教訓
物心がついた時から自分は自分ではなかった。
いや、自分であることに変わりはないのだけれど、性格だとか生き方だとかそういうものが本当の自分ではないのだと言いたい。
まだ両手で数えられるギリギリの年齢の頃、うっかりコップに入っていた少量の水をこぼしてしまったことがあった。
不運にも、その水が流れたのは父の所有物であろう薄っぺらい紙の上で、その瞬間に大袈裟ながらも、「この世の終わりかもしれない」と酷く震えた。
そうして自分は何とかして父にはバレない様にしなければならない、と謎の決意を固めた。
然し、そんな決意は無意味だと煽るかの様に父は直ぐにソレを見つけてしまった。
これ迄にないくらい冷たく、死んでいると言った方が合っているかのような眼を此方に向けてくるものだから、思わず「自分がやりました」と自白してしまった。自白をするか、しないか。後者の場合だとしても恐らく、というより百に近い確率で父にはバレるだろうから、自白をしたこと自体は正解だったのだろう、と今でも思う。
それから長い沈黙の間(自分はそう感じただけであって、実際はそう長くなかった筈だが)、父が口を開いたかと思うと、
「他に言うことはないのか。人の大事な物を汚したのに、するのは自己防衛か。愚かな人間だな」
その当時は『自己防衛』なんて言葉は勿論、『愚か』の意味さえも分からなかった。
それでも、父の話し方や声の低さで何とか理解をしようとした結果、頭の中に出てきたのは『怒られないようにする為には』という問いで、自分は何時の日か学校でも教わったように謝ることにした。
すると父は
「今頃謝ってどうする。私に言われてから謝罪するようでは、社会でやっていけんぞ。自分を護ろうとするのは如何にも人間味が出ていて面白いが、私は気に食わんぞ」
と、又もや訳の分からない言葉を並べてきたものだから、ついつい顔を顰めてしまった。
すると、乾いた音と共に頬に鋭い痛みを感じた。
ああ、やってしまった。
自責の念に陥りながらも、起きた出来事を頭の中で整理しようとしたのを、遮られた。
「いい加減にしろ。一体、貴様はいつからそんな不格好な人間になったのだ。子の恥は親の恥だ。それでは私が笑い者ではないか」
「はい、気を付けます」
「馬鹿者!気を付けるだけでは防げぬ。先ずは嘘をつくのを辞め、正直になれ」
「はい」
父に力強くそう教えられた。
そしてこの瞬間、『嘘は絶対についてはいけない』という教訓が頭の中に染み付いたのであった。
それから数十年経った今、父はもうこの世の者ではない。
余りにも早過ぎる死で、真っ黒な衣服に袖を通して参列する例の式に参加してくださったのは、僅か数人という哀しい最期であった。
父の教訓は数十年経った今こそ憶えている。
『嘘は絶対についてはいけない』
父の言葉は本当に正解であったのだろうか。
然し、社会に出てみれば、父の教訓など真っ赤な嘘であると気付かされるだろう。
『社会』という名の広いようで狭い檻の中で憐れな争いが起きているのだから。
自分の意見は迎合すべきである、と何時かの上司に教えてもらったことを記憶している。
それが正解なのであれば、父の言葉は不正解であろう。
迎合とは、自分の意見を曲げてしまうことに変わりはない。
つまり、自分自身にも嘘をついていることになるのだ。
父が見てきた『社会』というのは随分と緩い所であったのだろう。
嘘とは大抵悪く思われがちだが、時には役に立つものなのである。
人間関係など嘘で成り立っているも同然だろう。
嘘に嘘を重ね、嘘を押し付け押し付けられる様な関係性は今となっては最早、日常茶飯事であり、普通なのだと思う。
この世に『嘘』が生まれた瞬間こそ、成功の元になり得ることもあるのだ。
嘘をつこうがつくまいが、元々人間が愚かであるという事実は存在しているのだから、気にはしない。
愚かに愚かを重ねるか。
愚かを背負うか。
何れにせよ、自分に得がある方を選ぶのが良いだろう。
嘘をつくことは時に人を傷付けるが、反対に人を救うことも多くあるのだ。
嘘をついて救う生命など汚い。
そんな綺麗事は言っていられないだろう。
ひとつの美しき生命を救えるのならそれでいい。
誰かが不幸になるような嘘をつかなければそれでいい。
『嘘』という言葉が存在する以上、嘘はこの世から消えないのである。
嘘を上手く使いこなすことができるようになった時、それはもう立派な大人になれている証拠だろう。
嘘をつけ、と言っているのではなく嘘にも、良い悪いがあるのだということを言っているのだ。
人を幸せにできるような嘘ならついたって構わないだろう。
然し、その優しさが時として凶器にさえなってしまうのだから、やはり難しいものだ。
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