桜の咲く季《とき》

吾妻栄子

桜の咲く季《とき》

「横浜はもう桜散っちゃったのに、こっちは満開なんだね」


 七歳の桃花ももかちゃんは白ともピンクともつかない淡い色彩の花霞を見上げて不思議そうに呟いた。


 白桃じみたふっくりした頬にいつも笑っているようなやや垂れ気味の目、柔らかそうな栗色の髪をお下げにして飴玉じみた撫子なでしこ色の玉飾りの着いたゴムで結わえ、見上げる桜の花よりもう一段階濃くはっきりした正に「桃色」のワンピースを纏っている。


 あの頃から「女の子」というとこの三つ上の従姉をまず思い浮かべたものだった。


「札幌なんてもっと遅いよ」


 十歳の梅香うめかちゃんは嘆息する。


 こちらは雪じみた蒼白い細面に硬く真っ直ぐな黒髪をポニーテールに結い、細身の長身に私服なのにどこか制服めいた白いブラウスと緋色のプリーツスカートを履いた、中学生と見紛うような大人びた少女である。


蝦夷桜えぞざくらってもっと濃いピンクで葉っぱも出ているような桜なんだけど、内地ないちの人は染井吉野そめいよしのと比べると綺麗じゃないって言うんだよね」


 端の僅かに吊り上がった、黒目勝ちなアーモンド形の瞳がどこか寂しげに見入る。


 四歳の自分の目にもこの十歳の従姉の方が七歳の桃花ちゃんより端正な美人型に思えるのだが、大人たち、特におじさんたちが「可愛い」「可愛い」と持て囃すのは梅香ちゃんではなく桃花ちゃんだと知っている。


「じゃ、こっちもエゾザクラ?」


 お下げ髪の桃花ちゃんはふっくりした手の桃色の指先でもう一本の木を示す。


 こちらは細い枝にまだ固い芽じみた蕾が連なって付いている木だ。


 春の甘やかな匂いの漂う庭で満開の染井吉野と並び立つようにして植えられている。


「こっちは桜桃さくらんぼの木だよ!」


 四歳の自分は声を張り上げた。


「花はちょっと遅れて咲くけど実はちゃんと食べられるの!」


 淡いチェリーピンクのトレーナーに若草色のチュールスカートを履いた幼女が親の受け売りを話す姿を大人たちも二人の従姉も微笑んで見守っている。


桜餅さくらもち食べるよ」


 出てきて告げるお祖母ちゃんの皺深い笑顔が柔らかな陽射しの中で揺れた。


 *****


「ほら、起きなさいって」


 お母さんの苛立った声で目が覚める。


「コタツでまた寝て」


 そうだ、私はもう中学生で季節も今はまだ三月の初めだった。


 微妙に汗ばんだ首の辺りの感触と冷めた紅茶の匂いで、リビングのコタツで勉強中に昼寝してしまったと思い出す。


 ガラス戸越しに確かめられる夕方の庭の二本の木の影もまだ裸で一見するとどちらが染井吉野でどちらが桜桃の木なのかも分からない。


「そんなんだからまた夜更かしして生活のリズムが狂うんだよ」


 新型コロナウィルスの影響で私の通う中学も一斉休校になった。


 もちろん所属する女子バスケ部の練習も休止だ。


 親の言い付けで外出もままならないとなると、家で勉強する時間以外は専らテレビやネットばかり見る生活になってしまう。


「今日はちゃんと勉強したよ」


 数学のワーク巻末のまとめ問題を解いて、答え合わせして、間違えた問題の解説を赤鉛筆でノートに書き込んだところで電池が切れたようになって寝転がり、そのまま寝入ってしまった。


 嘘ではない証拠にテーブルの上には開いたワークとノート、そしてティーバッグを入れたまま一センチほど残した紅茶のカップが置かれている。


 この飲み残し、ティーバッグの成分が凝縮してまるで血溜りみたいな色だと頭の片隅で思う。


「数学より英語やんなさい」


 お母さんって何で私がやったことを認めるよりまだやらないことをあげつらう方に動くんだろう。


「今、やるから」


 数学のワークとノートとマグカップを押し退けてコタツの脇に重ねて置いた英語の問題集とノートと英和辞典を新たに卓上に広げる。


「この前だって英語の方が良くなかったでしょ」


 追撃するような声が飛んできた。


「平均点よりはずっと取れてたよ」


 平均点57点で74点なら「良くなかった」と責められるのはおかしい気がする。


「梅香ちゃんは中一でスピーチコンテストで優勝したのに」


「梅香ちゃんは小学校の頃からホームステイしたりしてたでしょ」


 私も行きたいと言った時にはお母さんは「危ないから」と反対した。


「桃花ちゃんももう英検二級取ったって」


 お母さんは素知らぬ顔で比較対象を変える。


「いちいち比べないで」


 これには何度されてもうんざりする。


「悔しかったら比べられないくらい良い成績を出せばいいの」


 褒められる側でも比べられること自体が嫌だ。


 というより、他の子同士が比べられている話を耳にするのも嫌だ。


――桃花ちゃんは中学受験はしないんだって。まあ、あの子は梅香ちゃんみたいに目立って出来る子じゃないから。


――かける君はハキハキしていてバレエでもプリンシパルになるけど、お兄ちゃんのわたる君は何だかトロトロしてパッとしない子だよね。


 親しい子たちについてお母さんがあれこれ品評するのを聞くたびに心がざらついた手で少しずつ磨り減らされる気がした。


 でも、それを伝えてもお母さんが変わることはないだろう。


 小さく息を吐きながら英語の教科書を開く。


 取り敢えず、このレッスンの本文を書き写そう。


「もしもし? すみません、LINEは見たんですけど、ちょうどスーパーにいまして。今、コロナでうちは買い置きのマスクも少ないんでパートのある曜日の帰りくらいしか色々まとめ買いできないんですよ」


 お母さんはもうすっかり忘れたようにソファに腰掛けてスマホで話し始めたようだ。


“Unit 11”


 五線紙じみた英語用ノートのページの上にシャープペンで書き記す。


――英語はとにかく本文を繰り返し書き写すといいよ。


――やっぱり文として書かなきゃ覚えない。


 私より英語のずっと得意な二人の従姉たちも言っていた。


 さて、本文は……。


「桃花ちゃんが……ですか?」


 ソファから聞こえてきた声は音量としてはむしろそれまでより一段小さくなったにも関わらず、笑いの消えた調子が不穏に耳に突き刺さった。


 横浜も港の辺りを中心にコロナ感染が増えているらしいから、もしかして……。


 胸の辺りにワーッと血が集まるのを感じた。


 テーブルの隅に置いたカップの紅茶の飲み残しがチラと目に入る。


 その血溜りじみた真っ赤な色に刺されるような痛みを覚えた。


 いや、コロナに感染しても必ずしも死ぬ訳じゃない。


 確か死亡率自体はかなり低かったはずだ。


 持病のあるお年寄りや赤ちゃんならともかく、桃花ちゃんは高校生だし、今まで普通に健康に暮らしてきた。


 きっと夏休みにはまた普通に会えるはずだ。


「それでは、また、何かあったらご連絡下さい」


 ソファのお母さんは心もち蒼ざめた表情で告げると、誰もいない方角に一礼してスマホの画面をそっと人差し指で叩いた。


「もしかして、桃花ちゃん、コロナ?」


 口に出してみると、不吉な予感がより現実になってしまった気がした。


「事故に遭ったんだって」


 お母さんは血の気の引いた面持ちのまま首を横に振る。


「病院に運ばれたけどまだ意識不明なんだって」


 そこで話を打ち切るようにして立ち上がるとお母さんはテーブルの飲み残しのカップを取り上げた。


「あんたはうちで静かに勉強してなさい」


 叱責というより懇願の語調だ。


 こちらの返事を待たずにお母さんは台所に姿を消す。


 リビングは元通り、自分一人になった。


 コタツも、開いた英語の教科書も、書きかけのノートも何一つ変わらない。


 ガラス戸越しに見える染井吉野と桜桃の二本の木は裸のまま藍色の夕闇に浸され始めている。


 何とはなしに奥の間を振り返ると、雛人形の緋毛氈のあかと仏壇のお祖母ちゃんの微笑む遺影が目に入った。


 去年の暮れにお祖母ちゃんが亡くなったばかりなのに、それから三か月の雛祭りを前にまだ十七歳の従姉が死ぬようなことがあるわけはない。


 いや、まだ桃花ちゃんはまだ十六歳だ。三月三日の雛祭りがちょうど誕生日だから。


――うちのお雛様は二段しかないけど三人官女が平安三賢女なんだ。紫式部と清少納言と小野小町。


 柔らかに伸びた栗色の髪と、白桃じみたふっくりした頬の微笑む顔と、のんびりした声が蘇る。


 そうだ、桃花ちゃんは優しかった。私に対して意地の悪いところなど無かった。


 それなのに、どうして自分はひねくれた否定するような見方をしてきたのだろう。


 目頭がカッと熱く滲んだ。


 桃花ちゃん、どうか助かって。


 お祖母ちゃんもまだそちらには行かないように助けてあげて。


 *****


「もうすぐこっちの桜も咲くよ」


 膨らみ始めた蕾を付けた染井吉野の枝越しに広がる薄青い空に呟いた。


「今年もきっと桜桃がなるよ」


 こちらはまだ固い芽じみた蕾の枝だが、微かに揺らす風はもう暖かで若草の匂いを含んでいる。


「横浜にも送ろっか」


 桃花ちゃんの魂が近くで見ている気がしてこんな風に独り言を囁く場面がこの一ヶ月で増えた。


 端から見れば頭のおかしな子に見えるだろうが、そうしないと従姉の体から遊離した魂が本当に戻れない、手の届かない場所に去っていってしまう気がして止めることが出来ないのだ。


 そもそも学校はずっと休校で本当は今日のはずだった始業式も延期になった。


 この一ヶ月はまともに家の外にも出られず、顔を合わせるのは両親だけなのだから、少しくらい挙動不審に見えたって構わない。


――買い物も郵便出すのもお母さん一人で行くから、あんたは家に居なさい。


 コロナの騒ぎでティッシュやトイレットペーパー、生理用ナプキン等が品薄になり、家族で手分けして買い出しに行った結果、高二の桃花ちゃん一人が車に跳ねられ、一ヶ月経った今も意識が戻らない。


 その報を受けた両親はちょっとしたお使いにすら中一の自分を外に出さなくなった。


「いや、もう中二か」


 三月から休校が延々続いていつの間にか四月になり、今日は中二の始業式のはずだった。


 まだ中一すらきちんと終わった気がしない。


 ふと、ブルブルとズボンのポケットに入れたスマホが震えた。


 LINEが来た。


 画面に表示された名前は「森谷もりや わたる」。


 トクン、と胸が高鳴る。


 サムネイルは今までのギリシャ彫刻の鉛筆スケッチから一輪だけ咲いた薄紅色の桜の写真に変わっていた。


 これは自分で撮った花だろうか。そう思うとまた胸が早打つ。


 むろん、四月のこの時期に桜の写真をサムネイルにする人などこの時期は山ほどいるし、むしろベタなくらいの模様替えだろうが、この人が私と同じ名の花を使ってくれたことに胸が騒ぐのだ。


 急いでタップして会話の画面を開く。


“ずっと休校で友達の誰にも会ってないし、横浜に住んでるいとこのお姉ちゃんが三月の初めに交通事故に遭ってからずっと意識が戻らないんです。とても優しくしてくれた人だし辛い。”


“いとこのお姉さん、そんなに長いんだ。辛いね。”


 一時間程前、私は初めて他人に桃花ちゃんの話をした。それがこの人だ。


“僕は会ったことないけど、早く良くなってほしい”


 返事が貰えて嬉しい一方で、こんな重い話をされても向こうには迷惑ではないかと怖くなる。


 自分にとっては親しい従姉でもこの人にとっては見ず知らずの相手でしかないのだから。


 同時に桃花ちゃんをダシにしてこの人の気を引こうとしているような後ろめたさも覚えるのだ。


“ありがとうございます”


 でも、私はこの人と話したい。


“早く皆で会いたいです”


 本当は桃花ちゃんよりクラスや部活の仲間よりこの人に会いたいのだ。


 じれったさと後ろめたさで胸がキリキリする。


“会いたいね”


 カーッと顔が熱くなるのを感じた。


 いや、これは“皆で会いたい”とこちらが言ったから本当は面倒でも相槌を打ってくれただけだ。


 ただ、この人の会いたい「皆」の中に自分が含まれているのだというだけでも嬉しい。


“自分らも外に出られないよ。かけるも発表会延期になっちゃったし”


 一つ上の航先輩とその弟で私とは同い年の翔くんとは元は同じバレエ教室に通っていた。


 航先輩と自分は中学に入る前後で辞めたが、翔君だけは今も続けている。


 元から翔君は教室でも群を抜いていて航先輩や自分は目立たない方だった。


 けれど、私は昔からプライドが高くて人をバカにした態度を取る翔君は苦手で(翔君の方でもこちらのことなどは『途中で辞めた下手な子』と見下しているに違いない)、誰に対しても優しく接する航先輩の方が好きだった。


“翔君も残念ですね”


 好きにはなれない相手だが、バレエに熱意を持って取り組んでいるのは良く理解できるし(というより翔君の踊っている時は動きはもちろん、まるで人が違って見えるのだ。同じ振り付けを踊っても自分を含めた他の子たちは所詮真似事で彼こそが本物の『バレエ』という感じがいつもしていた)、この人の前では悪く言えない。


 私は一人っ子だけど、従姉妹の梅香ちゃんや桃花ちゃんを貶されたら嫌だ。


 この人にとっての翔君は一つ屋根の下で暮らす弟でもっと近い繋がりなのだから。


“今度は同じクラスみたいだからよろしく”


 そういえば新しくメールで通知が来た二年生のクラスではそうだった。


“こちらこそよろしくお願いします”


 同じクラスになったのが翔君じゃなくてこの人なら良かったのに。


「ただいま」


 玄関からのお母さんの声と買い物袋のガサガサ鳴る音にビクリとしてスマホをポケットにしまう。


 自分としてはまだLINEしていたいが、ちょうど会話の切れ目だし、航先輩にとっても切り上げるタイミングとしては良かったかもしれない。


「お帰りなさい」


 玄関に向かうのではなくリビングの炬燵に入って英語のノートの上に転がした赤鉛筆を手に取り、テキストの次のページを捲って示された基本文型に下線を引く。


 コロナウィルスにうつるといけないからと近頃のお母さんは持ち帰ったばかりの買い物袋にも触れさせない。


 だから、私はひたすら勉強を進めているポーズを取れば良いのだ。


 開いたガラス戸から甘い草花の香りを含みつつ微かに冷えた風が流れ込んでくるが、気付かないフリをしよう。


 *****


「さっきスーパーで森谷さんのお母さんに会ったの」


 お昼の海鮮丼(お母さんがまとめ買いに出た日のお昼は大抵スーパーで買ってきたお弁当になる。それぞれの好みに合わせてお母さんと私は海鮮丼、お父さんは焼き魚の弁当になるのが定番だ)をつまみながらお母さんは笑った。


「森谷さんのお母さん」とは航先輩と翔君のお母さんのことだ。


 真っ直ぐな黒い髪をいつもアップにした、肌の抜けるように白い、端の吊り上がった切れ長い目をした、顎の細く尖った顔と中背だがすらりと手足の長い姿が浮かんでくる。


 あのお母さんも元はバレエをしていて息子たちにも習わせたという話だ。


 バレエ教室に通う子のお母さんの中でも際立って綺麗な人ではあったが、翔君に良く似た、白鳥というより冷たい鶴じみた雰囲気で自分は正直、苦手だった。


「向こうもやっぱりテレワークで旦那さんがずっと家にいらっしゃるって」


「まあそうだろうな」


 お父さんはどこか苦く返すと、パック弁当特有の固まったご飯をまた口に運ぶ。


 お昼を食べたらお父さんはまた書斎でテレワークがあるのだ。


「翔君のバレエもお兄ちゃんの塾も休みだし、翔君の方は家にいても勉強もしないから困っちゃうって」


 お母さんは兄弟の母のどこか取り澄ました口調をなぞる風にして苦笑いする。


「あそこのお宅は夫婦で高学歴だから」


 父親は東北大を出て企業の重役、母親は東京の女子大を出て息子二人とも国立大学の附属小学校に入れたというのがバレエ教室でも有名だった森谷一家のプロフィールである。


「お兄ちゃんは優秀だし黙っていても勉強するけど、翔君はバレエばっかりで全然勉強しないんだって」


「お母さん、航君はトロトロしてパッとしないとか言ってたじゃん」


 自分でも驚くほど苦い声が出た。


――バレエやってて『どうしてお兄ちゃんは下手なの、出来ないの』って言われるのがずっとやだった。


 寂しく笑った彼の顔と声が蘇る。


 中学に入るのと同時に航先輩はバレエ教室を辞めて会えなくなり、もう一度会いたい気持ちもあって附属中を受験することにした。


 通った塾の夏期講習(中学受験する子はもちろん、既に中高生になった人も通っていた)で再会したあの人ははっきりそう言ったのだ。


――だから、中学でも無理して続けるのは辞めたんだ。辞めたいと言ったら、お母さんもあっさり『いいよ』って。それまでも別に無理してやる必要はなかったんだろうなと思うと、何だか空しいよ。


 私もあれでお母さんをがっかりさせたくなくて好きでもないバレエを無理して続けていた、与えられるままピンクや赤のワンピース着てレースのソックスを履いていた自分に、その徒労に気付いた。


「それは小さい頃の話でしょ」


 お母さんは笑って海鮮丼をまた箸で摘まみ始めた。


 何でそんな呑気に笑ってられるの?


 お母さんたちは常に比べられ貶され続けた航先輩がどれほど傷付いたと思っているんだろう。


「バレエなんかいくらやったってプロになれるのはほんの一握りだし、あんなの大してお金になるような仕事でもないよ」


 バレエ“なんか”。


“あんなの”。


 お母さんはそんな見下していることをわざわざ娘に習わせて、あまつさえ他の子たちを品評して傷付けることまでしたのか。


 ぐっと込み上げるものをこらえると、食卓全体に漂う海鮮丼や焼き魚の入り雑じった生臭い、油っこい匂いが唐突に鼻についた。


「翔君がバレエでどの程度まで行くか知らないけど、落ちこぼれてろくな高校にも行けなかったんじゃ恥ずかしいよ」


 緑茶の入った湯飲みを手にしたお母さんは何か見透かした風な目を向けると突き放した声で告げた。


「落ちこぼれってほど酷くはないよ。普通くらい」


 翔君は苦手だがさすがに実際より劣った方に決めつけられて馬鹿にされるのは気の毒なのでそこは反論する。


「お母さん、見てっくれだけで頭の悪い男は嫌いだから」


 相手は鼻で嗤う風に言い捨てるといつの間にか食べ終わった弁当の空きパックをバサバサと重ね始めた。


 その隣のお父さんも弁当は食べ終えて湯飲みの緑茶を啜っている。


 顔がカッと熱くなるのを覚えた。


 お母さんは私が自分より成績の悪い翔君を好きだと勘違いしているんだ。


 本当に好きなのはお兄ちゃんの航先輩の方だし、それだって翔君より学校の成績が良いからではない。


 だが、それは両親の前では言いかねた。


「早く食べて勉強しなさい」


 眉間に皺を寄せてお母さんは顎でまだ半分ほど残っている娘の海鮮丼を示す。


「昨日、英語の予習、二回分しかやってなかったでしょ」


“少しずつでも次の学年の予習しなさい”と言っておきながら、いざやるとお母さんは分量にケチを付ける。


「数学は予習五回分と二年の漢字の予習も六ページやったよ」


 右手にはシャープペンのペンだこがはっきり出来ていて、押すと痛い。


「二年で成績下がったらバスケ辞めてもらうからね」


 むしろ今すぐ辞めろ、という風にお母さんはこの一月余りで幾分伸びた私のショートカットの頭を睨み付けて言い放つ。


「もともとあんなこと、やって欲しくないんだから」


 お母さんはやっぱり私がバレエを辞めたのが気に入らないのだ。


 *****


“Unit 3”


 イヤホンをした耳の中で音声教材の女性のナレーションが響き渡る。


 義務教育の教科書に採用されるくらいだから、恐らくは英語ネイティブの外国人だろうけれど、このナレーションの女性の声は梅香ちゃんに似ている。


“医大生といったところで二年生じゃとても戦力になれないし、今はよそに出られない。増え続ける患者さんにもモモにも何もしてやれない自分が辛いよ”


 半月程前、北海道に住む彼女から来たLINEにはそう記されていた。


 従姉妹三人で仲が良かったが、年上二人の方が自分と二人より結び付きが強かった気がする。


 私はただ、甘えていただけだ。


“with a smile”


 こちらの思いをよそに音声は流れていく。


 *****


“アイコンの桜、きれいですね。どこで撮ったんですか?”


 カップの緑茶を啜りながら、たった今、投稿したばかりの自分のLINEの文面を見詰める。


 既読はまだ付かない。


 もしかすると、航先輩は勉強中で緊急な用でもないのにこんな風に会話を求められるのは迷惑かもしれない。


 私はともかく向こうは今年は中三で受験生なんだから。


 そう思うと、急速に恐怖と後悔が襲ってくるが、かといって文言を削除するのもいかにも失言をしたようでためらわれた。


 気持ちを落ち着けるつもりでもう一口緑茶を含むと苦味が浸すように広がる。


 桃花ちゃんの事故の知らせを受け取ったあの日から、時間と共に血溜りじみた色に近づくティーバッグの紅茶は避けて急須から淹れた緑茶を飲むようになった。


 だが、なかなか加減が難しくて、薄くて食い足りない感じを覚える時もあれば、こんな風に酷く苦くなる時もある。


 眺める内に問い掛けの形で結ばれた自分のメッセージの横に小さな「既読」の二字が現れた。


 トクン、と胸の奥が弾むように高鳴った。


“うちの庭の桜。ちょうど俺の部屋のベランダにすぐ近い枝が咲いた”


 アイコンは白ともピンクともつかない花が一輪だけ咲いた写真だ。


“日当たりのせいか、毎年その辺りの枝は早く咲き始めるんだよね”


 こんな風に付加的な情報をくれるところを見ると、航先輩は自分とのやり取りを嫌がってはいないのだろう。


 自然と顔が綻ぶのを覚えた。


“うちは染井吉野もさくらんぼもまだ蕾です”


 桜桃がもっと後なのは航先輩も知っているだろうが、どうしても話を膨らませたくなる。


「また、スマホ見て」


 不意にお母さんの声が飛ぶ。


 頭から冷や水を掛けられたようにビクリと震えた。


「今、休憩中だから」


 英語をきっかり一時間勉強して、今は十五分間の休憩中だ。


 時計は後五分ほど猶予があることを示している。


「三年の先輩からのLINEだし」


 こう言っておけば、女子バスケ部の先輩とお母さんは思うはずだ。


 相手は眉根に皺を寄せて首を横に振った。


「今は部活もないし、外で練習やるから来いなんて言われても、あんた、行っちゃダメだからね」


 外に出るなという話になると、お母さんの声には禁止よりも恐怖が滲む。


「大丈夫だよ」


 ズボンのポケットにスマホを仕舞ってまた英語の参考書とノートを開く。


「向こうも家で受験勉強始めたんだって」


“with a smile”


 シャープペンを手に取って再び単語の練習をしながら、この一時間が終わったら、もうこのリビングではなく二階の自分の部屋で勉強しようと決めていた。


 今までは寒さの余波があるからこのコタツのあるリビングで勉強していたが、航先輩とのやり取りでもう暖かい春が来たと分かったから。


 *****


“さくらんぼの花ももう散り始めで、青い実が見え始めました”


 たった今、撮ったばかりの写真を投稿し、コメントを付す。


 ふっと息を吐いて吸い込むと、青葉の香りがした。


 振り向いた染井吉野の木はすっかり青緑の葉に装いを変えている。


“ゴールデンウィークもずっと家にいたけれど、いよいよ来週からは学校がちょっとずつ始まって皆に会えるのかと思うと嬉しいです”


 本当は「皆」ではなくこのコメントの送り先のあなたに会いたいのだ。


 中学から来た分散登校の知らせを見る限り、私と航先輩のクラスは登校日や時間帯が被っているから、二ヶ月ぶりに直に顔を合わせられる。


 何となくウキウキして、まだ会っているわけでもないのに髪を直す。


 この二月でショートカットからおかっぱ頭にまで伸びた。


 この一年は極力短く切り揃えてきたけれど、今はこのままでも良い気がしている。


 というより、多少なりとも女らしい姿を航先輩に見せたいとすら思う。


“しつこいようだけど、今度は同じクラスだし、翔と仲良くしてやって欲しい。昔から人付き合いが下手で誤解されやすい奴なので”


 一見すると朱色の桜桃に良く似た、しかし、周りの葉っぱに対して微妙に小振りの大きさから染井吉野の実と分かるアイコンが語る。


“櫻子ちゃんは優しいからきっとわかってくれると自分は信じている”


“分かりました”


 学校でこちらが挨拶しても不機嫌な顔つきで素っ気なく返す、あの権高な翔君が仲良くしたがっているとはとても思えない、むしろ、向こうがお断りなんじゃないかと思うけど、それでもこの人のたった一人の弟である以上、私はこう返すしかない。


“ありがとう”


 小さな赤い実の告げる五文字に、トクン、と胸が熱く鳴る。


 ザワザワと風が木々の葉を揺らす音がして、今しがた撮ったばかりの桜桃のまだ若緑色の実も震えた。


 こちらが熟すにはまだ時間が掛かるのだ。


 ふと庭に降りるために開け放したガラス戸の隙間から、温かなトマトソースの匂いが流れてきた。


 どうやら今日のお昼はナポリタンみたいだ。もう出来上がる頃だろうから食卓を布巾で拭いてフォークと粉チーズを出してこよう。


 そうしないとまたお母さんが「気が利かない」と食事中もずっと不機嫌になるから。


 この二ヶ月ですっかり身に付いた反射神経でガラス戸からリビングに上がったところで、台所から母親が出てきた。


「はい。今は大丈夫です」


 スマホを片手に話す顔に緊張が走る。


 伯母さんからだ。


 直感で分かった。


 背筋がビクリと震えてワーッと胸に血がせり上がってくる。


 事故から二ヶ月余り。ずっと意識の戻らなかった桃花ちゃんは……。


「意識が戻ったんですか!」


 お母さんの顔がパッと明るくなった。


 一瞬、目に映る部屋全体が全てそのままなのにあたかも色鮮やかな目映い輝きを放ったように両目に焼き付いた。


「おめでとうございます」


 スマホに語りかけるお母さんはこの二ヶ月、一度も見せることの無かった晴れやかな、安堵の笑顔だ。


「何か必要な物があれば送りますのでまた連絡下さい」


 むしろ、自分が必要物資を頼む側であるかのように頭を下げると、祝福の口調で続けた。


「それではお大事に」


「桃花ちゃん、治ったんだね!」


 お母さんの完全に電話を切るのが待ち切れない気持ちで話し掛ける。


「まだ、色々リハビリが必要みたいだけど」


 とにかく彼女の魂は去らずにこの世界に戻ったのだ。


「お昼にしましょう」


 お母さんの言葉に頷いてから、背後にスースーと微かに冷たい風が吹き付けるのに気付く。


 おっと、ガラス戸をまだ閉めていなかった。


 ガタンとガラス戸を閉じて鍵を締める。


 ガラス越しに花から青葉や果実に装いを変えた、または変えつつある二本の木が初夏の陽射しを緑色に照り返す。


 全てはこれからだ。


 これから良くするのだ。


 二本の桜の木の上にはこの二月でより高くなった青空が広がっている。(了)

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桜の咲く季《とき》 吾妻栄子 @gaoqiao412

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