幕末の国産洋式銃砲
確門潜竜
第1話 幕末の大砲の現在のネタ本
岩波新書の名著「火縄銃から黒船まで」で幕末の洋式銃砲の生産について、次の主旨でのべれています。
「この時期の銃砲の技術的進歩は速かったが、銃に比べると大砲の方が緩やかで、日本では佐賀藩が鉄製大砲約200門を製造するなど、ある程度追随できたが、やはり性能は劣っていた。銃になると全く追随できず全量輸入に依存した。」
となっています。
佐賀藩の大砲が鉄製だけではなく、青銅砲もかなり含まれていること、青銅砲は在来技術で作られたものも多いと思われるなど、多少の変更がありますが、基本的にはこの解釈が今日でも受け継がれています。
ところで、その佐賀藩の大砲とはどういうものだったのでしょうか?例えば、150ポンド青銅砲を幕府に献上していますが、どういう大砲だったのでしょうか?
まさか火縄式ではないでしょうが、火打ち式でもありえないでしょう。何故なら、反射炉を作った(実は最初の反射炉は構造的にも問題があり、上手く稼働せず、新たに作り直した2代目で順調に稼働するようになったようですが)、西洋技術を取り入れていると喧伝し、幕府からの資金援助も受けている。その中で、
「なんだ大口叩いて、こんな程度か。」
と言われるものは出せないはずです。藩の面目もかかっていますし、知識だけなら雷管式もライフル砲もかなりの人が持っていますから、騙せないでしょう。少なくとも、雷管式でなければならないでしょう。滑空砲だと、
「な~んだ。」
と、面目を失う可能性も皆無ではありません。ただ、一つ言えることは、前装式で、後装式ではないと言うことでしょう。
因みに、後装式のアームストロング砲は模造品を製作したとの記録はありますが、上野戦争の際に威力を発揮したアームストロング砲は、これではなく、輸入品と言うのが、主流です。
現在までに、展示用のレプリカはいくつか作られても、どういう大砲か、厳密に検証していません。
反射炉を作り、かなりの大砲の生産に成功したのは、あと薩摩藩と鳥取藩ですが、薩摩藩の大砲について少し考証があるだけです。それも、随分前で、砂鉄を原料にして成功したとしているので(現在では、鉄鉱石からの鉄を原料にしたと考えられています)、かなり不十分なものであると考えていいでしょう。鳥取藩となると、
「砂鉄で作られた古釘を原料にしていたと言われているが、小型の野砲であったから問題なかったのだろう。」
とかなり適当に結論づけられています。
どうして、西洋式大砲を製造した、で終えてしまうのでしょうか?もう少し、掘り下げて検証してくれないのでしょうか?
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