楽印

蛙鳴未明

楽印

 ある日「楽園への招待状」そんなものが私の家に届いた。どうも一生働かずに充実した楽な生活が送れるらしい。願ってもない話だ。私は招待状に書いてあった集合場所に向かった。


 集合場所には一台のバス。インストラクターを名乗る者が私の額にスタンプを押し、私をバスに乗せると、バスはゆっくりと走り出した。郊外を通り、山道に入ってひと山ふた山超えると、目の前に忽然と巨大な建物が現れる。思わず驚きの声。バスは建物の前に停まり、私を吐き出してさっさと去っていってしまった。ここが「楽園」なのだろうか。と、目の前の壁が音もなく開いて機械音声が響いた。


『ようこそ楽園へ。どうぞお入りください』


 言われるがままに足を踏み入れる。すると、床がひとりでに動き出した。何だこれはと言う前に再び機械音声。


『ここは楽園。居住者の方々はこれから一生、楽をして頂きます』


 床が盛り上がり、ふかふかのソファーとなって私を座らせる。更には肘掛から飲み物の入ったグラスが出てきた。ストローを吸ってみると、甘美な味わいが体中に染み渡る。ソファーはどんどん私を運んで行って真っ白い部屋に入ってぴたりと止まった。背後の壁が閉まり、再び機械音声が流れる。


『あなた様の楽のため、精一杯務めさせて頂きます。何も口に出す必要はございません。ただ頭の中に思い浮かべていただければ、それに応じさせて頂きます』


 じゃあ何かおいしいものでも……と思ったとたん、目の前の壁が開いて湯気の立つおいしそうな料理が現れた。思わず喉を鳴らす。と、壁からアームが伸びて来て、料理を丁寧に口に運んできてくれた。口を開けるとそっと優しく舌にのせてくれる。これがまた、たまらなくうまい。私のペースで私の好きなものを好きなだけ食べれる。


 これ以上に素晴らしいことがあるだろうか。食事を終え、ビールが飲みたいと思う。それだけで肘掛からビールが出てくる。おつまみが欲しいと思えばそれも出てくる。適度に肩も揉んでくれるし、眠くなったらヒーリングソングをかけてくれる。これ以上ないほど、楽だ。心地よい。が、少し空虚だ。


 そうして数日が経った。さすがにずっと食っちゃ寝しているのも味気ない。散歩にでも行こうか。そう思って立ち上がろうとしたその瞬間、ガチン、と音がして体が引き戻された。何だこれは。首に違和感を感じて、手を持っていこうとしたが、手が上がらない。見ると両手首がバンドで肘掛に固定されていた。私は慌てて叫ぶ。


「おい!何なんだこれは!」


『あなた様には楽をして頂きます。歩行は楽ではございません』


「何を言っている。暇なんだよこっちは。散歩ぐらい良いじゃないか!」


『だめです。歩行には労力を伴います』


 私の代わりにアームが私の頭をかきむしった。


「じゃあテレビ、テレビは?」


『だめです。テレビの視聴は視覚聴覚精神に多大な刺激を与えます』


「何でテレビがダメなんだ」


『既に説明いたしました』


 愛想が無い機械だ。


「じゃあ風呂に入らせてくれないか。もう何日も入っていない。」


『必要ありません。あなた様は常に清潔に保たれております。入浴は皮膚に多大な刺激を与えます。』


「何もかもダメじゃないか。ここは楽園じゃなかったのか?」


『楽しい園とは申しておりません。』


 私はソファーに沈み込んだ。きっと私はこのまま人生を浪費し続けるのだろう。娯楽も何もない、楽なだけの楽園。少しでも何か思い浮かべるだけで、それに応じてくる。これでは牢獄だ。決して逃げられない。


「どうすれば……良いんだ」


『消極的思考は精神に悪影響を及ぼします』



 ――数か月後、とある薄暗い部屋にて、二人の男が一つのディスプレイを眺めていた。そこにはソファーにうずまり、呆けた顔をして虚空を見つめ続ける人間達が映っている。


「これ大丈夫なんですかね」


「なあに、大丈夫さ。私が認めているんだからな」


「いやそうじゃなくて、倫理的に大丈夫なんですかね」


「ふん……所詮彼らは社会不適合の烙印を押された奴ら。あのような怪しいこと極まりないモノにほいほいと釣られるような者達だ。あのまま生きていても社会のゴミになるのなら、生活を保障されて夢を見続ける方が幸せだとは思わんかね」


「いやあ……」


「……それにああいう奴らを保護しておけば勝手に良い評判が立つ。良い事業じゃないか」


 黒い笑い。


「……随分堕ちましたねあなたも」


「クズがゴミを観察するというのもまた一興というものだよ」

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