4

「これは……、ひどい」


 飛翼馬車で急いで駆けつけたポールは、黒く染まった湖を見て立ち尽くした。


「黒い水晶のときと同じ現象かもしれない。青水晶は持って来たか?」


「ええ。ここに」


 ポールはそう言って、水辺に近づくと、青水晶を黒く染まった湖に入れた。


「あ、色が……」


 湖の水が青水晶を中心に透明に戻っていくのを見て、エレノアはホッとしたが、喜びもつかの間、透明になっていた水が再び黒く濁って、息を呑む。


「だめか」


「そうですね。おそらく、この下に原因があるかと」


 結局、黒い水晶の発生についてははっきりとしていない。雪山で見つけた空間の亀裂が影響していると仮説は立てているが、普段利用している空間と空間をつなぐ亀裂の周りには同様の現象は起こっていないことから、原因がつかみ切れていないのだ。


 引き続きポールが調べているようだが、これと言って進展もない。


 雪の妖精たちが暮らすノーウィン山のあたりでは、あれ以来黒い水晶は見かけないので、仮設ばかりで進展しないのだ。もちろん、同じ現象が発生してもらっても困るので、何事もないのは歓迎すべきことなのだが。


「仕方がない。一度様子を見に行こう。ポール、悪いがここでエレノアと待っていてくれ」


「さーしゃさ……」


「だめだ」


 エレノアが言い終わる前にサーシャロッドが遮った。


「心配だからついて行きたいというのだろう? だめだ。何があるかわからないからな。いい子で待っていなさい」


 きっぱりと拒絶されて、エレノアはしゅんとうつむいた。


「待っていましょうね、エレノア様。旦那さんの帰りを待つのも奥さんの仕事ですからねー」


 ポールにも諭されて、エレノアはこくんと頷く。


 触られたカモミールの姫も、泉の妖精の女王たちも心配だが、いくらサーシャロッドが神とはいえ、一人で行かせるのが不安だった。もちろん、エレノアがついて行ったところで何の役にも立たないし、むしろ足手まといかもしれないが、心配なものは心配なのだ。


 サーシャロッドは少し不満そうなエレノアを見て苦笑すると、ぽんぽんと頭を撫でた。


「すぐ戻る」


「……はい」


 サーシャロッドは黒く染まった湖に近づくと、水面に手をかざすように近づける。その一瞬後、サーシャロッドの姿が目の前から消えて、エレノアは驚愕した。


「サーシャ様!」


「あー、こらこら。近づいたらダメですよ」


「でも、サーシャ様が」


 消えた――、と青い顔をしてポールを振り仰げば、彼は微苦笑を浮かべていた。


「湖の底まで移動しただけですよ。……もしかして、はじめて見ました? サーシャロッド様は神様ですからね、転移するのは朝飯前ですから大丈夫ですよ」


「て、てんい……?」


「簡単に言えば、行きたい場所に飛んで行っちゃうことですねー。便利ですよね。羨ましいんですけど、人間の僕には逆立ちしたって真似できない芸当です」


 エレノアはパチパチと目を瞬いた。そんなことができるなんて知らなかった。


「まあ、あの方は大っぴらに力を使うことは好きじゃありませんからね。普段も足や手を動かして生活されますし」


 つまりは、サーシャロッドがその気になれば、ただ座っているだけで何もかもできてしまうということらしい。


 サーシャロッドはエレノアと同じように足を使って歩くし、ナイフとフォークで食事をするし、行動や人と何ら変わらないからたまに忘れそうになるが、やはり神様なのだ。


(……わたし、もしかしなくても、すごい人の奥さん、なのかなぁ)


 改めてサーシャロッドの凄さを感じると、自分のような人間が妻を名乗っていて本当にいいのだろうかという気になる。


 ――俺はお前のように不細工でとろくて使えない女と結婚する気は毛頭ない。


 久しぶりに元婚約者であったクライヴに言われた言葉を思い出して、エレノアの胸がツキンと痛んだ。


(わたし……、本当にサーシャ様の隣にいていいのかな……)


 ちょっとでも不安に思うと、つい余計なことを考えてしまう。サーシャロッドのそばは心地いい。たくさん甘やかされて、好きだって言ってもらえて、抱きしめられるぬくもりに、どうしようもなく縋ってしまいたくなる。


 でも、エレノアは本当に取るに足らない――、普通以下の人間で。大切にしてもらえる資格があるのか、心配になる。


 エレノアはサーシャロッドが消えた湖を見つめた。


 エレノアはサーシャロッドが好きだ。それを自覚した今、自分からサーシャロッドのそばを離れるなんて考えられない。でも――、もし、いらないと言われたら?


 エレノアはズキズキと痛む胸の上をおさえる。


(使えないって思われないように、頑張らなきゃ……)


 少しでも長く、エレノアはサーシャロッドのそばにいたい。


 エレノアには、無償の愛なんて怖くて信じられない。誰からも与えられたことがないからだ。いらないと思われたら最後なのだ。いらないと言われないために、頑張らないといけない。


「そんな顔をしないで。サーシャロッド様は大丈夫ですよ」


 突然エレノアが黙り込んでしまったので、ポールはサーシャロッドのことを心配していると受け取ったらしい。


 立っているのも疲れるから、座って待とうかと言われたので、エレノアはポールと並んでカモミールの野原に腰を下ろした。


 サーシャロッドはついさっき湖の底へ向かったのに、早く戻って来てくれないかなと思ってしまう。


 離れていると不安だから。サーシャロッドのそばにいると、不安が消えるから。


(カモミールのお姫様も……、大丈夫かな)


 この湖の底で、何が起こっているのかわからない。


 エレノアはそっと湖を覗き込んだ。墨のように真っ黒い水面は、光さえも吸収するのか、何も映さないし何も見えない。


 水に触れる勇気はない。だが、覗き込んでいると、見えない水の奥にサーシャロッドが見えるような気がして、エレノアが視線をそらせないでいると――、突然、ばしゃんと大きな水音がした。


「しまった――」


 すぐ後ろにいたポールが慌てて腰を浮かしたが、それよりも早く。


 何者かに手首を掴まれたと感じた瞬間、悲鳴を上げる暇もなく、エレノアは湖の底へと引きずり込まれた。

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