夢鬱々
「ねーねー、わたあめ食べたい!」
男の子がそう言って指をさす。母親が何か言おうとしたところで、お祭り会場の喧騒が広がり、視界が人の波で埋め尽くされた。
夜なのにピカピカ光る屋台に、輝かしい笑顔の数々。時折、甘酸っぱい青春を垣間見たり、想像したり。
そんな会場を、道一つ挟んだアパートの階段に座って眺めていた。自分にはあちら側へ行く権利がない。あるはずがない。そう決めつけているし、抗う気力ももうない。
羨望の眼差しを向け、一つ深呼吸をした。もうこんなところにいる理由はないのだから、帰ろうかと立ち上がった。
「あれ、久しぶり」
どこかで聞いた声。記憶の扉をノックしてみても反応がない。ドアノブを回しても開かない。どうして。嫌な予感が、脳裏を、よぎ――声の方へ目をやった――そこにいたのはMであった。
くっきりした目鼻立ち、横分けお団子ヘアー、驚きの混じった笑顔。そして、小さな身長に釣り合わない大きく膨らんだお腹。
絶句。胸がきゅううと音を立てて萎んでいく。目眩がする。ここが夢なのか現実なのか判別できなくなる。もちろん、冷静に考えたら俺は今24歳で、子供がいてもおかしくない。だからなんだ、俺のファーストキスの相手で恋愛観の礎で一番強く長く好きだった相手で彼氏がいるのも分かっているでも好きで縁を切ってからもずっと……。
「……久しぶり」
やや間があって、返した。息が、詰まる。反動で何かを話さないといけない、という焦燥感を覚える。口を開くが声が出ない。まるで死にかけの金魚、目が泳ぐ。
「子供、できたんだね」
「うん」
「おめでとう」
「ありがとう」
ありきたりな言葉を並べてみたがどれも違う。このモヤモヤをぶつけてめちゃくちゃにしてやりたかった。無意味だ。それで気が晴れると思えない。飲み込む、飲み込む。
「目指してた看護師にはなれた?」
「なんとか」
そこまで話して、誰かが近づいてきた。顔に霧がかかった高身長の男性だ。
「そろそろ行くね」
彼女はその男性にくっついてこの場から離れていった。遠くへ遠くへ。姿が見えなくなったところで俺は力尽きたようにその場に座り込んだ。人々だとか、感情だとか、過去だとか、何もかも通り過ぎていく。まるで走馬灯。風に乗ってキラキラが飛ばされていく。見えなくなっていく。それなのに、目の前に広がる光景は眩しいくらいに輝いている。
自身の過去に問いかける。言動のまるバツ、あの時の正解、もしもの話、現状の理由、運命の在処、自分が自分である理由、他人との違い、幸か不幸か。何一つとして納得のいく答えは返ってこない。
「隣、いい?」
憂鬱と喧騒の隙間から見えた彗星。夢という事実を疑った。
「もちろんいいですよ」
「ありがとね」
そう言って隣へ座ったのは、高1の時に好きだった先輩であった。
先輩の横顔は相変わらず儚げだ。こちらに向かってほほ笑みかけると、お祭り会場の方へ向き直り、眼鏡をくいっと上げた。
これが運命だ。今までの不幸全てはこの時の伏線でしかないと。物語は絶対にハッピーエンドであると。そう確信した。
「ああいうの、いいよね」
「そうですね」
先輩は羨望の眼差しを向けていた。俺は先輩に釘付けだ、それ以外どうだっていい。
「彼氏ほしいなー」
先輩は膝前で組んでいた手を後ろに伸ばし、体を反らす。これ以上ない正確で綺麗なトス。あとは力を抜いてコートに叩き込むだけだ。
「俺でよければ」
冗談交じりの苦笑いをした。その一瞬、先輩は驚いたようなきょとんとした表情で固まった。かと思えばすぐににっこりと笑う。
「君はないなー、落ち着きないし」
え――存在しない――あれ。何かが――記憶が脳裏を過ぎる――違う。
「そうです、よね」
事実とも夢とも違う。虚体験。俺はつい2週間前、先輩と会って会話している。たわいのない話をした。俺は終始落ち着きがなかった上に、食事へ誘ったが断られていた。そういう記憶が唐突に生えてきたのだ。
そして沈黙が続く。もう自分の心音すら聞こえない。言葉の発し方なんて忘れた。先輩は変わらずお祭り会場を眺めている。それを盗み見るだけの愚民D。本当にどうして俺はあんなにも自信満々に特攻できたのか。釣り合わないだとか、親密度だとか、そういう問題ではない。もっと根本的な何かを俺は知らず、欠損している。それが何か知る余地もない。
「そろそろ行くね。じゃあ」
先輩は立ち上がり、それこそ流れ星のように、消えていった。俺が何か言う間を与えずに。思考の速度を追い越して、どこかへ。
溢れ出る憂鬱に溺れている。深海のように真っ暗。瞼を射す光。めまい吐き気。アラーム。枕ひんやりクーラー寒い寒い布団布団布団陽光朝――気持ち悪さが込み上げてくる。俺は、振られたのか? いや、振られまくってきた。じゃあ今のは?
確か、高校時代に好きだった人に振られた。しかも2回目かつ2人に。いやそれは夢の話で。
スマホを手に取る。時刻は7時半。今日からゴールデンウィーク。勤め先ではセールで忙しくなる。そんな時にこんな夢か……。
何で振られたんだろう。何で俺はあんなことをしたんだろう。何で彼女できないんだろう。何で好きな人できないんだろう。何で何で何で何で……。アラームがまた鳴る。俺は気持ち悪さをグッと堪え、起き上がった。
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