動が本当に正しいのだろうか?

 宙の幸せを思うなら、宙の病状が治るようにあちこち駆けずり回るのが正解なのではないのか?

 だが、もう少しだけこのままでいたい。宙に対してこれだけ献身的に尽くすのは、贖罪なのだ。彼女を守り切ることが出来なかったという、私の罪滅ぼしなのだ。


 宇美と宙の逆転した依存関係は、罪滅ぼしという名の美しい包み紙によって覆い隠され、それはカーボンの頑丈なヒモでくくられていた。

 それでも時々、宇美はこの包み紙の中身を意識せずにはいられなかった。他人に宙の話を持ち出されるのを嫌がるのも、家へ帰る時に気が重くなるのも、すべては包み紙の中から発される、見えない負の感情の磁場によるものなのだ。


 

 宇美はいつものように晩ご飯の支度をしていた。後ろの布団の中では、宙がごろごろと転がって遊んでいた。


「楽しいかー?」


「んーー!!」


 はじめこそ変わり果てた宙に困惑していたが、今ではすっかり扱い慣れてしまった。

 自分の心の急激な変わりように、宇美は若干の恐ろしさを感じた。

 最近、少し溜まったお金で新しいラジオを買った。前にもっていたものは古く、雑音だらけで全く情報を得ることが出来なかったため、思い切って新品を購入したのだ。外界とのつながりが欲しかったのかもしれない。

 ラジオは今日も戦績を垂れ流している。どこまでが本当でどこからが嘘なのか、もはや見当が付かないが、威勢のいい言葉を使っている時は気をつけた方がいいのだろう。

 周波数をいじって民放を受信する。今日の音楽やら、リスナーからのお便りやらが流れた。頭を使わずに聞けるため、料理の時間にはいつもこの局の放送を聞いていた。


 ふと、そこに速報が飛び込んでくる。哀愁漂うメロディの歌謡曲の中に、キャスターの声が割り込んでくる。



--人民護衛軍の技術部より、『宇宙人』に関する新たな情報が公開されました。技術部が『宇宙人』から採取した細胞を調査したところ、一部の細胞は

別の生物の細胞を模倣する能力を持っている可能性があるということです。


--これは『宇宙人』が何か別の生物を取り込んだ時、その取り込んだ生物を模倣する能力を持っている恐れがあるということです。


--2週間前、人民護衛軍の兵士が、戦闘地域で本来は地上にしかいないはずの渡り鳥の仲間の死骸を発見したことから、調査が始まりました。


--記者からは、人間にも模倣できるのかという質問が飛び、人民護衛軍技術部は否定は出来ないと回答しました。



 人間にも模倣できるのか?

 否定は、出来ない。

 今、このラジオは何と言った?


「あは、あははっ」


 突如、後ろにいた宙が笑い声を上げた。急に笑い出すこと自体はいつものことだったが、それが宇美の心の弱い部分を踏み抜いてしまった。


「うるさい! 何がおかしい!」


「んー?」


 宙は何のことか分からないという顔で、再び布団を纏って縮こまってしまった。まもなく寝息が聞こえ始めた。


 宇美は自分の手が震えていることを自覚した。何、別にただの一説じゃないか。軍部の発言は当てにならないのが多い。これが本当だという証拠はどこにある。渡り鳥だってどこかから迷い込んできただけだ。きっと間違いに違いない。そうだ、きっと間違いだ。


 その夜、宇美は宙から少し離れたところでうずくまっていた。一睡も出来なかった。




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