ある四月の朝の保健室

「失礼します」


 朝一の保健室。ノック音が響き、ガラガラっとドアが開かれる。

 入ってきたのは——


「やァやァ、がるサン。久しぶりだネェ?」

「氷雨さん、お久しぶりです。おはようございます」


 若草色の長髪を後ろで一つに結び、着崩した制服とシルバーアクセサリー。

 記憶よりだいぶ成長した、かつての同僚の弟だ。


 チャラそうな見た目とかけ離れた堅苦しい挨拶に、氷雨は思わず苦笑する。


「あぁ、ウン。おはようサン。ところでどうしたのかなァ? 何だかァ、ぼろぼろだけどォ……」


 一限が始まる前のこの時間は、人など滅多に来ないので手伝いの保健委員はいない。

 それなのに、朝から仕事の予感しかない彼の姿は、氷雨の気分を滅入らせるのに十分だった。


「登校中に、足元を走り抜けた猫に驚いてヨロけてしまいまして」


 ところどころ血が滲み、薄汚れてしまっているガルレイドが淡々と語る。


「偶然後ろにいた不良の人の足を踏んでしまって……」

「あァ、それで不良にボコられたのネ」

「いいえ、喧嘩はダメだとカルム兄が言ってましたので、逃げました。しかし逃げる際、路地裏から抜けた時、ちょうど走ってきた小型トラックにはねられこうなりました」

「そうなんだァ……不運体質は変わらないネェ」


 ……アレェ〜思った以上に重傷だぞォ?

 割とシャレにならない状況説明に、氷雨は冷や汗をかいた。


「……それにさァ、来る場所間違えてなァい?」

「はねられた時専用の保健室なんてありましたか?」

「イヤ、普通は病院行くからネェ?」

「病院……? 私は風邪をひいていません」


 彼とは約五年ぶりの再会だが、そのマイペースさに変わりはないようだ。

「俺は宇宙人とでも会話してるのかなァ?」なんて、こぼしながらも氷雨は腰掛けていた椅子から離れ、ガルレイドに近づく。


「見た所本当に大丈夫そうだネェ〜どんなはねられ方したのやらァ」


 擦り傷や打撲はあるけれど、骨に異常はなし。

 氷雨は普段のぐうたらな態度から想像もつかないほど、テキパキと慣れた手つきで診察をすると、備品から包帯やら消毒液やらを準備する。


「ヒサメさん、塩はどこですか?」

「えッ、塩!?」


 突然の質問に手が止まった。


「はい。日本では傷口の消毒に塩を使うと姉貴が言ってましたので」

「ンンッ、何ソレ知らなァい」

「何でも日本には『敵に塩を送る』という言葉がありまして、敵が苦しんでいる時にかえってその苦境を救うという意味らしく、そこから派生して『傷口に塩を塗る』という言葉が……」


 至って真面目に頓珍漢な事を言い出すガルレイド。氷雨は耐えきれずに吹き出した。


「あははははッ! えめサンも相変わらず酷い冗談を言うネェ〜!」


 懐かしいなァ〜、と氷雨は以前会った彼の姉を思い出す。他者に対する当たりが異様に強い、メガネをかけた少女だった。

 唯一懐いていたのは、彼らの長兄にして氷雨の元同僚に当たる男——ゼン・グレイシアのみ。

 確かに彼女なら、こんな冗談も言いそうだと勝手に納得する。


「冗談……」

「ウン。傷口に塩を直接塗り込んでもォ滲み出る体液で薄まってェ、細菌が繁殖しやすい環境を作るだけなんだヨォ。使うならァせめて海水とか濃い塩水だけどォ、それも緊急の時以外はやらないよネェ。すっごく痛いからサ」

「…………そうですか」


 抑揚のない声で返答をしたガルレイドだが、その姿はどこか落ち込んでいるように見えた。

「俺、また姉貴を怒らせたかなぁ」なんて呟きも、氷雨にバッチリ聞こえている。


「あははッ、がるサンは相変わらずだネェ」


 気を取り直して、手当を再開する。

 消毒液がしみるはずなのに騒ぐこともなく、協力的な彼のおかげで手当はすぐに終わりそうだ。


「私は変わりたいと思っているのですけど」


 黙っていたガルレイドが、唐突にポツリと呟いた。


「それはァ、兄弟がそう望んでるからかなァ?」

「はい」

「ならァ、俺はそのままでも良いと思うけどネェ」


 最後の包帯を固定して、氷雨はガルレイドを見上げる。

 それでも……と反論しかけた彼を遮り、氷雨は続けた。


「だってさァ、なんで変わる必要があるのかなァ?良いジャン。今のままでもやって行けるんだしサ。別に不幸なわけでもないでショ?

 それにィ、変わった先が本当に兄弟が望む姿とは限らないヨォ。そしたらァ、がるサンどうするつもりかなァ?

 また変わるために足掻くのかなァ? 言われるままに望まれるままに、がるサンはがるサンじゃァなくなるのかなァ?」


 少しだけ問い詰めるような形になってしまったが、氷雨としてはただ思ったことを言っただけだ。

 氷雨の知る五年前から、ガルレイドという少年は変わりたいと願っていた。

 伝え聞く話のガルレイドは、変わったように思えたが、実際目の前にすると彼は何も変わらない。

 その変わりたいという願いは、どうやら少し迷走をしているようだ。


「変わらない幸せもォ、あるんじゃあないかなァ?」


 悪意はない。悪気もない。

 だけど意地悪した自覚は十分にある。


「私は……」

「……やめて」


 第三者の声が、思い悩むガルレイドの思考を遮った。


「居たんだネェ〜かるむサン。一言も喋らないからァ、いないのかと思ったヨォ」


 もちろんただの嫌味だ。

 赤い髪に2メートル近い巨躯。いくら黙っていたところで、目につかないわけがない。


「イジメ……だめ……」


 だけどカルムは嫌味なんて聞き流し、ガルレイドに対して言った意地悪を言及する。


「嫌だなァ。俺はァ俺が思った事を言っただけだヨォ。自由だからサ。がるサンも俺みたいに楽に生きれば良いと思ったまでだヨォ」

「でもそれで——」


 代わりに口を開こうとしたガルレイドを手で制し、氷雨はわらう。


「言いたい事があるなら自分で言いなヨォ、かるむサン。がるサンはァ、君のすぴぃかぁじゃあないんだヨォ?」


 実は五年前から、喋ろうとしないカルムを喋らせるのが氷雨の密かな趣味だったりした。

 悪趣味だけど。


「……きらい」


 実に率直な言葉を返された。


「あはははッ! 俺のクチバシは悪意を乗せてさえずるのさァ」


 右手を鳥のクチバシのようにパクパクさせて見せると、またもや「きらい」と吐き捨てられる。


「行こ」


 有無も言わさずにカルムはガルレイドの手を引いた。

 もう、氷雨とは話す気がないのだろう。


「失礼しました」

「あァ〜そうそう!」


 保健室から出る直前、礼儀正しく挨拶をするガルレイドを氷雨が呼び止める。


「実はァ、ぜんクンがネェ? 君たちよりずっと前に菓子折りを持って挨拶に来てたんだよネェ。また弟たちをヨロシクってさァ〜」


 薄っすらと目を開いて、水色の瞳で二人を見つめた。

 姿形は変われども、その中身は変わらぬ子どもたち。


「昔のよしみだヨォ。君たちの相手はァ、この俺が直々にしてあげようじゃあないかァ〜どんな怪我でも病気でもォ、治してあげるネェ」

「ありがとうございます」


 ペコリと頭を下げ、今度こそグレイシア兄弟は保健室から出て行った。

 氷雨はそんな彼らを見送り、どかりと元いた椅子に座りなおす。


「五年経つけどォ、ぐれいしあ兄弟は変わらないなァ」


 何を考えているのか全く読めない、どこかズレた末弟ガルレイド。人前で喋る事を嫌い、弟に代弁させる次男カルム。心を閉ざし、他人を毛嫌いする長女エメ。そして3人の問題児を抱え、だけど彼らを愛する長男ゼン。


 シスコンブラコンの繋がりで仲良くなったゼンとその家族に、五年越しで再会できたのは存外嬉しい事のようだ。


「あははッ! 俺は変わらない日常を愛してるのさァ〜」


 懐からスマホを取り出し、電話をかける。

 その電話は、わずかワンコールで繋がった。


『ちょっと氷雨!? 今もうすぐ授業だから忙しいんだけど?』

「またまたァ〜藜ならァ、もう準備も終わって暇な頃でショ」

『あーのーねぇ、例えそうだとしても授業前は一息つきたいの』

「はいはい。それでさっきさァ〜ぐれいしあの兄弟がァ〜」


 抗議する愛らしい声を無視して、氷雨は今の出来事を話し始める。

 手の届くところに藜がいて、いつでも触れ合う事ができる。


 それが氷雨にとっての幸せで、変化して欲しくない日常だった。

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