迷子になりましょう

椎名ロビン

迷子になりましょう

「愛衣、愛衣!」


不機嫌そうな声が、廊下の奥から聞こえてくる。

その声はどんどん大きく近づいてきており、声に含まれた不満の色も次第に濃くなっていた。


一つ溜息をついて、読みかけの小説を傍らへと置く。

代わりに取り出した手鏡で、軽く身だしなみを整える。

オーケー、服に皺もついていないし、先程飲んだカプチーノも口元を汚していない。


「土山さん、休憩に入ったばかりよね。代わりに行こうか?」


メイド長が、心配そうに声をかけてくれる。

実にいい人だ。好感が持てる。

高給につられて集まった“技術はあれど手抜きに余念がないカスども”とは一味も二味も違う。


「いえ、大丈夫です。私のお役目ですから」


やんわり断り、ぺこりと会釈。

ドアノブへと手をかけてから、今のは少し冷たく聞こえてしまっただろうかと不安になる。

メイド長の人柄ならば気にはしてないと思うが、しかしこうなるとこちらが気になってしまうのだ。


「……メイド長もまだ休憩時間が残っているのに、お気遣い、ありがとうございました」


再度深々と頭を下げてから、廊下へと出る。

今度はちゃんと出来ただろうか。

愛想を振りまくということだけは、未だに慣れることができない。


「こんな所にいたのね、愛衣。油を売るなんて、いい身分だわ」


カツンカツンと音を立て、杖をついた少女が歩み寄ってくる。

その顔には不満をいっぱいに浮かべていた。


「失礼いたしました、夏子お嬢様。仕事を終え、休憩時間となっておりましたもので」


そう言って、過剰なまでに頭を下げる。

今告げたことは全て事実だ。

だがしかし、これで納得してくれるなんて、これっぽっちも思ってはいない。


「ふざけないで。貴女みたいに満足に仕事も出来ない無能に、そんなことが許されると思っているの?」


つり目がちの綺麗な瞳が、怒りの色を孕んでいる。

非常に理不尽で、薄っぺらな怒り。

この目はよく知っている。酒を飲んだ直後の父と同じだ。


「失礼いたしました。しかし僭越ながら、業務はすべて終えております」


怒りをぶつけて鬱憤を晴らすため。

そしてこちらを支配して安心感と優越感を得るため。

そのために不出来な点を無理矢理にひねり出すのだ。


「何か不備がございましたら、後学のためにもお聞かせ願います」


だから、何でも完璧にこなすようになった。

そんなことをしても火に油を注ぐだけだと分かっているが、黙って言うことを聞いているのは耐えられなかった。

その辺りは、プライドだけはやたらと高い父の血なのかもしれない。


完璧な角度で頭を下げ、そして慇懃無礼を体現したかのような微笑みを口元に浮かべる。

すると、決まって父は拳を、そして目の前の我儘お嬢様は手元にあるものを、私へとぶつけてくる。

すっかり“お約束”の流れだ。目に見えている。それでも、つい、やってしまう。


「何偉そうにしてるのよ、駄メイドの分際で!」


ほうら、杖をぶつけてきた。

心の中で嘲笑を浮かべる。

あとは適当に相手の罵声を聞き流すだけのこの状況を、私は勝利と定義している。

それを誰に言うでもなく、心の中で密かにほくそ笑みながら、僅かな勝利の余韻へと浸るのだ。


「大体貴女、愛想がないじゃない! メイドなら、最低限愛想はよくあるべきよ!」


嗚呼、耳が痛い。そればかりは、否定が出来ない。

愛想がなくても失業しない程度には仕事の腕は抜きん出ているが、こればかりは新人メイドにも劣ると自覚している。


故に、およそ二ヶ月と十日ぶりに、我儘お嬢様に対し心の底からの「申し訳ございません」を言った。

自分に非がある時は素直に認める。一流メイドには必要なことだ。


「そもそも完璧だったら、こんなことにはなっていないのだけど!?」


言って、我儘お嬢様は己の右足、太腿のあたりをペチペチと叩いた。

見るように促されたのだろうと判断し、僅かに頭を上げる。


視界に、太腿を叩く度にバインバインと揺れている巨大な胸が映った。

世の中の巨乳が全て愚者とは思わないが、しかし彼女にいたっては、脳みその栄養を全て胸に吸い取られているのだろう。

それにしてもこれほどまでに揺れるとは、パジャマの下、多分下着をつけていないな――――


「……今はもう、あの時の私ではありませんので」


再度ゆっくりと頭を下げた。

視界に映る映像が、弾む胸からやや肉付きのいい腰回りへと切り替わる。

そのままムチムチとした太腿が映った後、左の脚と何もない空間が映し出された。


「はあ? だから何? あの時のことは一生賭けてでも償いきれないんだけど?」


あの時とは、彼女の腹回りがもう少しくびれており、代わりに脚がむちっとしていた最後の日のことだ。

端的に言えば、彼女がその左の脚を失った日。

運動量が低下して、代わりに腹回りに肉を付け始めた日とも言える。

スカートがきつくなる度に、私への当たりもきつくなっていた。


「貴女のせいで私は一人で生きていけない身体になっちゃったんだからね! 約束したでしょう、生涯をかけて償うって!」


さも昔は一人で生きていけたみたいなツラをするのは勘弁してほしい。

もっとも、実際に左足を失った一因には違いないの絵、言葉には出さないのだけれども。


――まあ、あの事故の責任の一因であるというのも、甚だ疑問ではあるが。


私の仕える王城家は、長期休暇の度に、一家総出でバカンスに出かける。

使用人達も羽を伸ばせるようにと連れて行ってもらえるため、勿論私もついていった。

そして当然羽なんて伸ばせず我儘お嬢様の面倒を見るはめになったのだが、そこで悲劇が起きた。


深い霧が出ていたにも関わらず、ずんずんと好き放題山の中を駆け回った結果、お嬢様が崖から落下したのだ。


これが視界不良なせいで私が車で轢いたとかならば私のせいになると思うが、これを私のせいにされても正直困る。

そりゃあ、面倒になって霧の中で黙りこくっていたせいで、半ば泣きながら名前を叫んだお嬢様が事故にあったのは事実。

だがしかし、濃霧の中で無警戒に歩き回る方にも責任があるのではないだろうか。

一人では何もできないくせに、何でもやりたがる好奇心が、彼女の脚を奪ったのだ。


「…………左様でございますか」


何が正解か分からず、道標もないときは、黙って視界が晴れ渡るのを待つしかない。

それが賢いおこないだし、被害を最小限に食い止める方法だ。

少なくとも、父の暴力で視界を霞ませていた頃の私は、そうやって生き永らえてきた。


「分かったなら、来なさい。貴女を探して回ったせいで、汗でべとべとだわ」


ほんのりと顔を赤らめながら、お嬢様が私の耳にかかった髪の毛へと触れる。

分かっている。これは“サイン”だ。

彼女はいつも大義名分を掲げては、私に自身を愛撫させる。

きっとこの後、部屋に連れ込まれ、そういうことが起こるのだろう。


いつものことだ。

着替えのために脱がせた、汗を拭い、その手の雰囲気になる。


高圧的な言葉で、潤んだ目元を隠すよう強気な態度で、命令される。

当然の権利のように、性処理の道具として負い目のある召使いを使っているかのような顔で。


「……かしこまりました」


お嬢様の本心など、とうに知っている。

配属初日に、名指しで専属メイドになるよう言われたのだ。

親や友人、それこそ本人よりも、彼女のことを知っている。


地位や権力を振りかざし、暴君の仮面をつけねば肉体関係を持てないほどの心の弱さも。

その仮面すら満足につけることができず、だだ漏れの歪んだ愛情も。

肉欲に溺れて蕩けた表情も。性感帯も。不安そうな寝顔も。ひとりぼっちの子供らしい憐れな寝言も。


本当は、私の愛を何より欲していることも。


全部全部、知っている。

知っているから、私は絶対愛情だけは注がない。

命ずるがままに身体を捧げても、愛の言葉は囁かない。

一度だけ情事の際に「愛している」と言ってほしいと懇願され、それはもうとてつもなく冷たく言い放ったものだ。

それ以来、当たりは厳しくなったものの、呼び出しが終わることはない。

私が拒絶することも、この仕事を辞めることもない。

贖罪の範疇をこえて愛情を向けることも、絆を結ぶことも、決してしない。

ただの王城夏子と土山愛衣には、絶対にならない。


だってようやく、私は霧の中の迷子を眺める側になれたのだから。

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