第2話 因循と変革 中編

 殺す――


 犬塚さんに言われたその言葉がよほど堪えたのか、あの日以来、西園寺さんは何かに付けて犬塚さんに絡むようになって、その度に私がそれを止めるという一連の流れが出来上がっていた。


 ある意味においてそれは平和な日常とも言えた。


 そんな日常を破壊するような出来事が起きたのはその年の10月のことだった――


 …………


 突然訪れたクラスメイトの死。


 病気や事故で亡くなったわけではなく“殺人事件”だった。


 事の経緯は不明。先生方もこれについては多くを語ろうとはしなかった。


 私が耳にした噂話によると、クラスメイトの天地あまちくんが3年生とケンカして殺されたそうなのだ。自称目撃者によれば殺したのはケンカの相手ではなく別の人物だったとか。


 ほかにも窓を突き破って現れた暴漢に殺されたとか銃声がしたとかいろんな噂が飛び交って何が本当で何が嘘なのかわからなくなっていた。


 ただ、どんな噂であっても天地くんと3年生がケンカしたと言う話は共通していた。温厚でいつも冷静な天地くんがケンカをしたというのがとてもじゃないけど信じられなかった。


 そしてこの事件は思わぬ方向に飛び火した。


 天地くんの家はいろいろな会社に手広く投資をしている投資家だ。そしてその投資によって莫大な富を得た資産家でもある。しかしながら、今回起きた事件によって、次々と投資から手を引き始めたのだ。


 理由は完全なる私怨。万葉学園の学生が天地くんを殺害したという噂を鵜呑みにしてしまった天地家は、自分の息子を殺したかも知れない人間がいる家に投資はできないと怒り、万葉学園に通う学生たちの親の会社に対する投資から手を引いたのだ。


 もちろん各家の人たちは自分の子は犯人ではないと天地家に講義した。それでも天地家は聞き入れなかった。すると今度は投資を切られた家の人間が学園側がしっかりと釈明しないからこうなったのだと矛先を学園に向け始めた。しかしそれでも学園側はだんまり。


 完全な泥沼と化していた。


 結局投資が打ち切られ、それによって倒産寸前までに追い込まれた企業も出てくることになった。親の家柄で自分の属するヒエラルキーが決まるこの学園では、親の会社が没落することは自分の立場を没落させることに直結する。


 私のお父さんの会社は大丈夫だった。だけど……


「なんですの? 惨めな立場になったワタクシを笑っているんですの?」


「そんなわけじゃ……」


 西園寺さんに視線を向けていた私と彼女の目が合ってしまった。


 そう……今回の騒動でもっとも大きなダメージを受けたのは西園寺さんだった。


 いつも一緒にいた取り巻き3人の姿はもうない。金の切れ目が縁の切れ目とはまさにこのことだった。


 …………


 天地くんの死は悪い意味でクラスに変革をもたらした。


 西園寺さんが犬塚さんをからかうことはなくなったけど、代わりに彼女の元と取り巻きだった3人がそのポジションについた。


 その3人は西園寺さんと違って理不尽な仕打ちを好んだ。彼女たちも、天地くんの家の件で少なからずダメージを受けており、その鬱憤を犬塚さんで晴らしているのは丸わかりだった。


 私も3人を相手にするのは多勢に無勢でほとほと手を焼かされた。


 そして、わたしの恐れていたことが起きた。


 ある日の放課後。私が先生に呼ばれて教室を空けていたときそれは起こった……


 思わず教室の前で足を止めてしまった。教室内がいつも以上に騒がしかったからだ。学校の性質上教室で騒ぎを起こすことは禁止されているし、そもそも生徒たちは育ちがいい人間ばかりなので騒ぎが起こることは皆無。


 ただ、今のクラスはその限りではない。理由は犬塚さんがいるから。またも彼女がトラブルに見舞われているのだということは容易に察することができた。


 犬塚さんをからかっていたのは、やっぱりあの3人だった。彼女たちは犬塚さんを囲むように距離をとって何かをパスし合っていた。教室を飛び交うのは飴色のガラス瓶。それが犬塚さんがいつも飲んでいる薬だとすぐにわかった。


「かーえーしーてー」


 犬塚さんが瓶を持った子に近づくとその子は別の子に瓶をパスする。すると犬塚さんはそっちの方へ行く。だけどその子もまた別の子にパス……


 こんな感じで犬塚さんは完全に翻弄されていた。


 運動神経がいいはずの犬塚さんでも机の並ぶ教室内ではその真価をうまく発揮できないようだった。


 放課後の教室には彼女たち以外にもクラスメイトはいる。だけどみんな我関せずだった。


 ひとりくらい止めに入る人がいてもいいのにと思わなくもない。だけどみんなの事情もわかる。余計なことに首を突っ込んでいらぬトラブルに巻き込まれたくないのだろう。


 私は内心ため息をついて、「何やってるんですか!」とキツめの声を発した。


 しかし、それがよくなかった。


 私の言葉に驚いた3人の内のひとりが、飴色の瓶をキャッチし損ねた。瓶は床に落ちてガラスの割れる音を響かせながら中身の錠剤を盛大にばらまいた。


「あ……」


 取りこぼした生徒はその場で固まった。


「あ~! われた~!!」


 犬塚さんは地面に座り込んで床に散らばった薬を集めようとする。


 私も手伝わなきゃと思って薬を拾おうとして、その手を止めた。


 犬塚さんは明らかにおかしな行動に出た。床に散らばった錠剤を拾っては口へ拾っては口へ放り込んでいった。一心不乱にラムネ菓子を食べるみたいに次から次へと錠剤を飲み込んでいく。


 教室にいる生徒は誰もが動けなくなっていた。


 シンと静まり返った教室で「うげぇ……きもっ……」と呟く男子生徒の声が耳に届く。


 私は彼の言葉を否定できなかった――


 なぜなら、私もまた彼と同じことを考えていたから……


 床に散らばった薬を半分くらい飲み込んだところで犬塚さんは急に顔色が変わってその場にパタリと倒れ込んだ。


 しばしの沈黙。遠巻きに見つめているだけのみんなはいまだ動けず。何が起きたのかもよく理解できていなかった。


「まさか死んだ?」


「これヤバくない?」


 誰かの言葉を皮切りにクラス中がざわつき出す。ようやく思考が追いついた私は急いで犬塚さんに駆け寄り、耳元で名前を呼びながら体を揺すった。


 返事はない。まるで死んだように白目を剥いて動かない犬塚さん。


 ――どうしよう! どうすればいいの!?


「ワタクシ先生を呼んできますわ……」


「え?」


 私に声をかけてくれたのは以外にも西園寺さんだった。


 だけど、その声は以前のような覇気が感じられず、抑揚のないボソリとしたものだった。


「う、うん。ありがとう」


 私の元を去っていく彼女に向かって言った。


 西園寺さんに慌てた様子はなく、トボトボと不安な足取りで教室を出ていった。


 正直な話を言えば急いでほしかったけど、最近の彼女の心情を考えれば無理からぬ事ではあった。


 その後、担任の先生がやってきて犬塚さんは保健室へと運ばれた。


 …………


 保険の先生の話では命に別状はないとのことだった。


 万葉学園の保険の先生は、他校で言うところの養護教諭と意味合いが異なり、ちゃんと医師免許を取得している専門の先生だ。その先生が言うんだからひとまず安心だ。その上で事の経緯が経緯だけに、家族に知らせることになった。


 担任の先生はご家族の方が来たら対応お願いねと私に託し去っていく。


 そんなことまで私がやるの? ――と言いたくなったけどグッと言葉を飲み込んだ。


 お世話係は私だ。私にも責任はある。


 教室に戻ると、綺麗サッパリもぬけの殻になっていた。先生が全員を帰したのか、あるいは関わり合いになりたくなくてみんな帰ったのか……どちらにせよ、みんな薄情すぎだと思った。


 犬塚さんの家族が来るまで私は散らばったままになっていた薬をかき集め、割れたガラス瓶を処分した。


 そんなことをしていると、教室の扉が開く音が聞こえて、そちらに顔を向けた。


「ひぇ――!」


 私の目に飛び込んできたのはこの学園にはとてもじゃないけど似つかわしくない人だった。


 教室に現れたのは、茶色に染めた逆立てた髪に黄色のレンズのメガネ(サングラス?)をつけた男の人だった。革のジャンパーのポケットに手を突っ込んだまま睨むような視線をこちらに向ける。


「んで? 来いって言われたから来たんだけど?」


 蛇に睨まれた蛙のごとく足が震え、声も出せなかった。


 単純に怖かった。見た目は完全に不良。ほんとに漫画でしか見たことないような不良そのもの。


 万葉学園に通う生徒はその生い立ちを考えれば、まずもって不良と呼ばれるような人と関わることはない。でも、目の前にそれが現れた。しかもその人が犬塚さんお兄さんだというのだから驚きだ。


 いっぱい文句を言われるかも知れない――


 最悪の場合暴力を振るわれるかもしれない――


 そう思ったら動けなくなった。


「おーい? 聞いてるかー?」


 私の目の前までやって来るお兄さん。


 そりゃそうだ。だって教室には私しかいないんだから。


「へあっと! あの、その……」


 頭が真っ白になって何を言えばいいかわからなくなる。


「あ、ああ、あのあのあの――」


「おい落ち着けって。なんでそんな緊張したみたいになってんの?」


 ――する! 緊張するよ! だって怖いんだもん!


 あわや泣き出しそうになったとき助け舟が入った。


「あら? もしかして犬塚さんのご家族ですか?」


 教室に入ってきた来たのは担任の先生。仕事を任されていた立場も忘れてほっと胸をなでおろす。


「おう。そうだけど」


「保健室に案内しますね。ついてきてください」


 先生はやっぱり大人だ。お兄さんの見た目に臆することなく普通に会話を成立させている。


「りょーかい。――あ、あと、ねねちゃんって子に会いたいんだけど」


「ひ――っ!?」


 自分の名前を呼ばれ思わず体が跳ね上がった。


「え? なんなん? もしかして君がねねちゃん?」


 私はメガネが飛ぶんじゃないかって勢いで高速で首を縦に振っていた。


「へー。いつも真理絵が話してるからどんな子か知りたかったんだけど」


 そう言って。値踏みするお兄さん。


「よく見るとカワイイじゃん」


「ひゃい!?」


 カ、カワイイ……!?


 私の顔の熱が一気に高くなった。 


 …………


 私、先生、お兄さんの3人で保健室に向かう。


 当然ながらお兄さんの存在は周囲の注目の的となった。


 道すがらお兄さんに事の経緯を説明する私。先程よりもましになったとはいえ拭えない恐怖を感じながらたどたどしく説明する。


 お兄さんは黙って私の説明を聞いていた。その話が終わる頃には保健室に到着した。


「ああ!! お兄ちゃんだ~!!」


 ベッドに座っている犬塚さんが無邪気な笑顔で迎えてくれた。どうやら保険室には彼女だけしかいないようだった。


「なんだ? 大丈夫そうじゃねぇか」


「私はこれで。後はよろしくね猪口さん」


 先生は「失礼します」とお兄さんに向かって軽く頭を下げて去っていった。


 さすが先生。私もいつかあんな女性になれるだろうか……


 でもやっぱり、心細い私としては先生に傍にいてほしかった。


 そう思ってしまう私はまだまだリッパな大人には程遠いのだろう。


「お前、薬大量に摂取したんだってな」


 お兄さんがベッドの犬塚さんに話しかけた。


「う、うん」


 いつも笑顔の犬塚さんにしては珍しくシュンとした声でうなずく。


「1日1錠って教えただろ?」


「でもぉ、床にバーってなったからぜんぶ捨てられちゃうとおもって~。そしたら食べたほうがいいとおもったの。ジュミョーがのびるでしょ?」


「あほ。大量摂取したら逆に命に関わるんだよ。教えただろうが」


「うぅん? 聞いたような~聞いてないような~」


「はぁ……」


 お兄さんは盛大に肩を落とした。


 なんだかちょっと聞いてはいけないような話を耳にした気がした。


 ――ジュミョー? 命に関わる? それってつまりそういうことで間違いないんだろうけど……


 とても気になったけど、それを聞く勇気はなかった。


 代わりと言ってはなんだけど、私は2人に伝えなければいけないことがあった。


「あ、あの……」


「うん? どうした?」


 返事をしたのはお兄さん。できれば犬塚さんと会話をしたかったけどここで無視はダメだ。


「え、えと……これを……」


 普通の受け答えができずに、しどろもどろで私は透明な袋に入った錠剤を彼に差し出した。私が拾い集めておいた薬だ。


「一応、目についたものだけ拾っておきました。汚いから薬としてはもうダメかもしれないですけど……」


「ほ~ん。すげぇ気が利くんだな。――汚れに関しては再精製すりゃ問題ないから気にしなくていいよ」


 私から袋を受け取るお兄さんの手が私の手に触れる。


「ひゃっ……」


「あん? なんだ?」


「ひ、ひぇ、なんでも」


 あまりのことに声が裏返っていた。


「あはは。ねねちゃんおもしろ~い。タコさんみたいだよ~」


「あぅ……」


 犬塚さんの言うとおりだ。顔の熱が上がっているが自分でもわかる。


「ああ。あれか。ねねちゃんて男に免疫ない系?」


「いえ……そんなことは……」


 クラスの男子とは普通にい話せるから男の人が苦手とかそういうことではない。


 だけど、お兄さんくらいの歳の男性との交流経験はほとんどないし。それを抜きにしても、いわゆる不良の類の人との会話なんて経験がない。そのことが変な緊張を生んでいた。


 しかも、男の人にねねちゃんと呼ばれるのがどうにもむず痒い。


 耳の後ろがゾワゾワして……内臓がくすぐられるような……そんな感覚。


「ほんじゃ、このまま真理絵連れて帰るわ」


「あ、それじゃあ私犬塚さんの荷物取ってきますね」


 私は恥ずかしさから逃げるように保健室を出た。


 …………


 犬塚さんの件に関しては、先生からきついお灸をすえられたようで、犬塚さんをからかっていた3人はそれ以降彼女に絡んでくることはなくなった。


 というよりもクラスメイトのほとんどが犬塚さんから距離を置くようになっていた。


 理由は、彼女のお兄さんだ。校内をうろついていた彼の姿を目撃した生徒も多く。そこから一気に噂が広まった。今では学年のほとんどの生徒がその話を知っていて、そこに尾ひれがついて、いつの間にやら犬塚さんは危険人物扱いになっていた。


 結果的にではあるけど、それはある意味でよかったと言える。


 ここ最近はトラブル続きだったけれど、ようやく平穏な学園生活を取り戻しつつあった。

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