5
エレノアを乗せたまま木馬が空の彼方へ駆けて行くのを見て、サーシャロッドは慌てて立ち上がってそのあとを追った。
猛スピードで飛んできた翁は、そのままサクランボの木に激突して目を回してしまった。
妖精たちがわらわらと翁の周りを取り囲む。
リーファは、サーシャロッドが追いかけたから大丈夫だろうと自分に言い聞かせて、祈るように空を見上げた。
一方そのころ――
エレノアは猛スピードで空をかけて行く木馬の首に必死でしがみついていたが、木馬はしばらく飛んでいくと急に山奥へと降りて、そしてエレノアを振り落とすと、そのままどこかへと駆けて行ってしまった。
全力で木馬にしがみついていたため、すっかり体力を消耗してしまったエレノアは、そのまましばらく動けずに、仰向けてその場に横になっていた。
木の枝と枝の間から見える空が青い。
ここはどこだろう。
木馬にしがみついていた時間はそれほど長くない気もするが、必死だったためによくわからない。
月の宮殿から出たことのないエレノアは、この月の宮――サーシャロッドの世界がどれほど広いのかも知らないし、どうやって月の宮殿に帰ればいいのかもわからなかったが、不思議と恐怖は覚えなかった。
人間界で、山奥に捨てられた時は心細くて、絶望して、生きることもあきらめたのに――、今回は不思議と、大丈夫だと思っている自分がいる。
それは漠然とした自身だったが、きっとサーシャロッドが助けてくれるのだと、エレノアは勝手にそう思った。
ようやく動けるようになると、エレノアは起き上がって、とりあえず目立ちそうなところに移動することにした。
きっとサーシャロッドが探しに来てくれるはずだから、目立つところにいた方がいい。
エレノアはどこか目立つ場所はないかと奥へ向かって進んでいく。
しばらく進むと開けた場所に行きついた。エレノアが五人ほど両手を広げてつないで輪を作ったほどに太い幹の大きな木が、中央に立っている。
その周りは背丈の短い草が生えていて、白い小さな花を咲かせていた。
ここならば目立つだろうと、エレノアは大木のそばに歩み寄ると、その場に腰を下ろす。
柔らかい風が吹いて、エレノアの赤みがかった金髪がさらさらと風に流れた。
木の幹に背を預けて、ぼんやりとしていると、前にもこんなことがあったなと思い出す。
――それは、エレノアがまだ人間界で暮らしていた時のことだ。
エレノアが、十六のときだった。
公爵家のカントリーハウスから少し離れたところに小高い丘があり、そこに一本の木が生えていた。
エレノアは、公爵家の中にいるときは自分の部屋の中でじっとしていることが多かった。家族に見つかれば、意地悪なことをされるから、できるだけ見つからないようにと部屋に閉じこもった。
だがその日は、近隣に住む伯爵にお茶会に誘われていて、父も義母と妹も伯爵家に向かったために留守だったのだ。
外はいい天気で、ずっと部屋に閉じこもっていたエレノアは、少しだけでも外に出たかった。家族が戻るまでに家に帰っていれば問題ないはずだ。
少しの間だけ空をながめて、そして帰ろう。
エレノアはお昼ごはんにと渡されていた一つの硬いパンを包むと、丘に向かって、木の幹に背中を預けてぼーっと空を見上げた。
真っ白い雲が、青い空の中をゆっくりと泳いでいる。
エレノアはパンの包みを開くと、硬いパンをちぎって口に入れた。
水分がなくなってぱさぱさしているので、口の中の唾液が吸収されて、なかなか飲み込みにくいから、しっかり噛まないといけない。
(お水、持ってくればよかったなぁ)
うっかりしていた。でも、忘れてしまったものは仕方がない。
エレノアが少しずつパンを口に運んでいたときだった。
突然、一羽の白い鳥が飛んできて、エレノアのすぐ横に降り立った。
鳥は小さく首を傾げながら、エレノアを見上げていた。まるで、エレノアが自分に危害を加える鳥かどうか観察しているようでもあった。
「おなかすいたの?」
エレノアが話しかけると、鳥はぴょんとエレノアの膝の上に飛び乗った。まるで「うん」と言っているようで、エレノアはパンをちぎって手のひらに乗せると、そっと鳥のくちばしの近くに持っていく。
鳥はエレノアの手のひらのパンをじっと見つめたあと、小さなくちばしの先でつつきはじめた。
パンをつついて小さく砕いては飲み込んでいく鳥の仕草に、エレノアはすっかり癒されて、しばらくじーっと観察していると、「エレノア!」という叫び声が聞こえてきてぎくりとする。
父の声だ。怒っている。
(もう帰ってきちゃったの? ……どうしよう)
父はエレノアが外に出るのを極端に嫌う。
エレノアが顔をあげれば、案の定、赤い顔をして怒った父が丘を登ってきているところだった。
エレノアが慌てて立ち上がると、鳥も飛び上がり、そしてエレノアの肩にとまった。
持っていたパンが草の上に転がり落ちる。
「そのみすぼらしい格好で外に出るなと言っただろう!」
そんなことを言っても、城に出かけるときにだけ与えられるドレスは、城から戻ればすぐに取り上げられてしまうのだから、エレノアにはつぎはぎだらけのメイドのお古しか服がない。だが、言い訳すると父が更に怒るのはわかっていたので、ただ頭を下げてすみませんというしかなかった。
しかし父の怒りは、どうやら謝っただけではおさまらなかったらしい。
つかつかとエレノアのそばにやってくると、彼女の頬を思いっきりはたいた。
頬を叩かれてよろけたエレノアがその場に倒れると、今度はその肩が踏みつけられる。
父は、傷が残るような暴力は振るわない。クライヴ王子に嫁ぐことになっている娘に目立つ傷を残せば、公爵家の落ち度とされるからだ。
だがしかし、傷が残らなければ何をしてもいいと思っているようで、エレノアが殴られたりすることは珍しくなかった。
だから――、慣れているから、耐えられる。
痛みに顔をしかめながらエレノアが父からの暴力に耐えていると、突然、父が「わあ!」と声をあげた。
肩から足がどけられ、驚いて顔をあげると、先ほどの白い鳥が父の目のあたりを何度もつついているところだった。
「ええい、この―――!」
父が腕を振り上げて、鳥を地面にはたき落とす。
「や、やめて―――」
エレノアはハッとして、地面にたたきつけられた鳥を拾い上げると、かばうように腕の中に抱きしめた。このまま、父に鳥が殺されるかもしれないと思ったからだ。
「やめてだと? 親に口答えをするんじゃない!」
鳥を抱きしめたままのエレノアを父が容赦なく蹴飛ばしたが、エレノアは鳥を抱えたまま丸くなって、どうあっても鳥を父から守らなければと必死だった。
エレノアが体を丸めたまま地面に倒れて動かなくなると、父は満足したようで、「さっさと帰って来い」と言い残して丘を下りて行く。
父の足音が聞こえなくなると、エレノアは横になったまま、そっと腕を広げた。
パタパタと鳥が飛び出してきたところを見ると、幸いなことに怪我はしていないようだ。
鳥はいったん飛び立ち、そしてすぐにエレノアのそばに戻って来ると、心配そうにその頬に顔をすり寄せる。
「大丈夫、だった……?」
エレノアが話しかけると、鳥は返事をするようにピィと鳴く。
エレノアはホッとして、そっと手を伸ばすと、鳥の頬をそっとかいた。
気持ちよさそうに羽を膨らませる鳥を見て、「よかった」とつぶやく。
怪我をしなくてよかった。父に殺されなくてよかった。どうしてこの鳥が、まるでエレノアをかばうように父の目をつついたのかはわからないが、エレノアがこの丘にいなければこの子がこんな目に遭うこともなかった。エレノアのせいで怪我をしたり、死んでしまわなくて、本当によかった。
エレノアは殴られたり蹴られたりして痛む全身をかばいながら、ゆっくりと起き上がる。
「鳥さん、元気でね?」
エレノアはまるで心配するように見つめている鳥に小さく手を振ると、丘を下りた。
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