君が為、しまもよう

たまき瑠璃

第1話

――前略

段々と日照りが増してきましたね。清二郎さん、お元気でいらっしゃいますか? 私は変わらない日々を過ごしております――

生地一反を竿に幾重にも巻き付けながら、麻川鈴子は手紙の返事を考えていた。元々文章を書くことに慣れていない上に、先方とは違い本当に毎日同じ事の繰り返しなのだから一年もやり取りをしていれば、書くことが段々と無くなっていってしまう。

鈴子は手紙の事は後回しにして、今は生地との対話に集中することにした。ムラのないようにユックリと水に晒すと、神田川の流れに合わせて布が緩やかに棚引いている。

生地から余分な染料を落とし、自然の力を借りて仕上げていく。

半夏生のこの時期、梅雨が明けたとはいえ未だじめじめと蒸し暑く、火照る体に水が冷たくて気持ちいい。同じ染料でも、天候や気温で色合いが変わってしまう。細やかな微調整がいる反面、水の抵抗は重く重労働でもある。鈴子はフゥと一息吐き出して、額の汗を腕で拭った。

毎朝の事ながら骨が折れる作業だ。水面に揺蕩う縞模様を見て、鈴子は去年の夏を思い出していた。

彼は約束を守ってくれたのだ。

でももう手の届かないところに行ってしまったんだな。布を引き上げると手早く蛇腹に折り曲げリヤカーに積見上げ、作業場に戻ろうとすると、懐かしい声が鈴子を呼び止めた。

「鈴子さん」

低くて通るその優しい響きが胸の辺りにジンワリと熱く広がっていく。鈴子は嬉しさの余りに駆け寄った。

「清二郎さん……!」


慌てて部屋に帰り、次女の芳美からもらった白粉を軽く頬に叩き、紅を小指で少しばかり掬い、唇にポンポンと薄く伸ばしていく。変じゃないかなと心配になって鏡を見つめると、肩越しに姉妹が写り込んでくる。

「姉さんいつも仕事ばっかりしてるからたまには息抜きしなよ」

末妹の巴がサッサと行けとばかりに背中を押す。

「あたし達がやっといてあげるから!」

五女の里が、腕まくりをしながらアピールしている。午後は休みを貰えないかと父親に相談すると、少し渋られた様子を姉妹が見ており、先程からこの調子だ。大袈裟な反応をされ鈴子は困って長女の徳子に目線をやる。

「お父さん達には私から言っておくから。ゆっくりしてきなさい」

そう言いながら手を振った。姉さんまで。みんな大袈裟だなと鈴子は思いながらも、あまり彼を待たせるのもよくないと、姿見の前で麻のワンピースを確認して、おかっぱの髪を櫛で梳き整えて家を後にする。

縁側に座って枇杷を食べていた四女の翠と目が合い、軽く手を振るが、長い睫毛を二回パチパチと上げ下げして、プイと後ろを向いてしまった。パーマをかけたふわふわの巻き毛が靡く後ろ姿を見つめ寂しさを覚えたが、鈴子は気を取り直して歩き出した。

父が清二郎の存在に勘付いていることに、鈴子はうっすら気付いていた。こんな狭い街では噂は一晩で知れ渡る。父に何か言われたわけではないが、六姉妹で跡取りがいないこの店を継ぐのは私だと、鈴子は考えていた。長女と次女は嫁いで家を出ている。染物を父から教わった鈴子にとって、父は親子であり、師匠でもある。この家を出て行くわけにはいかない。


「お待たせしました」

さっきの川岸の木陰で待ってくれていた清二郎に声を掛けた。清二郎は控え目にめかしこんできた鈴子を見て可愛いと言い微笑んだ。言われ慣れてない鈴子の頬が赤く染まる。

「暑かったでしょう? ごめんなさい」

「いや、そうでもなかったよ。川の水が冷たくて気持ちいいね」

そう言って、清二郎は手を水の中で遊ばせた。

「君はいつもここで作業してるんだね」

どこか嬉しそうに清二朗が景色を眺めた。

「鈴子さんは甘い物好きかい?」

「ええ」と答えると、続けざまに冷たいものは? と聞かれ好きですと頷いた。

「じゃあ、行こうか」

そう言って清二郎は立ち上がり、歩き出した。少し控え目に後ろから付いて行こうとすると、鈴子が自分の隣に来るまで立ち止まり、歩調を合わせてゆっくりと二人で歩いた。


バス停に着くと、丁度バスがやってきて、二人でラッキーだねと笑い合いながら乗り込んだ。平日の真昼のバスはガラリと空いており、他に乗客は三人ばかりしかいなかった。鈴子は清二郎に促され、最後部席の窓側に座った。

清二郎と会えなかった一年間、今まで通りの日々を過ごしていたが、彼のポスターや、噂を見聞きする度に気が気ではなかった。特に週刊誌での恋愛報道などを見た時には胸が張り裂けそうだった。それでも送られてくる手紙の文を鈴子は信じていた。

「記者はなんでもスクープにしたがるから困るよ。でも君とならウワサになってもいいな」

そう言って無邪気に微笑む清二郎を見ていると、そこに嘘偽りはないんだろう、そう思えた。

「思っても無いこと言っちゃダメですよ」

「本気さ。今の鈴子さんはとても綺麗だから撮られるなら今だね」

「お上手ですね」

頬が火照るのを感じながら、鈴子は小さく声を絞り出した。

「清二郎さんはこの一年間でますます、ご活躍されましたね。うちの妹も良く清二郎さんの話をしています」

「そうだね、やっと新條ではなく清二郎と呼んでもらえるようになったよ」

親が業界人ということもあり、『新條』という肩書きでしか見てもらえず、その頃は諦念に打ちひしがれていた事を清二郎はのちに鈴子に話していた。

「今じゃすっかり人気者です。ほら見てください。あそこにも、ポスターが」

そう言ってバスの中に貼られている広告を指差した鈴子の手を、清二郎の大きな手が包んだ。

「君は変わらないな」

驚きと緊張で、言葉が出ない鈴子の指を清二郎は嬉しそうに見つめた。毎日水と染料に浸かっている鈴子の手は、いくら気を使ってはいても、お世辞にも綺麗な手とは言えなかった。念入りに洗ってはきているが爪の甘皮が藍色に染まってしまっている。鈴子はそんな自分の手を見られる事を恥ずかしく思い、サッと手を引っ込めた。

ごめんね、と小さく言い清二郎は前を向きなおし話し出した。

「一年前、僕は君から大切な事を教わったんだ」

何かを教えたつもりは無いけど、と清二郎の横顔を見つめながら鈴子は小首を傾げる。


一年前、染物ばかりの日々で流行に疎い鈴子は、清二郎も新條も知らなかった。撮影の為偶然訪れた清二郎が、細身の体で力仕事を黙々としている鈴子に気紛れに声を掛けたのが始まりだった。

「家業とはいえ、毎日これじゃ大変だね」

そう言った清二郎に対して鈴子は頷き、

「でも好きだから、それも楽しんでしまうんですよね」と返した。

満足そうに布を広げ、見つめる鈴子の姿に清二郎は自分は『俳優』というものを楽しんでいただろうか、どれだけ向き合えていたのかと省みた。それと同時に、強く惹かれていった。なんて真っ直ぐな人なんだろう、もっと話しをしたい。

そうやって清二郎の方から鈴子に積極的に話しかけ、人見知りの鈴子も少しずつ清二郎に惹かれ、心を許していった。

清二郎が俳優だと告げた後も、鈴子は『新條』としてではなく、一俳優の清二郎として接した。その日々の中で自分がやっと、自分になれたように清二郎は感じていた。


バスで三十分ほど揺られ久し振りに訪れた銀座はいつもと変わらず人が多かった。人混みが苦手な鈴子は、普段はあまり出歩かないのだが、清二郎と並んで歩くと景色がキラキラして見える。

装飾が施された小洒落た扉を清二郎がサッと引く。ドアベルがカラコロと響き、鈴子は促される形で店内に入った。来客に気づくやウェイトレスは、清二郎と目配せし手早く二人を奥の席へと案内する。

注文して程なく、ホットコーヒーとアイスクリームがテーブルに並んだ。鈴子の前に置かれたアイスクリームは、上にウエハースが添えてある。一口食べると、口の中を冷やしながらアイスが溶けていき甘さが全身に伝わっていく。鈴子は思わず頬に手を当て、ふぅとため息をついた。

そんな鈴子を目を細めて見詰めながら、清二郎は洗練された動きでホットコーヒーを飲んでいる。

「暑いのにホットコーヒーなんですか?」

鈴子の質問に、清二郎はコトリとコーヒーカップを置きワザとらしく頬杖をつきながら答える。

「アイスコーヒーだとストローだからかっこよく決まらないだろう」

「なんですかそれ」

鈴子がクスクスと笑うと、清二郎も自分で笑っていた。

「ねぇ、あれ清二郎じゃない?」

「えー、本物?」

ふと視線を感じた鈴子が周囲を見回すと、少し離れた場所から三人連れの同い年くらいの女がこちらを伺っている。

ロマネスクモードと言うのだろうか、それぞれ、薄い水色やピンクなどのワンピースを着ており、細いピンヒールを履いて、今時の都会の若者という感じで鈴子は気後れした。

淡い紫色のギンガムチェックの女が、パニエで膨らましたスカートをフワフワと揺らしながら近づいてくる。

「あの、新條清二郎さんですよね。私、ファンで、握手してもらえますか……?」

ハッキリとした化粧が、元々の可愛らしい顔立ちを引き立てている。チークでピンクにしている頬が更に染まるのを鈴子はただ眺めていた。

「勿論。但し、ここで会ったことは内緒にしてくださいね」パチリと音がしそうな程完璧なウィンクを決めて清二郎は控えめに差し出された右手をそっと両手で包んだ。

「ありがとうございます!」

頬を高揚させ去っていく女性を見送りながら、本当に凄い人気なんだなと鈴子は改めて思った。

そろそろ行こうかと、清二郎が立ち上がり、その後ろ姿に何故か自分を置いていくのではと感じた鈴子は、咄嗟に清二郎の服の裾をチョンと掴んだ。しかし、そうやって縋る姿はなんだか小さな子供のような気がしてみっともなく感じパッと離した。

清二郎はというと引っ張られた感覚に振り返ったかと思うと、鈴子の肩をサッと抱いてそのまま店を出た。オーデコロンの匂いが鈴子の鼻腔をくすぐった。


店を出た二人は昭和通りを築地の方面へと歩き、途中のデパートにふらりと立ち寄った。エレベーターガールの誘導に従い乗り込む。人が多すぎるためか、清二郎に気づく人は幸いいないようだ。帽子をやや目深に被りなおし、悪戯っぽく笑みを浮かべる清二郎とは裏腹に、鈴子は慣れない場所に少し緊張していた。

偶々立ち寄った化粧品コーナーで清二郎がこういうのはどうですか? と鈴子にハンドクリームを手渡す。ふんわりと漂う桃の香りに鈴子が顔を綻ばせた様子を見て店員に、これを一つと清二郎は言った。悪いですよと遠慮したが、押し切られる形で手渡された紙袋を鈴子は大事に抱えた。


東京メトロに揺られ、銀座四丁目から日比谷線を使い神谷町で降りると目の前に東京タワーが見えた。もう建って一年経つと言うのに、鈴子は初めて完成した東京タワーを近くで見たと言ったら、清二郎は笑った。

「少し登ってみる?」


鈴子はエレベーターを降りて少し後悔した

今までの人生で高いところといえば、せいぜい五階建ての建物くらいだったのに、地上二百五十メートルの東京タワーの特別展望台まで一気にきてしまい、少し足が震えた。

「私、こんな高いところ初めてで……」

最初は怖くて恐る恐るだった鈴子も、清二郎に招かれるまま展望台から景色を見下ろすと、その光景に目が釘付けになった。

さっきまでいた銀座、いつも作業してる神田川が遠くに見え、沈みかかった夕日に照らされ、東京の街が金色に光って見えた。

「すごい……! 私こんなの初めて見ました」

ひっそりと太陽が姿を隠し、薄い青色を何度も重ねる様に空の色が徐々に変わっていく。それは注意深く見ていないと気付かないくらいに淡く、残光で照らされた街の影が無くなっていく。こうして日常を見下ろしてみると、当たり前にこなしている中で段々と薄れた自分の輪郭のようなものがハッキリと見えた気がした。

「清二郎さんはこれからどうなっていきたいんですか?」

鈴子が尋ねると、清二郎はそうだなーと言って手摺に体を預けた。

「もっと広い世界で経験を積みたいな。僕にしか表現できないものをみせたいんだ。見た人の一生に残るような、そんなものをね」

そう言って東京湾を眺める清二郎の瞳は鈴子が観ているよりももっと先を知っている様だった。

「そういえば、次の撮影は京都なんだ」

「ずいぶん遠いんですね」

「のんびり揺られる旅も悪くないよ。それに、この監督となら海外の映画賞も夢じゃない」そう言って笑う清二郎を見て、自分には勿体無いほど素敵で遠い存在だと鈴子は感じた。

生まれてこのかた東京から出たことがない鈴子は引き止める術も持たず、困ったように笑い返した。


行きと同じようにバスに揺られる。帰路を照らす街灯の数が家に近づくたびに少しずつ減っていく。まるで鈴子の気持ちを代弁しているかのようだ。

家の最寄に着き、ゆっくりと母屋の方へ二人で歩く。まだ離れたくない、そう思い視線を上げると、そこにチラチラと浮かぶ光があった。

「清二郎さん、そこ、見て」

鈴子が指をさす方をみた清二郎は、すぐに何のことか理解し、懐かしさに顔を綻ばせた。

「蛍か。なんだか久々に見たな」

清二郎のいつもの眩しい笑顔じゃなく、どこか気の抜けたような表情を見て、鈴子は妙案を思いついた。

「少し着いてきてくれますか?」

そういうと、鈴子は昼間布を洗っている川へと足早に歩いて行く。

「転ばないでくださいね」

慌てる鈴子に清二郎は言うと、大丈夫です。そんなことより早く、と鈴子は手招きして急かした。


昼は涼しげに聴こえる小川のせせらぎが、岸辺に暖かく響き、雪のようなホタルの白い光が注いでくる。

「これはすごいな」

そう言って見開いた清二郎の瞳に、蛍の光が反射して、本当に綺麗だなと鈴子は改めて思った。不意に目が合い、鈴子は照れて笑う。そんな鈴子の様子を見て、清二郎は少し意地悪そうに笑い、小声で囁いた。

「さっき妬いてたでしょ」

図星を突かれ、鈴子は言葉に詰まる。

「それは……」

清二郎をファンとして応援し、その笑顔が見れるだけで良いと思っていた。一年かけて心の整理が付いていると思っていたのに、たった一日でキチンと整理した心が乱され、染められていく。手の届くところにいてほしいと望んでしまう。

「可愛いね、鈴子さんは」

そんなことない。

自分の気持ちは口に出せない、出してはいけない物なのに、ふとした拍子に溢れてしまいそうになる。清二郎の為を思って立てていた誓いを守れない自分自身に悔しくなる。もしくは、もっと素直になれたらいいのに。清二郎には可愛げのある女の子がお似合いなんじゃないか。

葛藤している鈴子の手を清二郎がゆっくりと握り、様子を伺う様に俯向く鈴子の髪を耳にかけた。

彼が側でこうして、私のことだけを見てくれる間は、私も精一杯応えていきたい。鈴子の気持ちが揺らぐ。

まだ、側にいたい。そう願いながら鈴子は勇気を出して、ゆっくりと清二郎の手を握り返した。


来年の夏、また会いに来ると約束し見送るとき、鈴子は自分が染めた着物を半ば押し付ける形で清二郎に手渡し、蒸気機関車を見送った筈--だったのに、なぜか二人並んで座っていた。

「これからどこへ行くの?」

「どこへでも行けるさ」

車体がゴトンと揺れて鈴子は目を覚ました。清二郎の肩にもたれかかって寝ていたことに気付き、鈴子は慌てて体を起こそうとしたが、清二郎に肩をグッと抱き寄せられ、安心した鈴子は再び目を瞑り静かに話し出した。

「夢を見ていました。一年前のお別れした日の夢。二人一緒に汽車で旅に出て、いろんな景色をみて、笑って……」

「いいね。現実にしてみない?」

清二郎が鈴子の瞳を覗き込む。蛍の光が反射しキラキラと淡く輝く。

「結婚しないか? この先、君の人生を僕の隣で過ごしてほしい」

その言葉が何度も鈴子の頭の中を駆け巡る。

込み上げてくるような嬉しさと切なさでいっぱいになった。とうとうこの時が来てしまった。期待の中に怖れを含みいつか来るかもしれないと予感していたこの時のために、既に鈴子は返事を用意して待っていたのだ。

「私は貴方の手を取れない。だって貴方、染物屋になる気ないじゃない」

「ばれたか」

 そう言って、清二郎は寂しげに笑った。

「染物が無くなったら私は私じゃない」

きっと、後悔は、ない。

「……そうだね。鈴子さんはそういう人だ」

夕闇の中でも白く輝く鈴子の頬を清二郎は指の背でさらりと撫であげた。もう、会えなくなるかもしれない。それでも。

「だから、私じゃなくて私の染物を愛して」

「--愛しているよ」

清二郎の肩越しに広がる夜空を綺麗だなあと眺める。きっと自分には手の届かないところで、この人は輝き続けるんだろう。


玄関の扉をなるべく音を立てないようにそっと開けた。昼間は家族や従業員達が音を立てる廊下も、シンと静まり返っている。靴を脱ぎとんとんと式台と框を上がる。

「遅かったね」

「翠! びっくりした。心臓が止まるかと思ったよ」

後ろから声をかけてきた翠は、見上げる様に鈴子を睨め付ける。こんな夜更けに翠が出掛けるなんて珍しい。

「なんで振ってんのよ、あんたバカァ⁉」

突然の大きな声に鈴子はややたじろぐ。先程のやり取りを見ていたのかと気付いたのは数拍置いてからだった。

「そう、かもね」

自嘲気味に笑う鈴子を見て、翠は荒っぽく靴を脱ぎ捨て、鈴子の隣を通り過ぎる。

「あたしだったら絶対着いて行くのに」

すれ違いざまに鈴子の耳に届いた声は震えていた気がした。

去年、翠は清二郎に振られている。鈴子が清二郎と出会ったとき、その場にいた翠は二人の間にすかさず割って入り、作業を見せる事を口実に彼を連れて家まで案内したりしていた。近場の撮影地まで差し入れを渡しに通ったりと熱心にアピールをし、清二郎が家まで訪ねてくると嬉しそうに応対していたが、彼の要件はいつも鈴子さんの作業場に案内してください、の一点のみだった。

取り残された鈴子は、翠の迸る感情にあてられ、許しを請うように呟いた。

ごめんね、翠。


昨日とは違う、じっとりとした空気が肌にまとわりつく。シトシトと降る雨の中、自宅から二駅離れた茶屋に先に着いた鈴子は軒下で雨を凌いでいた。

早く会いたいような、昨日に戻りたいようなそんな気持ちで待っていると、昨晩別れ際に手渡した着物を着ている清二郎を見つけ、鈴子は胸が高鳴る。清二郎も、すぐに鈴子を見つけ、お待たせと言い自分の番傘の中に鈴子を招き入れた。

「お似合いです。とても」

感想を述べ清二郎を見上げると、ありがとう。と言いはにかむ笑顔が近くて、更に鼓動が速くなる。

「良い色だ。また腕をあげたね」

幅広く描いた縦縞模様が長身の彼によく似合っている、着物に合わせたカンカン帽もこじゃれていると鈴子は思った。

どちらからとも会話することなく、ただ駅舎までの道を寄り添って歩いていると、その嬉しさと、また清二郎と会えなくなる悲しさに鈴子は押し潰されそうになっていた。


駅に着き、程なくすると機関車が汽笛の音を響かせながらやってきた。車掌さんのアナウンスが焦燥感を掻き立てる。もう行ってしまうんだ。鈴子が清二郎を見上げると、見たことのないくらい真剣な顔つきの彼がいた。

「鈴子さん」

駅舎の屋根の下で清二郎は突然、番傘をさした。さよならは言わず、ありがとうと伝えようと決めていたのに、何も言えなくなる。番傘がつくる影の中で今まで以上に近づいた二人に気付く人は誰もいない。

「……え」

掠めた唇に指をあてる。

いたずらが成功した子供のような顔をして清二郎はクスリと笑い、鈴子に自分の帽子をかぶせパッと列車に乗り込み振り返った。

発車ベルが鳴り響く中、ガラスの向こうで清二郎は「狡い男でごめん」と零した。

その言葉は鈴子には聞こえなかった。まだ熱の残った清二郎の帽子を握りしめ、遠ざかっていく列車をただ見つめていた。

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