第15話 8月11日(前編) 山の日の試練
8月11日
世間では『山の日』と言われ、祝日に設定されている日だ。
だが、大抵の学生達は絶賛夏休み中。
自分の肩書きを棚に上げて、意味ないじゃん、と思った経験があるが、それは学生の間だけの話。
真夏の日差しに背中を焼かれる社会人はさぞ喜んでいることだろう。
山なのに休日?
そう言いたい気持ちもよく分かる。
山ってなんか疲れるイメージだし、海の日と対抗して作ってんじゃないのかと茶々を入れたくなる。
ふつふつと湧き上がる、きのこたけのこ戦争感。
ところで、俺の目の前にも大きな山がそびえ立っている。
そう、昨日の夏祭りの件だ。
まさか1日の間に、詩織さんとサキちゃんの両方に誘われるとは。
去年の俺が聞いたら腰を抜かすだろうな。
思い出したくもない。
宮田宗治、20歳の虚しい夏の記憶──
軽い気持ちで駅前の祭りに足を運んだ。
しかし、あまりの人の多さに目眩がした。
一度人波に攫われると行き着くところまで足を止められないし、すれ違う人は妙に甲高い声で話をしていて、耳鳴りを引き起こされた。
夜だというのに真昼ように明るく灯る提灯や屋台の数々。
目が痛いったらありゃしない。
結局、屋台の食べ物を買って、そそくさと家に帰った。
焼きそば食べながら、花火の音だけ聞いてたっけ。
それと比べれば雲泥の差だ……ただ、
「夏祭り、楽しみですね」
言えない……サキちゃんのお誘いも受けてしまったなんて、口が裂けても言えない。
詩織さんが持ってきてくれたお冷を一気に飲み干して、熱暴走気味の頭をクールダウン。
話題を変えよう……
「祝日なのに、喫茶店は開けてるんですね」
「飲食業は休日こそ稼ぎ時ですから」
この店に稼ぎ時なんてあるのかよ。
いつ来ても俺しか客いないんだけど。
もしかして、こっちが副業で別に本業があるとか?
「それより、今日も来てくれるとは思いませんでした」
「来るに決まってるじゃないですか。常連ですよ?」
「常連って、毎日来る人の事を指す言葉とは違う思いますけど。1週間に1回とかでも十分だと思いますよ」
いやいや、そうじゃないでしょ。
詩織さんがいる所なら喫茶店である必要はないんですよ? と講釈をたれそうになるが、ぐっと我慢する。
マジでキモいからやめとこう。
「ま、私は宮田先輩の顔が見られて嬉しいですけどね」
詩織さんは魔性の女だ。
男が喜びそうな言葉を選んで的確に攻めてくる(天然だとしたら、それはそれでグッド)。
虜にならない方がおかしいだろ。
だったら俺も反撃してやろう。
「俺も毎日詩織さんに会えて嬉しいですよ」
「そうですか」
あれっ? 意外と素っ気ない。というか、無関心だ。
狙いを外した俺を見た詩織さんは、
「そうやって、色んな女の人に手を出してるんでしょ? いやらしいですね」
「違っ! ちょっとやり返してやろうと思ったら、ちっとも狙った反応が帰ってこないんですよ!」
「私が悪いんですか!?」
冷ややか目を向けられたと思ったら、次の瞬間にはお盆をぎゅっと胸に抱いた詩織さんが不満そうな顔をする。
「いや、そういう意味で言ったんじゃなくて! 出来心というか、イタズラ心というか」
「それで、狙った反応がこなかったからご不満ようですね! もういいです、宮田先輩なんかもう知りません! ご注文どうぞ!」
詩織さんはプイっとそっぽを向いて、チラチラと俺の様子を伺っている。
注文はちゃんと取ってくれるんだ、と感心しつつも、改めて「誤解です」と言えるような雰囲気でもない。
俺がオレンジジュースを注文すると「かしこまりました」と語尾を強めてカウンターの奥へ引っ込んでいった。
──ゴトッ
「えっ」
声を上げてしまったのは、注文したオレンジジュースがテーブルの向かい側に置かれたから。
相変わらず詩織さんはぶっきらぼうな顔をしているし、嫌がらせのつもりだろう。
けれど、嫌がらせと言うには悪意が足りていない気がする。
「えっ!?」
2度も声を上げてしまったのは、詩織さんが向かいに座ってオレンジジュースを飲み始めてしまったから。
ストローでちゅうちゅうと吸いながら、グラスの氷がカランと擦れる。
半分ほど飲み終わった所だろうか。ようやく声を出せた。
「それ、俺のなんですけど」
詩織さんは一瞬驚いた顔をして、再び視線を窓の外へ移した。
頬杖をついて遠くを眺める姿は美しく、額縁に飾って鑑賞したいとすら思う。って、今はそんな悠長にしてる時じゃない。
詩織さん、と名前を呼ぼうとした時、途中からジュースが減ってないことに気づいた。
「飲まないんですか?」
恐る恐る訊ねると、詩織さんはプールの底から上がってきたみたいに、ぷはぁ! と息を吐いて胸に手を当てた。
その後、大きく息を吸って「ごめんなさい」と言いながら頭を下げた。サラサラの前髪がテーブルに擦れる。
「宮田先輩を困らせたくてやりました。反省はしてますが、後悔は微塵もしていません」
謝罪と開き直りを同時にこなすとは。こりゃ大物になるな、なんて話はさておき、
「つまり、怒ってないってことで」
「怒ってなんかいません。ただ、宮田先輩がこういうめんどくさい人の相手をする時、なんて思うのかなって」
詩織さんはちっとも顔をあげようとしない。「おもてをあげい」と時代劇の一幕のようにおちゃらけて言うと、「ハハァ」とノッてきた。
「もし、宮田先輩は私が扱いづらい人間だったら嫌ですか?」
「詩織さんが?」
確認を取ると、乱れた前髪を手ぐしで整えながら2度頷いた。
「嫌じゃないけど、いきなり気に触れたのかなって、ビックリしました。ほら、いつもニコニコしてるイメージだから。でも、途中からジュース減ってなかったし、良心が邪魔してるんだろうな、って」
自分でも気づいていなかったのか、詩織さんはハッと目を丸めて、手元のグラスを覗いた。
物語に出てくるような意地の悪い女にはなれないらしい。
「だから何となく演技なのかな、って思ってましたよ」
「そうですか。もう少し上手くやれたらなぁ」
残念そうに肩を落として、ぽつりと呟いた。
俺的にも、演技でよかったぁ〜……マジで嫌われたのかと内心ヒヤヒヤしてたもん。
「宮田先輩、お願いがあるんです」
いつにも増して真剣な表情。
俺の背筋は糸に引っ張られているかのようにピンと伸びる。
一体何を言われるんだ? もしかして出禁とか? 一気に地獄に落とすなんてオチ、これまで何度も見てきたぞ。
助かると思った寸前に化け物に喰われるサブヒロイン。
あと一歩のところで崩れ去る崖。
出来たカレーによそう白米の炊き忘れ……等々。
俺は覚悟を決めて、詩織さんの声に耳を澄ます。
「今日だけ、敬語は禁止にしませんか?」
言葉を失った。
でもそれは、俺の気負いを遥かに凌ぐ災難ではなく、ある意味での幸運を多分に含んだ絶句だった。
いつまでも詩織さんとの距離感を掴み損ねていたところだ。
むしろ向こうから距離を詰めてくれるなんてありがたすぎる。
でも、なんで今日だけなんだろう。
俺は敢えてその質問した。
すると──
「なんで、って今日はお祭りの日じゃないですか。そんな日にまで他人行儀なんて味気ないでしょ、宗治?」
どうやらもう敬語禁止は始まってるらしい。というか、
「今日がお祭りの日?」
「うん、そうだよ。あっ、もしかして駅前のお祭りと勘違いしてる?」
「違うんですか?」
俺の問いに詩織さんは薄目で視線を送ってくる。
黒板に書いた答えが間違いだった時に先生から向けられる視線によく似ている。
嫌な視線だ、変なこと言ったっけ……あっ。
「違うの?」
敬語禁止。もう失念している。
長らく続いた習慣を改めるのは難儀だな。
詩織さんは満足気にうんうんと頷いて。
「私達が行くのは2駅向こうのお祭り。楽しみだね」
「2駅向こう……異世界だ。この周辺でしか生息できない俺にとっては、毒の舞ってる世界だと揶揄しても遜色ないよ」
「ふふっ、宗治は怖がりさんだね」
微笑む詩織さんに名前を呼ばれる度、幸福感の波が押し寄せる。
宗治でよかったぁ。いや宗治じゃなくても呼んでくれたんだろうけど。
俺はふと思い出す。
待てよ。今日、詩織さんと祭りに行くって事は、サキちゃんとは予定が被らない。
つまり、俺は1度の夏に2人の女の子と、それも別々に、祭りを満喫出来るって訳か。
なるほど、神様がマジで神様してる。
今年で死ぬとしても、後悔はない。
「それじゃ宗治、また後でね。お迎えは5時半でいいよ」
詩織さんは、まるでデートの予定を取り付けるように言い残して去っていった。
呆然とする俺の目の前には半分ほど残ったオレンジジュース。
ゴクリと喉を鳴らす。
だって、あのストローは詩織さんが口をつけたもので、それに口をつけるとなれば、つまり……か、か、関節キ──
「欲しければ飲んでいいよ」
脳に直接語りかけるような吐息混じりの甘い声。
耳を抑えて素早く向き直ると、色っぽく笑った詩織さんの顔が真横にあった。
「忘れ物しちゃった」
目を合わせたまま動けなくなって、再び呼吸ができるようになったのは詩織さんの姿が消えてから。
テーブルに置いてあったはずの伝票が無くなっている。つまり、オレンジジュースは奢り。
しかし、本当に口をつけるのか?
タダより高いものはないはないって言うし、後々とんだ災難が降り注ぐかもしれないぞ。
「クソォォォ、悪女めぇ」
悔しさを滲ませながらオレンジジュースを一気に飲み干した。
もちろん、グラスに直接口をつけて。
誰も見てないのに、ストロー1本に惑わされるなんて……
今日一日、上手く付き合えるのか心配だよ。
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