十年前のあの日、まさに忽然と姿を消してしまった母を、エミリアは恨んだり、嫌いになったりはしなかった。


 それは、いつになっても変わらず母を大好きな父と暮らしていたからだったし、アウレディオやフィオナのような小さな頃からの友だちが、母との思い出をエミリアと一緒に、宝物のように大事にしてくれたから――。


 母を思い出す時は、悲しいよりも寂しいよりも先に、温かく優しい気持ちになる。

 それはきっと、今でもずっと変わらず、エミリアだって母を大好きだからだ。


(ああ、お母さんが帰ってきたんだなぁ……)

 細い腕に抱かれていると、そのことを改めて実感する。


 涙が溢れてきた。

 普段は人前で泣いたりなどしないのに。

 今は、子供のように泣いてしまっても優しく頭を撫でてくれる人がすぐ傍にいる――そのことがとてつもなく嬉しかった。




 しばらくの間、エミリアと母は抱きあったまま静かに涙を流し続けた。


 アウレディオは何も言わず、そんな二人からは視線を逸らして、ただ紅茶を飲んでいたが、その表情はいつになく満ち足りて穏やかなものだった。


 母が煎れ直してくれた温かい紅茶のカップを手に、エミリアは落ち着いてもう一度、ソファーに座り直す。


 向かいあって改めて眺めてみると、確かに母は天使以外の何者でもなかった。

 よく絵の中の天使が着ている白いズルズルとした服を着せてみたなら、そのまま教会に飾られている宗教画にもなれそうだ。


「お母さん、本当に天使なんだね……」

 しみじみと呟くエミリアに、母は少し誇らしそうに微笑む。


「そうよ。天界っていうところから来たの。神様がいらっしゃるところね」

 さも当たり前のことを言っているかのような口調に、エミリアもアウレディオも思わず目を見開いた。


「神様って……本当にいるの?」

「もちろんよー。お母さん、これでも直にお会いできるぐらいのところでお勤めしてたんだからー」


 誇らしそうに胸を張られても、いったいどんな反応を返せばいいのかよくわからない。

「へ、へええ」

 エミリアの返事は少し乾いたものになってしまった。


 その様子に、隣でアウレディオがふうっとため息を吐く。

 いかにも、(なんだよその返事……)と言いたげな態度に、エミリアは少しムッとした。


(だって……他になんて言ったらいいのよ……?)


 ところが母は、そんな二人の剣呑な雰囲気になど気づいていないらしく、とても有り得ないような話を、さも当たり前のように意気揚々と続ける。


「お母さんねー、本当は十七年前に大切なお仕事があって、人間界に来たの」


(に、人間界……?)

 エミリアは再び疑問の呟きを漏らそうとしたが、隣に座ったアウレディオに軽く足を蹴られた。


 ムッと目を向けると、大きな蒼い瞳が、(いいから黙ってろ。話が進まないだろ)と語っている。


 その迫力に気圧されて、エミリアはすごすごと言葉を呑みこんだ。

(はい……)

 

「でも失敗しちゃって、というかお父さんと出会ってしまって……」

 両頬に手を当てて、陶器のような白い肌をほんのりとうす桃色に染める母は、エミリアの目から見ても少女のように愛らしい。


 しかし恥らいながらも嬉しそうに、父との出会いから思いが通じあうまでの恋物語を延々と聞かされていると、エミリアとアウレディオのほうが、母よりもよほど赤面してしまう。


「お父さんと恋をして、エミリアも生まれて、人間界でこのまま暮らしたいなーなんて思ってたんだけど……それはやっぱり簡単にはできないことだったの……」


 薔薇色のロマンスからいっきに十年前のあの日へと、エミリアは意識を引き戻された。

 ――エミリアの七歳の誕生日。


 前日まで『プレゼントは何にしよう?』とか『料理は何がいいかしら?』と本人以上にとても楽しみにしていた母は、当日エミリアが学校から帰った時には、忽然と姿を消してしまっていた。


「それで……私の七歳の誕生日に、突然いなくなっちゃったんだね……」

 今度ばかりはアウレディオも、エミリアが母の話に口を挟むのを邪魔はしなかった。


「ごめんね、びっくりしたでしょう……? お父さんとは、いつかそんな日が来るかもしれないねって話してたんだけど、エミリアはなんにも知らなかったんだもんね……」


 あの日の悲しい気持ちがありありと胸に甦ってきて、思わずまた泣き出してしまいそうになるのを、エミリアは必死に我慢した。


「エミリア、がんばったわね……遠くからだけど、お母さんずーっと見てた。エミリアのことだったら、なんだって知ってるわ。パンの焼き方は、ちゃんとパン屋のダンさんに教わったのよね。刺繍のコンテストで一位を取ったのも知ってるわ。庭の花壇には、毎年新しいお花を三つずつ増やしてる……」


 母が嬉しそうに語る中には、エミリアが誰にも打ち明けたことのないような事柄も含まれており、嬉しさと恥ずかしさで頬が熱くなる。

(本当にそうなのか?)と訊ねてくるようなアウレディオの視線は、気恥ずかしいので無視する。


「でもね、お母さんもがんばったの。なんとか人間界に帰れるように必死にお願いしたの。十年もかかっちゃったけどね……」

 エミリアははっと母の顔を見つめ直した。


「それで? お母さん、今度こそここで一緒に暮らせるの? もうずっとこっちに居られるの?」

 飛びつくようなエミリアの問いかけに、母の翠の瞳が一瞬揺らいだ。

 苦しそうに眉根を寄せ、静かに首を横に振る。


「ううん。私が今回人間界に来たのは十五年前のお仕事の続きなの。今度こそは絶対に成功させないといけない……その結果次第では、ひょっとするとずっとこっちにいられるかもしれないけど……でもそしたら……」


 母の話はまだ続いているようだったが、エミリアの耳にはすでに聞こえていなかった。


(仕事がうまくいったら、お母さんとずっと一緒に居られるかもしれない!)


 その事実だけが、すっかり心を支配してしまっていた。

 だから母の話の続きも待たず、勢いこんで申し出る。


「お母さん、私手伝うよ。お母さんのその仕事ってやつ、私も手伝う!」


 母はホッとしたように、けれどもなぜだか少し辛そうに、エミリアの顔を見つめた。


「ありがとう……本当はこの仕事、エミリアの協力がないとこできないことなの……」

「え? ……私? ……だったら私にお母さんが天使だってばれなかったら……いったいどうするつもりだったの……?」


 鋭い指摘にも、母の表情は変わらない。

「ふふっ、それもそうね……」

「何ー? 変なの。本当に大丈夫なの?」


 笑いながら首を傾げるエミリアにあわせて、母も笑った。

 しかしその時の母の実際の胸中は、とても笑えるようなものではなかった。


(エミリア、ごめんなさい……)

 この先とんでもない使命を負わせることになる娘への、懺悔の思いでいっぱいだったのだった。

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