まほろばの魔女

一集

まほろばの魔女




 雑多な喧騒に覆われていた街中で人々は一斉に足を止めた。

 それは時が凍ったかのような、奇妙な光景だった。


 一体なにが、と誰もが頭をひねり、最後に人々は空を見上げる。


 突如隠れた太陽を。


 雲に隠れたにしては暗すぎる。

 けれど、知識を重ねてきたヒトは賢明にもその現象に名前を付けることができた。


「日蝕……なんて、言ってたっけ?」


 そこらかしこで聞こえる呟き。

 けれど顔を見合わせた知人、そこにいただけの他人、誰も肯定を返さない。


 いまこの時代でもその現象は希少で、それなりに話題に上るはずなのに。

 そしてこの時代だからこそ、予測が外れるなんてこともない。

 心当たりはあれども情報がないとはまた、不思議なこともあるものだ。


 そうこうしているうちに空が晴れた。

 まるで、一瞬の夢。


「……なんだったの??」


 キツネにつままれたような気分で、けれど人々は当たり前のように日常に帰っていく。


 『不思議』が入り込む余地などないほどに暴かれた世界だ。

 コレ・・も一般的に知られていないだけで、誰かがその現象の名を知っていることを、あるいはすぐに名がつき、解明されることを人々は知っていた。


 だから見上げていた首を戻し、止まっていた足を動かし、いつも通りに街はざわめき、行き交う人々でごった返す。


 とっさに空にカメラを向けた人もいるには居た。だが、見返してみればそこには何の変哲もない青空が広がっているばかり。


 実際のところ携帯画像だけの話ではなく、宇宙から気象を観測する衛星も、地上から空を見上げる観測所も、何一つ異変を知らせてはいなかった。


 であるならば、それはただの幻。

 人々が見た真昼の夢。

 自分の目より、与えられた情報を信じる。情報に対する盲信こそが人類が新たに抱えた病の一つだったのかもしれない。


 だからその不可思議な出来事はニュースで取り上げられることはなく、しかし少しばかりネット界隈を騒がせた。


 つぶさに、真剣に、その出来事を追っていた者がいたならば、きっと気づくことができただろう。

 ――その異変が一地域に留まらないことを。


『そういえば、きょう日蝕あったよね。突然だからびっくりしちゃった』

『え、家にいたから気付かなかった。……てか、日蝕なんてないじゃん。気象情報の公式サイトいま見てるけど、どこにも出てないよ?』

『あれえ?』

『太陽が翳ったのを見間違えたんじゃない? 日蝕がニュースで取り上げられないわけないんだし』

『そう、かな? そうかも?』


 そんなやり取りが、無数に見受けられた。


 ――――世界中で。


 目撃者は、全人類。

 その規模、全世界。


 人類全員が見た幻などあるものか。

 その事実は、『現実』を指し示す。

 計測されずとも、それは確かに起きたことなのだ。


 時間が許されていたのなら、人々もやがては気付いただろう。

 情報社会も万能ではない。

 一人二人が気付き、その呟きを拾う者がデータを集め、誰かが精査し、誰かが吟味し、それが情報として反映されるにはそれなりの時間がかかる。


 その時間は、なかった。

 現実が先に追いついた。


 ――あの日、世界が一変した。


 それを人々が知った時には、すべてが遅かったのだ。






 §   §   §






 『紬木つむぎまほろ』は空を見上げる。


 日本、東京。

 大都市の空は曇天。

 季節は春過ぎ。いまだ夏の足音は耳を澄ませば聞こえる程度。

 肌を撫でるように柔らかく緩みつつあった空気は、昨日までの雨を引きずり今日に限っては湿気を含んでいささか重い。


 つられるようにすこし重いため息を吐いた。

 それでも雨よりましかと思い、「いや、アレよりましか」と思い直す。


 世界では、闇に覆われているところも多いのだ。


 ……残念ながら夜時間の話ではない。

 ソレらは夜にすら配慮せずに忍び寄る。


 ビルの壁面に設置されている大型ディスプレイが淡々と世界の情勢を映し出していた。

 暗闇に覆われた地域を。


 なにが起きているのかわからないと現地アナウンサーが喚いていた。

 映し出されている光景は理解不能。

 闇だ。ただの、闇。

 だが闇が晴れた後の世界はきっと酷いもので、蹂躙されたとしか表現できない惨状になっているのだろうと予想がつく。


 現実味がなさすぎるのか、あるいはこのひと月程で慣れたのか、そこを通る通勤通学者たちはちらと視線を投げて、興味なさげに足を速めた。


 ただその足取りは重く、表情はひどく暗い。

 現実逃避だと、みなわかっているのだ。

 わかっているけど、なにをしたらいいのかわからないから、日常を装う。


 日常生活さえ送っていれば、現実が迎合してくるとでも思っているのだろうかと「まほろ」もまたディスプレイに背を向けた。


 ――会社に行くのだ。


 日本は平和だった。

 なにも起こっていない。

 世界から齎される情報は頭がおかしくなるような非現実的なものばかりだけれど、それだけ。

 社会がパニックに陥るには、喧騒は遠い。

 あるいは嵐の前の静けさなのか。


 なぜこんなことになっているのか、さっぱりわからない。

 自然の摂理だというのなら、甘んじて受け入れるべきなのだろうか。世界が人類に滅びを囁いているのだとしたら。


 まほろは鬱陶しい長い黒髪に隠れて皮肉気に唇を歪めた。

 自分一人が拒否したところで、自分一人が受け入れたところで、世界が変わるわけではない。

 考えるだけ無駄だと思った。


 朝起きて、普段通りに電車に乗り、当たり前のように仕事をして。

 アレ・・から目を背けることができないくらい、眼前に現実が迫ってやっと、悲鳴を上げる。


 ――それは今日だろうか。あるいは明日だろうか。


 どうせ、逃げる場所はない。

 それがわかっているから、最後まで人々は目を瞑っているのだ。


 日常こそが得難いものだったと、噛みしめながら。

 失う前に堪能しておこうとでもいうかのように。


「おはようございまーす」

「はよー」

「今日は忙しいですかね?」

「こんなご時世なんだ、そう忙しくもないだろう」

「確かに」

「今日は定時で上がりたいなあ」

「あ、俺ちょっと昼から外回り行ってくるから」

「三時からの会議って開始を少し早くできないもんか?」

「あー!!! これ、今日期限の書類じゃないか!! 誰だ、ここに放置したやつ!」

「先輩、今日の訪問客で、」


 ざわめきが演出する日常感のなんと心地いいことか。

 まほろは気づかれないように小さくほっと息を吐いた。

 一人だと現実に侵食されるばかりだが、人数は力だ。数は偉大だ。


 会社はオフィスビルの三階部分を借り切っている。おかげで多少騒いだところで他社から文句を言われることもない。


 この会社に在籍するのもそれなりに長くなった。

 10年選手ともなれば半分以上は後輩で、入社当時先輩と慕っていた者は立派な肩書を持つに至っている。

 まほろはいまだに平社員だが、特に不満はなかった。

 あるのは他者との衝突を回避するための取り繕ったような当たり障りない性格と柔和な笑顔で固定された表情の仮面くらい。役職などつけられても逆に困る。


 会社とは言え、一営業所でしかないこの事務所の社員は20人程度。しかも幾人かはアレ・・から会社に出てきていない。少しばかり風通しがいいのはそのせいだ。


 身近な人との最後のひと時を過ごしているのなら、文句をいうのは無粋というもの。

 むしろ残された時間の使い方としては、一番正しいのではないだろうか。


 まあ、日本がこのままアレ・・の被害から免れられるのだとしたら、仕事を捨てる選択をした馬鹿な奴、ということになるのだろうがそんなものは結果論だ。


 事務所内のテレビは普段は消されているのだが、アレが起きてから連日つけっぱなしの垂れ流し状態。目を背けたいが、見ないのも怖い。

 そんな複雑な感情故の対応策だった。


 自分の席で仕事をしながら朝の情報番組を聞くとはなしに聞いていたが、ついに彼の大国アメリカも一部ではあるけれどアレが現れたらしい。

 やはり日本だけ、なんてのはただの幻想なのだろう。


『ああ! 空が! 空が突如翳りました! まさか、ここにも!!』

 現地中継中に遭遇した際の録画データなのか、そんなアナウンサーの驚きの声がリプレイされていた。

 太陽が消え、空が落ちる。

 そんな光景と共に。


 ――そう長く留まらないといいのだけれど。

 まほろは誰にともなく小さく願う。


 ソレ・・は寄せては引いていく波のようなものだと認識されつつある。

 ならば押し寄せている時間が短ければ短いほど、被害は少ないに違いないのだ。


 ちらと社内を見回せば、他よりはよほど身近な国名に現実感が襲ってきたのか、みな顔色が悪い。


 ――いよいよ時間の問題かな。


 まほろはぼんやりと天井を見上げた。

 とはいえ、親類縁者のない独り身の自分には最後の時に共に居たいと願う人はいない。

 現実から目を背ける人々に追従して、淡々と日常を装う日々を過ごしているのはそんなわけだった。


 と、しんと静まり返ったテレビの喧騒だけが響く社内にタイミングよく人の声が掛かる。


「失礼いたします。こちらに『紬木つむぎまほろ』という方はご在籍でしょうか」


 会社の入り口。

 静寂を破る聞き知らぬ声に、反射的に皆がそちらに首を向ける。

 もちろんまほろも例に漏れず。


 そこにはスーツ姿の背の高い若い男と、薄いトレンチコートを羽織った中性的な男が二人で立っていた。

 会社員にはない独特の雰囲気が滲み出て、それが彼らの職業をなんとなく人々に悟らせる。

 証拠に、彼らは身分を示す手帳を黄門様御一行のように構えていた。


 一般人には縁のない人種の突然の来訪に、同僚たちが少しばかり緊張に身を強張らせた。

 特に悪いことをしているわけでもないのになぜか落ち着かなくなるあの現象だろう。


 声を出したのは先頭のスーツ男らしい。熱の籠った目と、強張った顔で、なにやら決戦にでも挑もうかという気概が見える。


 彼らの言葉の内容を理解した同僚たちの視線が、一体何事かと彼らの探し人であるまほろに集まった。

 まほろ自身、生まれてこの方同姓同名に会ったことがない。それくらいには珍しい名前だ。人違いの線は限りなく薄い。


 その視線を追って、闖入者たちもまほろに目を止める。

 目は口程に物を言う。なんて言葉を実践した形だ。


「あなたが、紬木つむぎまほろさんですね」


 確認のように聞いてきたのはもう一人のトレンチコートの男。

 よく通る涼やかな声に、こんな時にも関わらず女性社員たちが思わずほうとため息を漏らすのが聞こえた。


 それも致し方ない。

 スーツ男よりは立場が上なのだろうと思わせる貫禄があるが、顔に年齢が反映されないたちのようだ。年齢を当ててみろと言われればブレ幅が大きいだろうと予想がつく顔立ちは、――実に整っている。


 だが一般女性と違ってまほろは人の顔の美醜に疎い自覚が十二分にある。

 認識できないのではなく、どうでもいい、という意味で。

 そんなわけで、イイ男からのご指名であっても特に心を動かされることなく、自分の感情に素直の従うことができた。


 舌打ちしたい気分をきれいに隠して、意識してにっこりと笑う。

 久々の極上の笑顔は会心の出来だった。


「いいえ?」

 ちがいます。


 あっさりとした否定にぎょっと同僚たちが目を剥いたのがわかった。


 彼らにとって紬木つむぎまほろという女性はひどく人当たりのいい人物で、この社内では人々の緩衝材のような役割を果たしている。

 八方美人、といえば言葉は悪いかもしれないが、誰かが困っていれば助け、誰かが憤っていれば話を聞き、悲しんでいれば慰め、不機嫌を宥める。誰からも敵意を向けられない希少な人間。それが彼女だった。


 そんな人物が警察(らしき人)に捜索されていることも、ましてこうも堂々と国家権力に嘘を吐くなど、どうして驚かずにいられようか。


 同僚たちの反応を見逃すわけがない、観察のプロは当然それを指摘した。


「ご同僚の方はそうは言っておられないようですが?」

「確かに言ってはいない・・・・・・・ようですね?」


 事実、同僚たちは一言も声を発していない。

 長年の知り合いと国家権力との間で態度を決めかねて、視線が右往左往と大忙しでそれどころではなさそうだ。


 なんだか相手を突っぱねているこちらが申し訳なくなるくらいの動揺ぶりだが、ここで折れるわけにはいかない。


「なるほど。ではお名前をきかせて頂いても?」

「名乗るときは自分からって、習いませんでした?」


 のらりくらりとした中身のない会話。


 もはやまほろを知らない者を見るような目になった十年来の付き合いである同僚らとは、ここが縁の切れ目になるようだ。


 諦観が心を行き過ぎる。

 この招かれざる客を無事に追い返したとして、『一般人、紬木まほろ』が大打撃を受けていることに変わりはない。


 とても居心地がよかった、とは伝えない方がいいのだろう。

 振り返ってみればいつの間にか10年。確かに少し長居しすぎたかもしれない。

 ……というのは、後付け理由。

 自分を無理やり納得させる理由の一つや二つ、あげつらっても罰は当たらない。


 それでも惜しむ心が残るから、その原因である目の前の男たちには非常に強く思うところがあった。


「なにかご用でしたら、令状でも持っていらしたら?」


 任意では動かないぞという主張である。

 なんなら強制でも無視する所存だが、別に言葉にする必要はないだろう。


 トレンチコートの男がぴくりと眉を動かした。

 お綺麗な顔だけに、感情の発露が顕著だ。

 一言で表現するなら、迫力のある怖い顔。

 まほろはもちろん怒りマークの浮かんだ笑顔で受けて立つ。


 片や不機嫌そうな美形男、片や笑顔の女による睨み合い。

 互いに譲る気はないとわかる、無言の圧力が辺りに充満する。


 居心地の悪い空間を無理やり破ったのは、まほろが失って久しい若さと情熱とを身にまとった男。


「大人しく我々に従え、紬木つむぎまほろ!」


 ずずいと自分の上司の前に出たスーツ男が声を荒げた。

 さきほどちらりと目にした身分証を信用するなら、彼の名は安眞根あまねというらしい。随分と珍しい名前だと思ったせいできちんと記憶に刻まれてしまっていた。


 内心スーツ男より熱血男の方がふさわしいあだ名かと思いながら、まほろは呆れた目を向ける。

 当然、彼にも不満そうな顔と声を隠さない。


「だから、違うって言ってるのに……」

「御託はいい! 我々には時間がないんだ。お前だってわかっているだろう!」


 その台詞にまほろは少しだけ考えるそぶりを見せた。

 時間がない、その意味。

 きっとアレのことだろう。

 今現在、世界各国を混乱に陥れている謎の現象。

 アレ、より『ヤツら』と言った方が正確だろうか。


 そして口を開こうと、

 ――した瞬間。


 ずうんと、重い振動が建物を襲う。


「なんだ!?」


 驚きの声を上げられたのは安眞根だけだ。


 まるで地震のような。

 だが決してそうではない。

 地面も、窓のブラインドも揺れてはいなかった。


 世界が滑り落ちるような感覚に皆が目を瞑り耳を塞ぎ、思わず床に座り込む。

 強烈な目眩だと脳が誤認する何か。

 体内に響く地鳴りに似た不快な重低音。

 吐き気が込み上げて、思わず手で口を塞ぐものが相次いだ。


 肉体と、あるいは魂と呼ばれるものがあるとするなら、それを無理やり引きはがされているような奇妙な感覚に耐えられる者は少ない。


 平然と立っていられたのは二人だけ。

 紬木つむぎまほろと、トレンチコートの美形男、印南いんなみのみ。


 あいにくとまほろは国家権力からは距離を置いているため、大して彼の情報を持っているわけではないが、たしか特務機関とか対策室とか、そんな感じの組織に所属する『室長』の肩書を持っている男、……だったはずだ。


 まほろも印南も同じタイミングで点けっぱなしのテレビに目をやった。

 他所の情報を求めるならそれが一番手っ取り早いと思ってのことだ。


 想像通り、報道スタジオ内にもまた同じような状況が広がっている。

 きっと、全国各地で同じことがおきているのだろう。


 同じビルの中でも上階に勤めている者たちが階段を駆け下り、外に逃げだそうとしている慌ただしい足音が事務所まで聞こえてきた。

 すぐに動けているところを見るに、下階の方が衝撃が強かったのかもしれない。


 だが地震でもあるまい。外に逃げるという行為はどちらかといえば、この現象に限っては不正解だ。

 ――ただし、建物内に留まるのも正解とは言えないが。


『なにが起きたのでしょうか。確かに強い衝撃をいま感じました!』

『どうか皆さま、落ち着いた行動を心がけてください!』


 報道精神の賜物か、社内の人間よりよほど早く立ち直ったテレビの中の人々は、起こった異変をいち早く言葉にして伝え始めていた。


 そうしてまほろの周りで座り込んでいた人々が立ち直る時間を待っていたかのように、再びスタジオが浮ついた。

 先ほどの混乱とも違う、不穏などよめきがその正体。


『こ、これは!』

『中継が繋がっています! ごらんください!』


 ぱっとスタジオ内からスイッチした映像が、一瞬なにを映しているのかを人々は認識できなかった。

 だがそれがどこかの空を映したものだとすぐに気づく。


 そのどこかの空。

 まるで太陽が落ちたかのように、まるで一部の空間が切り取られたかのように、不自然に翳っていた。


 焦りを見せながらきょろきょろと首を動かす同僚たちは、窓の外に広がっている曇天の先の太陽を探しているのだろう。

 幸いなことに、ここらの太陽はまだ無事らしい。


 太陽捜索に加わらずテレビを凝視していたまほろの前で、映像の右下に位置情報が加わった。


 太平洋側、伊豆諸島を臨む東京湾。

 そこから東の空を映した映像。


 太陽のかわりに空に鎮座した暗闇。

 ぽっかりと闇に切り取られたような不気味な空間は、あるいは中空に穿たれたブラックホールのようにも見えた。

 じっと目を凝らせば、それがイナゴの大群のように、滲むように、侵食するように徐々に広がりを見せているのがわかる。


『ついに、……ついに!』

『来たのか』

『……終わりだ』


 戦慄の声。

 呆然とした声。

 脱力した声。


 テレビの向こうの人々が、情報を伝える者としてではない、仮面が剥がれ落ちた素の言葉でそう呟いているのが聞こえた。


 世界各地で起こっている異変は、ついに日本を飲み込みにやってきたらしい。

 いまだ被害のない日本が密かに抱いていた、ここだけは免れるかもしれないという希望はいま潰えた。


 まほろは少しだけその光景を、なにを考えているのか推察できない顔で眺めてから、すいと表情を収める。


 そうして次に、安眞根あまねに向かってにっこりと微笑んだ。


「……それで? 国家権力機関が、今さら紬木まほろになんのご用?」


 あまりにもしつこい上に、これ以上ごねても話が進まない。仕方なく『紬木まほろ』本人だと認めてやる気になったのだ。

 だというのに、まるで何事もなかったかのように先ほどの話の続きを始めたまほろを、安眞根あまねは理解できないものを目にしたかのようにぽかんと見つめた。


「なに言ってるんだ……。お前、アレを見てなにも思わないのか?」


 はて、とまほろは首を傾げる。

 なにか思うような出来事が起きただろうか、と。


 そんなわざとらしい仕草に、案の定安眞根が激昂する。


「人が、死ぬかもしれないんだぞ!? いや、実際死んでる! あれを見ろよ!」


 指さす先には切り替わるテレビ画面。

 ついに日本に迫った異変と、異変に飲み込まれつつある各国。

 入れ代わり立ち代わり闇が訪れ、中には居座られた不運な地域もあるらしい。

 闇に飲まれた場所では阿鼻叫喚の地獄が広がっていた。


 そこには絶望がある。

 訳も分からぬまま、奪われる命がある。


 そして日本もまた、そうなる。

 前兆はもう起きた。


「お、お前なら、この異変をどうにかできると、室長が、!」

「ぶ、あはっははは! なにそれ、それは面白い冗談だわ!」


 彼の主張があまりにも愉快だったので、思わず途中で噴き出してしまった。

 遮られることになった言葉には申し訳ないが、これはどうにも笑わずにはいられない。


「なにがおかしい!」

「いえ、『なにが』もなにも。世界規模の異変を? たった一人の人間が? どうにかできるとでも? 面白いじゃない。とても、面白い話よね?」


 ちらりと印南を意味ありげに見やる。

 いつまでたっても不機嫌そうな顔の印南は少し目を細めた。

 なるほど。どうやら、そんなことを言った覚えはないらしい。

 これが噂に聞く、部下の先走りというやつか。


 上司としては一応のフォローが必要だと思ったのか、少々面倒そうな雰囲気を醸し出しながら印南が口を開いた。


「……お前なら何かわかるのでは、と言った覚えはある」


 先ほどの紳士を気取った態度と丁寧な口調はどこへやら。ここまできては取り繕う必要性を感じなくなったのか、ぞんざいな言葉遣いに素が透けて見えた。


 隣で安眞根がぎょっとしているところを見ると、印南はずっとあのキャラを続けていたらしい。

 呆れた、と言いたいところだが、まほろとて名前こそ知っているがこの男印南と今まで顔を合わせたことはない。実際の人となりなど知るわけがなかった。

 あちらも同様だろう。


 そんな、存在を知っている程度の自分をわざわざ探し出しに来たのだから、まあ、その理由くらいは察しがついている。

 だからまほろは答えず、ただ肩を竦めた。


「いい加減にしろ!」


 だがその人を食ったような態度は、印南ではなく安眞根を逆なでしたようだ。

 呑気にも見える態度がよくないのだろうとは思うのだが、彼の上司である印南も似たようなものだ。自分だけ責められる謂れはない。


 目眩を引き起こす振動は、いまだ断続的に体内に響く。

 まるで破滅の足音のように。


 それが焦りを生み、安眞根を追い立てていた。


「知ってるんだろう!? これを、何とかする方法、手がかりでもいい、なんでもいいんだ。はやく、なんとかしないと。人が死ぬ。世界が滅ぶ!! 手遅れになる! その前に、なんとか、しないと! だから、……――なんとか言えよ! 紬木まほろ!!」


 気が急くばかりで、真っ当な台詞など一つも出てこない。説得力など皆無。

 自分でもなにを要求しているのか定かではない主張を、目の前の女にまるで子供の癇癪のように叩きつけた。

 普段の安眞根なら羞恥に耐えない行動だ。


 安眞根とて「世界が滅ぶ」なんて台詞は創作物の中以外であり得るとは思っていなかった。

 だがいまは真実味を伴って、精神を蝕む強さで響くのだ。

 その抗い方を安眞根は知らなかった。


「おい、聞いて、ッ!? 空が! ……まさか!!?」


 そんな安眞根の焦りを嘲るように、必死に叫ぶ言葉の終わりに、――外の太陽が翳った。

 さきほどまで曇天の中でも確かな存在感をもっていた太陽が。


 動揺が事務所を覆う。

 興奮のさなかだった安眞根も、社内の同僚たちも、息荒く窓に飛びついた。


 闇は、アレの証。

 ヤツらの息遣い。


 厚い雲に覆われただけであってくれと、願う心空しく。

 影は、闇に変化する。

 建物内だけが、間抜けに蛍光灯に照らされていた。


 ざわりと、空気が不穏に蠢く。


「ひぃ…」


 怯える者を後目に、まほろは空を睨みつけている安眞根に凍える視線を向けた。


「だから?」

「え?」


 言われた意味を計りかねて、安眞根が間抜けな声を返す。

 それに頓着せずに、まほろは重ねる。


「だからなに?」


 太陽が消えた、だからなに?

 人が死ぬ、だからなに?

 世界が滅ぶ、だからなに?


「き、貴様ッ!!」

「よせ、安眞根」

「聞いたでしょう、いまの言葉を!! こんなヤツに頼るなんて俺はまっぴらごめんです!!」

「いまのは、地雷を踏んだお前が悪い」

「ッ! この、命のかかった瀬戸際に、人の心に一々配慮しろとでも!? そんな余裕が、猶予が、どこにあるっていうんですか! 明確な事実はただ一つ。この女が協力もしない! する気もない! それだけだ!!」


 よしんば協力を取り付けても、互いに信用なんて欠片もない。

 そんな相手とやっていく自信は安眞根にはなかった。


 なによりも、どうにかできる手段を、あるいは糸口を、針の穴に糸を通すような小さな光明でも構わない。それがあると示すだけで、人々は大きな希望を持てるだろう。

 だというのに、『持つ者』が、持たざる者に、欲する者に、分け与えないなんてことがあっていいわけがない。


「そんな人間を許せと!? 冗談じゃない! たった一人の身勝手な行動がどんな結果を招くのか、指を咥えて見てろとでもいうんですか!? この女の我儘のせいで、見捨てられる命があってたまるか!! 俺は人を助けるためにここにいるんだ!」


 勢い荒くまほろに詰め寄ろうとした肩を抑えた印南に、安眞根が反射的に噛みつくように怒鳴る。

 その怒り様はまほろが脳の血管を心配するレベルだ。


 安眞根だけではない。

 社内の人間たちの責めるような目。身に覚えがなくもない。

 助けられるなら、助けてくれと縋る目だ。


 まほろの冷たい目が、少しだけ揺れる。

 別に、絆されたなんて理由でも、傷付いたなんて理由でもない。


「いまさらね」


 そんな綺麗事は、今さらで。

 そうして助けを求めてきた手を、ずっと振り払い続けてきた。


「は!?」


 まほろの独り言を聞きとがめた安眞根が、怒りのまま印南の止める手を振りほどく。


 だが、印南はそれを許さなかった。

 自分よりよほど体格のいい安眞根の腕を軽く捻り上げてその場に留める。

 まるで咳払い程度の自然な仕草だ。


「い、たたたた! 印南さん! 室長! 放してください!!」

「そのうち報道されると思うが、アメリカにはスーパーヒーローが現れたそうだ」


 痛みを逃がそうと足元でもがく安眞根をよそに、印南がまほろにどこか投げやりにそういった。

 まるで存在を無視されている安眞根を少しだけ哀れに思う。


強き挫き祓い弱き助ける救う。アレに抗える者がいると、あっちじゃお祭り騒ぎらしい」

「人々の希望の光になったわけね」


 そんな言葉を口にしたまほろを印南がちらと見た。


「察しはついているようだが、スーパーヒーローの名はネイト」

「おかしいと思った。『アレ』のアメリカ到達が早すぎるもの。――ネイトの奴、自分で引き寄せたのね」


 舌打ち交じりのまほろの悪態。

 初めにコレが観測された場所から推測できるアメリカ到達日までには一週間以上早い。本来は場所的に日本の後が順当だというのに。


 それもそのはず。ネイトは異様に英雄願望が強い少年だった。

 無邪気に、悪気なく。活躍の場が欲しい。ただそれだけの理由。

 それだけで災厄を引き寄せ、自らが救世主となる舞台を作る。


 やりそうなことだ。

 じつに『らしい』行動だ。


「これだから厄介なのよ。ホント、『異界帰り』にロクな奴はいない!」

「それを受けて、各国で国防衛に名乗り上げる者がちらほらと出てきている。ドイツなんかは、待ってましたとばかりに専門部隊があると発表してるしな」


 予測していた。対策ができている。そう発信しただけでドイツはヨーロッパでひと際存在感を増したらしい。まだ何かを成し遂げたわけではない部隊は、それでもスターと言っても過言ではない持ちあげられ振りだとか。


 話を聞いただけだと、まるでヒーロー映画だ。

 世界の危機に立ち上がる超人たち。

 人々と協力し、バラバラだった世界が一つになり、人類は生存権を勝ち取る。

 そこまでがセオリーであるはずだが、さて。


 意地悪く考えていると、印南がまほろに改めて目を向けた。


 世界の対暗闇戦線はそんな感じ。


「で、日本の話になるわけだ」


 なるほど、ここに話を持っていきたかったらしい。

 だが、印南の長い前置きは実を結ばなかった。


 まるで音を吸い込むような闇の中、静寂を裂くようにぱらぱらぱらと、爆音を伴ったヘリが視界に滑り込み、そのままビル上空を旋回しはじめたのだ。

 明らかにこの建物を目的にしている。


 今まで動揺の一つも見せなかった印南が、その音に窓から身を乗り出した。


「……つけられたか」


 舌打ちしながらついてきた部下に一瞬だけ視線を滑らせる。


 安眞根には先ほどまでの勢いはなく、やっと印南の拘束から逃れられた安堵と痛みに顔を歪めながらのろのろと立ち上がっているところだった。


「ち、ちがいます! 俺じゃありません!」


 上司に疑われた安眞根が思わず全力で首を振る。

 印南はそれに構わず、ヘリの側面に描かれた国家権力様のマークを指してまほろを振り返った。


「国も、形振り構わなくなったようだぞ、紬木まほろ」


 弁明の機会を与えられなかった安眞根の様子は哀れだが、真偽など今は意味がないから聞く必要もない。


「そのようね。迷惑な話だわ」


 平時は無害を装っている軍事力を一個人のために投入とは恐れ入る。


 どうせあのヘリの目的も印南たちとはまた別ルートからの、世界の救済要求だ。

 普段は横柄なくせに、いざという事態になるとこの体たらく。面倒なことこの上ない。


 ぐずぐずしているとヘリから降りた軍隊か、地上から迫っている部隊だかに捕捉される。


「私にヒーローの真似事をしろとでも言うのかしら」


 言いながら、まほろは一応社内の人間たちに机の下に身を隠すように指示をしておく。手を差し伸べることはできないが、積極的に死んでほしいとも思っていない。

 この緊急事態だ、出会い頭に銃器の一つや二つぶっ放されてもまほろは驚かない。巻き込まれて死ぬのは彼らも本意ではないだろう。

 彼らは戸惑ったように視線を揺らしたが、逆らわなかった。


 紬木まほろは孤高を旨としている。

 人を助ける余裕はないし、まほろが助けた者は後に死ぬだけだ。

 ならば自力で壁を打破する可能性を残しておける分、初めから関わらない方が幾分かましだった。


「こうなっては、縋るしかないんだろうよ」

「この私に? 今さら助けてと? どの面下げてそれを言うのかしら。……少し、見てみたくもあるわね」


 事務所で立っている人間はまほろと印南と、ついでに自分がどうやら蚊帳の外にいるらしいと気づいた安眞根だけになった。


「連中が頭を下げるとでも思っているのか。おめでたいことだ。『武力行使で解決』、一択だろう」

「私を捕まえて、脅して、言うことを聞かせる、と?」

「最初は一応お願いでもするんじゃないか? 困っている者がいるなら助ける。それが常識だから、お前もそうするべきだと」

「常識の押し付けはよして欲しいわ」


 ちらりと冷たい視線が安眞根に向けられる。

 思わず息を詰まらせたが、すぐに彼女の視線は去っていった。


「ま、考えても無駄ね。奴らはどうせここまではたどり着けない」


 意味深な言葉に、印南は匂いを嗅ぐようにすんと鼻を鳴らした。

 嗅ぎなれた匂いに、一文字いちもんじだった口が歪む。納得と呆れと、苦さを含んだ複雑な感情がそこにはあった。


「なるほど。随分と闇が濃いことで。さすが『魔女』と呼ばれるだけある」


 姿を隠した太陽に代わって、外は暗闇。

 照度センサーを備えた街灯だけが自動で点灯し、ちらほらと闇を照らしている。

 それが余計に影を色濃く見せていた。

 さきほど外に飛び出していった人々はどこへ消えたのか、気配もない。


 闇は深い。

 蠢く影は大きい。

 気配は濃厚。


 印南は息を殺すように、声を潜めて囁いた。


「……来るぞ」


 蟠っていた闇が形を伴って産声を上げる。

 黒い影がコンクリートの地面からぬっと生えた。


 よく見れば短い指と吸盤が地面を掴み、底から這いあがろうともがいている。


「お? 『フショク』か『ハライ』か?」

「ハライの方ね。フショクがこんな浅瀬に出てきてたまるもんですか」


 長い舌がしゅるりと電柱に巻き付き、重くずんぐりとした体を地底から引き上げた。

 愚鈍そうな見た目の通り本体の動きは遅いのだが、それに油断すると痛い目に合う。具体的には死という代償が必要だ。

 強いとは言えないが最初・・にしては大きすぎる。


 世界の浸食は、彼女の周りでは驚くほど早い。

 こんな短時間で異形いぎょうが実体を伴って這い出てくる上に、ここまでの大物なのだから相当だと、印南はまほろの横顔をちらりと盗み見した。


 近づいていた複数の足音。

 窓から見学していると、暗闇の街路に迷彩服が見えた。


 向こうからも見えたのだろう。

 まほろを指さし、何かを叫ぶ。


 勢い込んで踏み出した一歩は、――予想通り、再び地面を踏むことはなかった。


 暗視スコープでも付けていたのだろうか。

 残念ながら存在感の薄いアレは機器を通すとまだ・・見えないのだ。つまり、信じるべきは自分の目だけ。


 悲鳴を上げる暇もない。

 視界を遮るように盛り上がった闇の山の向こうで、何かが潰れる音がここまで聞こえた。


 人が砕かれる音。

 ハライには歯がない。閉じる口の勢いで押しつぶされるのはとても痛いに違いない。

 ご愁傷さまだ。


「弱いものは死ぬの」


 コレはそういう世界だ。

 命とは、勝ち取るものだ。


 暗いから、血の色も黒。

 粘性のある液体が、ぼたぼたと地面に落ちる重い音だけがした。

 つんと鼻を突く、濃厚な鉄の匂いがここまで漂ってくる。


「う、ぐ」


 思わず口を押えた安眞根をまほろは振り返った。

 彼はきっと想像力が豊かなのだろう。そしてその想像は決して間違ってはいない。


 これを凄惨とするのなら日本各地で同じようなことが起きているはずなのだ。

 けれどまほろは何となく、それを安眞根に指摘することはしなかった。

 人を助けたいと純粋に思う人のようだから。それに嘘はないようだから。

 ――そしてそんな人間を、まほろは今も嫌いになれない。


 ふっとため息を吐く。

 まほろ自身には、こんな光景に動揺するような心はとっくにない。


「……なにも、かわらないわ」

 そう、思うだけ。


 世界は、変わったというけれど。

 まほろにとっては何一つ変わっていない。


「私の日常が、あなた達の日常になっただけ」


 私が見てきたものを、あなた達も見るだけ。

 私の常識が、世界の常識になっただけ。


 だから、

 いつも通り、胸に手を。


 ――――心を掴み、引きずり出す。


 慣れた行為だ。

 ざわりと肌が粟立つような、魂を無理やり引き剥がしているような、晒してはならないものを自ら暴いているような、そんな忌避感ですら。

 何一つ躊躇わず、何一つ考えず、行えるようになったのはいつ頃だっただろう。


 ずるりと胸から引き抜かれた、抜身の刀身。

 全霊を込めて形作られた、鋼の凶器。


 それは闇の中でもひと際白く輝いて見えた。


「刀!!?」


 非常時だというのに、一瞬安眞根の脳裏に銃刀法違反の言葉がちらついたのは多分職業病。

 思わず自分の額を叩いた。

 体内から凶器を取り出す。そんな非現実的な出来事を目の前にして驚きの声を上げてから、安眞根はもう何一つおかしなことなどないと思い直したのだ。


 信じられない出来事が信じざるを得ないほどに起きた。大事に育てた常識はここらでお役御免だと放り捨てる。

 そういう意味で安眞根は、良く言えばいさぎよく悪く言えば諦めが早かった。


 へえ、とまほろは心の中で感心する。

 わるくない。最初の印象を覆すに足る変容に少しだけ口の端が緩む。


 そんな光景を知覚しながら、まほろは現実を断ち切るように一度目を閉じ、再びゆっくりと開いた。

 紬木まほろを眠りに沈め、揺さぶり起こすのは。


 重く、闇より深い瞳に、相反するように光が宿った。

 吸い込まれそうな夜空に散りばめられた星々の如く。

 彗星のように横切るのは、反射する刀の鋭い白光。


 ――『魔女』の、目覚めだ。


 その瞳はまるで宝石のようだと息すら忘れて安眞根は思う。


 だが周囲の感嘆など気にも留めず、見る者を威圧する凶器を手にまほろはひらりと身を翻した。

 黒い髪が流れ、とんと軽い音を残して全開になっていた窓枠へ飛び乗る。


 なにをするかを察した安眞根が思わず声を上げた。


「ッおい、ここ三階!」

「……あなた、良い人ね」


 くすりと笑いが漏れた。


 だから、

「ひとつ、助言してあげる。死にたくなければ、その男印南の傍を離れないことね。そいつ、赤の女王クソババアお気に入りペットだから、雑魚除けにちょうどいいわ」


 そう言い残して、まほろは消えた。


「…………室長?」

「あいつ、マジで怖いもの知らずだな……。女王に聞かれたらミンチ確定だぞ」


 展開についていけない安眞根と突然指名された遠い目の印南が、外の闇に目を向けながら個々に呟く。


「そもそもなんで武器が刀なんだ。『魔女』なんて呼ばれてるんだから、持つのは杖であるべきだと思わないか?」

 それか箒。


 印南が場には相応しくない、気の抜けるような話題を振ってくる。


「し、室長?」


 安眞根ができるのは戸惑いを言葉にすることくらい。

 生真面目、堅物一辺倒だと思っていた上司像もどうやら自分の思い込みらしいとさすがに察しがついてきた。


「まあ、あの『魔女』紬木まほろといえば、刀だけども」


 どうにも、この緊急事態になってから印南が生き生きして見えて仕方がない。


 思わず上司について再考していた安眞根の思考を現実に引き戻したのは、耳に届く、聞きなれない音。


 何かが闇の向こうで咆哮した。


 一瞬にして肌が粟立ち、全身の毛が総毛立つ。本能的な恐怖とはこれを指す。

 離れた人工の光の下にいて尚、知らず身構える程の脅威がそこにあった。


 続いた音はキインと弾かれる高い硬質。

 それから、コンクリートの破砕音とここまで響く振動。


 なぜか安眞根はそこにいるだろう人物を思い描いて肩の力を抜いた。


 武器らしい武器を見た時から予想はついていたけれど。

「戦ってるんですか、あの女。……戦える人間が、いるんですか」


 人の目には映って、映像機器には映らない。

 残るのは、人の死。砕かれた命だけ。凄惨な現場のみ。

 目撃した者はソレを「怪物」と恐怖する。


 最初は笑い飛ばした者も、件数が嵩めば認めざるを得ない。

 不意に現れ、滲む闇の中に、人を殺すナニかがいる。


 怪物の正体の一端をいま安眞根は目にしているわけだが、それはなんとも理不尽なモノだった。

 拳銃が効くのかすら疑問視せざるを得ない姿形。

 国お抱えのエリート軍団ですら丸飲みだ。


 安眞根とてコレを目の前にしたら逃走だけが生き残る術だと確信するだろう。

 むしろ動けただけで称賛に値する。

 睨まれて、食われるまで動けない。それを馬鹿だと罵れないだけの圧倒的恐怖がそこにはあった。


 理不尽に襲い来る、何一つ解明されない謎。不思議。

 科学によって支えられた文明は、コレらに今のところ指一本すら触れてられていない。


 息をひそめてやり過ごす。

 それだけが人類に許された対処法だったのだ。


 ――これまでは。


「アメリカの自称スーパーマンやドイツの専門機関。……なら、日本にだっているさ」

「それがあの女ですか?」


 少し違うと、印南は首を振った。


 最初から話せば少々長くなる。

 ――しかし、彼女が帰ってくるまで時間はあった。

 いまさら隠すことでもないと印南は口を開く。安眞根もまた、対策室の人間であることに変わりはない。


「……ソレは昔からあった。そうだな、例えるならすぐ隣に。だけど接していない、そんな微妙な距離だ。だが、ちょっとした拍子に袖が触れ合うこともある」


 それは『異界』と名付けられた。


 時に起こる怪異。

 時に遭遇する不思議。

 残る伝説や口伝の中に、それは昔から存在した。

 研究が進んだ昨今では、かつて神隠しと言われた事件のいくつかはそれらが関わっていると判明している。


 そもそもはとある類似事件が頻発し始め、原因究明に乗り出した者たちがたどり着いたのがその答えだった。


「そうしてやっと、人はソレを認識した」


 異界の存在が国のお偉方に認知されたのはここ50年程度の話。

 日本に特務機関が設置されたのはほんの10年前。


「そもそも、なぜ当時の捜査官らは『異界』という答えにたどり着いたのか」


 それには明確な回答があった。


「『異界』から戻ってきた者がいる」


 戯言と言われ埋もれた証言が、長い時を経てやっと日の目を見たのだ。

 今では『異界帰り』と呼ばれる、それまでは省みられることもなく狂人として社会から排除されてきた者たち。


 過去に遡り、文書を紐解き、結果、初めて異界と遭遇したとされる公式な記録はもう100年以上も前にあった。

 人の記録故に、認識されていないだけで、もっと古くから異界はこの世界のすぐそばにあったのだろう。


 多重世界。

 いまではこの地球を含む次元は、無数にある世界の一つでしかないと証明されている。


「もっとも、一般人には知らされていないことだが……。とはいえ、お前なら知っているだろう?」


 問われて安眞根は頷いた。

 猪突猛進脳筋気味な性格故に体育会系と思われがちだが、こう見えて乙種の博士号を持っている。

 の持ち腐れなんて揶揄されてきたが、有難いことにこの称号のおかげで国家機関に就職してから国が制限している『多重世界』についての講義の受講が認められたのだ。


 それは彼の興味を引くのに十分な引力を持っていた。

 その後、安眞根は出来るならこの研究に関係していきたいと希望を出した。……のだが、なぜか行きついた先は印南率いる謎の部署。


 最初は近寄りがたかった上司が指をくるくると回しながら語る。

 どうやら星の軌道を表現しているらしい。


「無数にある世界は今も近づいたり離れたりを繰り返している」


 例えるなら、宇宙の星々のように。

 太陽を廻る惑星もあれば、地球を過ぎる彗星もある。


 広い、宇宙より広大な空間で、星同士世界が近づくことは実に稀だ。

 天文学的数値と言っていい。


 だがそれが起こった。

 いつから、寄り添うようにソレはいた。


 発覚以後、究明は速やかに進められ、やがて驚くべき事実が明らかになる。

 まさにこの時代、『もっとも異界に接近する』だろうとする研究結果が出されたのだ。


「なにせ初めてのケースだ。なにが起こるかわからない」


 その影響を懸念して、多くの国が警戒を強めていた。

 ここ日本でも。

 そうして設立されたのが印南所属する異界対策室。

 表向きは特務機関の看板を下げた、なにやら怪しげな連中だというのが人々の素直な感想だ。(安眞根もそう思っていた)


 事実、じわじわと影響は出てきていた。

 印南は形のいい顎を撫でながら実際に起きた事件の数々を思い浮かべる。

 猟奇殺人事件や、怪異の目撃証言。

 毎日のように飛び込んでくる情報に、『最接近』を前にすでに辟易していたところだ。


 ダメもとで追加の人材を頼んだところ、送られてきたのがこの何一つ知らされていない安眞根だったところにきな臭さは一応感じていた。

 あるいは、印南に対する鎖か監視役なのか。


 とはいえ、人手が足りないのは事実。立っている者は親でも使えの精神で、この対策室が対応する非現実に彼がどこまで耐えられるのかと、様子を覗っていたところ事態が急変して今に至る。


 そもそも印南の見立てでは本人は自分に課せられた役割も知らず、ただまっすぐに職務に忠実なだけだ。

 そうなれば印南とて邪険にはしない。正しく、今のように。


 印南は安眞根に目をやり、少しばかり口の端を上げる。

 それは部下をあっさりと懐に入れ、誰かの策略にまんまとはまっている自らを笑っているようにも見えた。


 面白い事実がある、と前置きして再び口を開いた印南はまた淡々とした口調に戻って話を続ける。


「――デッドライン最接近は、50年後と予測されていた。その誤差、わずか20年と言われるまでの精度だ」

「え、なら」

「そうだ、おかしい。今の状況は明らかに異常だ」


 誤差を鑑みても約30年後の猶予がある。あったはずだった。

 それもデッドラインはあくまで『最接近』であって、決して『接触』ではない。


 国が必死に警戒していたのは、異界からの影響・・であって、異界からの流入・・ではなかった。


 こんな事態を誰が予測していたのか。


「だから、紬木まほろを訪ねてきたんだ」

「あの、……室長、そこの因果関係がいまいちわからないんですが?」


 印南は対策室の新人ににやりと笑った。


「予測くらいはついてるんじゃないか?」

「……『異界帰り』?」

「正解だ」


 ビンゴと印南は自分より背の高い安眞木の頭をがしりと掴んで揺らした。


 異界帰りの証言は貴重だ。

 彼らの協力をもって、対策室は異界へ強制的に働きかける方法をいくつか実現している。


 その一つ。

 見た目は小型ラジオのような機械を懐から取り出した印南は、それを無造作に発動させた。


 音が出たのは最初だけ。

 脳を貫くような高音に思わず耳を塞いだ安眞根も、机の中で蹲っていた社内の人間も、次の瞬間の劇的変化に目を見張る。


 印南を中心に円状に広がる『現実』。


「んな!」


 まるで毒にでも触れたかのように、建物すら浸食しつつあった闇が減退していく。

 甲高い何者かの声が残ったから、あるいは何かが足元まで迫っていたのかもしれない。


 ぞっとしながら安眞根は印南を見たが、彼の上司は大したことでもないと気にも留めず、ただ効果が一時的なものだと肩を竦めるのみ。


 アメリカの自称スーパーマンやドイツの専門機関。

 ならば、日本はこの異界対策室・・・・・こそがそれにあたる。自分たちが、そうなのだ。


「日本には現在、そんな貴重な異界帰りの生存者が三人いる」

「紬木まほろが、その一人?」

「そうだ」


 頷いた印南は続けた。


「異界帰りってのは、本当に貴重なんだ。普通なら国が厳重に保護するくらいに」


 ――なにせ、死ぬのが普通だから。


 その言葉の強さに安眞根が息をのんだ。

 望んでいた通りの反応を見せた部下に、思わず喉の奥で印南は笑った。


「ほとんどの者が死ぬ。異界から帰って間を置かず。自殺も含めてすべてが怪死」


 こちらは死なれては困るというのに。

 だからこそ、各国がこぞって保護に走る。


「日本で初めて異界帰りが確認されたのが、確か150年ほど前か。それから16名の『異界帰り』が記録には残っている」


 内9名は一両日中、2名は三日以内、一人は一週間、もう一人は10日で死んだ。

 こうも短期間で死ぬのでは、証言もなく異界帰りと気づかれないまま死んでいる人間も多いだろう。


「なぜか? それは彼らにしかわからない」

「なぜか? 当然じゃない。『異界帰り』は現実に帰れてないからよ」


 窓枠に、女が一人。

 黒曜の瞳に、濡れ羽色の髪。

 輝く刀を手に、恐れもなく立っている。


 異界帰り。

 彼らは異界の浸食に巻き込まれ、異界を目にして生還した者。

 無事に。ほとんどが五体満足で。


 だがそれは本当に、異界の浸食に巻き込まれる前と同一存在なのか?

 イエスでもあり、ノーでもある。

 連続した思考と同じ命と、変わらない遺伝情報で作られた肉体。それらを基準とするのなら、彼らは確かに彼ら自身であった。


 現実に帰ってきた彼らは喜び咽び泣く。

 そうしてふと、気付くのだ。

 異界の気配がまだすぐそばにあることに。


 彼らは逃げる。

 異界からの逃走を図る。


「でも、逃げられない」


 ――だって、異界は彼ら自身から滲みだしているのだから。


 はたから見れば、誰かに追われているようにも見えるだろう。

 だがそんな存在はいない。

 強迫観念だと、人は言う。

 人々と社会、そして『異界帰り』を隔てる壁がそこにはあるのだ。


 寄せては返す波のように浸食と衰退を繰り返す『異界』に巻き込まれ、引き摺り込まれた彼らには否応なく『異界』が染みついている。


 彼らは身の内に異界を飼ったまま、現実に帰ってきたのだ。

 全てが元通りなんて、そんな都合のいい話はない。


 彼らが心底恐れたもの。

『異界』は、そこに、傍に、体内にある。


 生きている限り逃れられない運命だ。


「今風に言えば、『異界』の出張端末みたいなものね」


 まほろはそう例えた。

 たちの悪いことに、端末のせいで『異界』はしょっちゅう電波を頼りに滲みだす。


 印南自身はまほろと違い、『異界帰り』をよく避雷針に例える。

 異界を不定形の、そうアメーバのようなものだとすると、異界の浸食は無作為に伸びるその触手が気まぐれにこちら側に触れてしまう状況だ。

 だが避雷針があれば、まずはそこに向かう。そういう話なのだ。


 時に身体を侵食し、周囲を染め上げ、現実を奪い。

 取り戻したはずの世界を再び消し去り、別世界へ誘う。


 どれほどの思いで現実に帰還したと思っているのか。

 なのに、引き摺り戻されてみろ。


「発狂ものよ?」


 まほろはからりと笑って肩を竦めた。


 そこは、現実の先端。異界の終わり。

 現実と異界が交じり合い、滲みだし、迷い込んだあまたの異形が徘徊する場所。


 現実の建物群と、異界の生き物。

 水面のような地面の下に現実を覗くことも、空のかなたに異界を見ることも。

 一度として同じ形を持たない、現実でも異界でもない不安定な泡沫の空間。


 彼らの世界は、そんな『現実と異界の狭間はざま』になったのだ。


 身の内から湧き出す『異界』に飲まれ狭間に引き摺り込まれれば、空間を形成する『異界に属するモノ』を滅さない限り狭間は消滅しない。

 終わりなきデス・ゲームこそが、現実に逃れた彼らに課せられた罰。


 ともすると、踏み外し滑り落ち、二度と帰れない、そんな日常。

 現実と命を賭けた日々の始まり。

 隣人の名は、孤独。

 それに耐え、勝ち続けた者だけが生きる資格を得る。


 彼らの目に映っているものはなんだったのか。


「……いまなら、誰もが理解してくれるわね」


 異形の体液に染められた紬木まほろは、穏やかに手を広げて背後に迫る闇をさし、ほらと笑ってみせた。


 買い物の途中。

 たった一度の瞬き。

 寝入り端。

 時を選ばず、世界は入れ替わる。

 連れ去られる。


 暗く、静かで、敵意ばかりの生存競争の場へと。


「うしろ!!」


 安眞根が叫ぶと同時に、黒光りする巨大な爪がぬっと視界に入り込み、耳障りどころではない音を残してビルの壁面を荒々しく削っていった。

 ひしゃげた窓枠がその力を物語っている。


 だが、すでにそこにまほろの姿はない。


「もうおかわり二匹目?」


 全長5メートルはあろうかという黒い異形。

 それをいとも簡単に頭上から振り下ろす刀で引き裂いた。


 メリ、と真っ二つに裂かれた体内から緑の液体が飛び散る。


「ち、緑か!」

大物ゴミを引いたな、紬木まほろ」


 ははと愉快そうに笑う印南に刀をぶん投げる。

 脳天を貫く軌道だったはずのそれはあっさりといなされた。


「死ね!」

「そう簡単に死ねるか」


 まほろの悪態は実にストレートだった。


 まさか刀を投げられるとは、まして隣の上司がそれを簡単に避けるなど思いもしていなかった安眞根に、印南は悪戯な顔を向けた。


「日本には150年前に最初の『異界帰り』の記録があると言っただろう? 実はそれが世界最古の記録になる」


 次いで古い記録はイギリスの130年前。その後はヨーロッパ各国が続く。

 アメリカに至ってはほんの50年前。それ以後の頻発具合を見るに、それまでにも居たのだろうと予測はつくが記録としては残っていない。アジア大陸も同様だ。


 当然、見つかった者はいずれも直後の死亡が確認されていた。


「つまり、世界で最初に確認された『異界帰り』は日本人だったわけだ」


 そして、記録に記された、その名。


「名を、紬木まほろという」



「は!?」


 悪戯が成功したような顔をしていた印南の後頭部を、手に戻った刀の柄で遠慮なく殴ったのは何事もなく帰ってきたまほろ。


「い゛!」


 印南が思わずつんのめったくらいには力がこもっていたらしい。

 女性の年齢を勝手にバラすとは、天誅匹敵に相応しい。


 とはいえ、かなりの痛みを貰った印南はさすがに文句の一つくらい言いたくなった。

 なにせ150年前の記録時、すでに彼女は50年以上生きていたのだから。


「そこに情状酌量の余地は?」


 この事実を言わなかっただけ良心的だと思っての発言だったが、まほろからすれば50年のサバ読みは誤差程度。


「ない!!」


 力強く断言してやった。


 悔し紛れというわけではないが、まほろはびしりと印南を指さす。


「そういう印南七鍵ななやは13人目よ!」


 日本に記録された16人の『異界帰り』の内の一人であり、現三名の生存者の一人。

 印南以後の『異界帰り』の運命は、もちろん推して知るべし。


「えええええ!?」


 安眞根の驚きの声は他に混じる感情が見当たらないから心地いい。

 なるほど、印南が随分と饒舌に話すわけだ。


「確か50年くらい前だったかな? いつの間にか国家の狗になってたのは驚いたけど」 


 そんなわけで、まほろはじろりと印南を睨め付けた。


「新参者なんだから、少しは先輩を敬いなさいよ」


 静かに社会に埋没していた『先輩』の生活をぶち壊しに来るとは何事だと文句を垂れる。


 実際、200年の重みは深い。

 異界の端末としては時と共にたいそう浸食が進んでいて、こうして一度進行が始まると、まほろの周りでは彼女端末を足掛かりに異様な速度でそれが進む。

 印南がまほろの傍は『闇が濃い』と言った理由である。


「敬っているように見えませんかね、先輩?」


『異界帰り』の、命を勝ち取る戦いは決して楽にはならない。時と共に深くなるばかり。

 彼女の潜る『異界の間はざま』は誰も到達したことのない深度だろう。

 そこから毎度戻って来られるこの女の恐ろしさ。200年の長きに渡り生き残る難しさを、印南は身をもって知っていた。


 だからこそ彼女は同属から『魔女』と畏怖されているのだ。


「キモ!」


 とは言え、思わず素で返したまほろには印南の畏敬の念はまったく通じていない。

 たちの悪い冗談か茶化しだと受け取られたようだ。


「酷い言い分ですね」


 敬いなど二度と求めまいとまほろが心に誓ったところで印南がくつくつと喉を鳴らす。


 笑いながら話す声のトーン。


 なにがとは言わないが、どこか既視感を覚えてまほろは内心首を傾げる。

 印南と顔を合わせるのはこれが初めてだというのにおかしな話だ。


「どうかしました?」


 困惑と心配と、多分の訝しさを混ぜた表情で印南がまほろを覗うように見た。


「いえ、……いいえ」


 新参者とまほろは言うが、印南が『異界帰り』となったのはもう二世代前のこと。

 世界規模で考えるなら、生存している『異界帰り』では印南ですら7番目に古株だ。


『異界帰り』がヒトを逸脱しかけていることは、それに関わったことがある人間が初めに知ることだった。

『異界帰り』唯一の恩恵にして、最大の罪科。それすなわち寿命の概念。


 だが、彼らに寿命がないのか、あるいは果てしなく長寿であるか、はたまた何らかの理由で寿命を引き延ばしているのかは今も謎のまま。


 当たり前と言えば当たり前の話で、彼らは誰一人として老衰を理由に死んではいない。古今東西、あらゆる死に方をした彼らは、全員自殺か他殺。

 寿命の有無を観測する以前の話なのだ。


 しかしながら、現在次々に異界との戦いに名乗りを上げているという各国の『異界帰り』は、軒並みここ3年以内の新入り達ばかり。

 アメリカで好き勝手やっているらしいネイトが5年、ドイツがこの事態で躍進した要因である専門機関の要、(となっているだろう)ヤナですら7年選手。


 そもそも『異界』接近の影響なのか、ここ数年『異界帰り』が異様に多い。今までなら把握できていた人数が今ではさっぱりだ。


 他にもおかしな点はあった。

 本来なら数日でその数を激減させるはずが、最近の新人たちは生命力が強いのかクレバーなのか、大雑把に見積もっても半数程度が生き残っている計算になる。


 しかも日本だけは蚊帳の外で、特に『異界帰り』が増えたなどということもない。

 一体なにが起きているのかと訝しんでいるうちにこの事態。


 そんなわけで今までになく『異界帰り』が増えている昨今だが、日本の三人の『異界帰り』が異常扱いされるのは昔から変わらない。


 あまりにも長いのだ。生き残った『異界帰り』一人が、生き延びる期間が。


 200年と、50年と、それから……。

 人差し指を顎にあてる仕草は、考え込むときの彼女の癖だった。


 少しばかり小さく唸ってから、まほろはふと印南の顔に目を止める。

 何かを思いついたとばかりの笑みに思わず身構えた印南は悪くないだろう。


「そういえば、アンタ。ええと、安眞根くん。きみ反応がいいから、お姉さんも講義したくなっちゃった。こうなったら日本の『異界帰り』、もう一人についても知りたくない?」

「……あ、はい」


 印南がまほろを探るように黙り、安眞根は『お姉さん』という言葉に反応しそうになって、自らの考えを封じ、ただ頷いた。


 世界の異変。非現実的な出来事。異界ときて、それと共に生きる異能たち。

 それが齢150ともなると、もはや考えるのもバカバカしい。なにせ普通の人間だと思っていた上司ですら、50年もの間同じ姿だというのだから。(一体何歳なんだ)


「そういえば、あなたは? 会ったことあるの?」


 安眞根にだけ話を向けるのは悪いと思ったのか、まほろが一応印南にも声をかけた。


「もう一人のことですか? なら『いいえ』ですね。もちろん名前は知ってはいますし興味はあります。ですがただでさえピリピリしているの連中を悪戯に刺激するのは宜しくないかと行動には移していません」


 つまり「もう一人」に会ったことがあるのはまほろだけ、ということになる。

 そっか、とあっさり頷いてすぐに安眞根に向き直ってしまったので、印南には本当にただ聞いただけだったのかもしれない。


「たぶん、名前だけならあなたも知ってると思うわよ」

「そんな有名な? 芸能人とか?」


 素直に思いつきを口にした安眞根に、まほろの細められた目が後の反応を予測して楽し気に揺れた。


まき伸也しんや

「!?」


 あっさりと吐かれたその名前。

 どう? 一般人よりあなたたちの方がよほど知ってるんじゃない?

 そう聞かれるより先に安眞根は声を一度飲み込んだ。


 槙伸也。

 公僕として、人を助ける者として、知らないわけがない。


 全国指名手配中の凶悪犯。

 罪状、殺人。

 連続殺人鬼として悪名高いその男は、おぞましい奇行でも知られている。


「あの食人鬼が『異界帰り』!?」


 そう。奴は、人を喰う。


 安眞根が思い出すのはやはり、彼を一躍有名にした事件のことだ。

『資産家当主殺人事件』と称され、多くのテレビ番組で取り上げられたその事件はセンセーショナルな結末と共に多くの人々の記憶に残っていることだろう。


 すでに凶悪殺人犯として指名手配されていた『槙伸也』が、とある資産家を殺したことから始まったこの事件。

 発見者は被害者の家族。犯行現場は被害者の部屋。すでに車椅子生活を送っていた被害者の死に様はまさに怪死。

 槙は現行犯だった。死んだ資産家を足元に睥睨し、逃げもせずに立っていたのだという。


 白昼に行われた突然の凶行に屋敷は騒然となった。

 だが警察が駆け付けた時には、槙の姿は消えていた。逃走というより、どうやら正面玄関を堂々と歩いて出ていったらしい。


 残された家族が犯人に賞金を懸けたこと。被害者の孫であり一家の末娘(成人済)が事件後消息を絶ったこと。

 これらが人々の興味を煽り、大きくニュースで取り上げられた結果、彼の名は広く周知されるようになった。


 当時、様々な憶測が流れた。

 娘誘拐説。槙暗殺者説。家族ぐるみの狂言説。黒幕説。槙と娘の駆け落ち説なんてのもあった。

 資産家ならではの遺産を廻った争いが根本にあると言われていたが、すべては謎のまま。


 槙の居場所を突き止め、踏み込んだアパートの一室に残されていたのは大量の血痕と食い散らかされた娘の遺体だけだった。


 なんとも後味が悪く、何一つ解決を見ず、かつ犯人の異常性を以って日本史に残る事件として記録されている。


 いまもどこかに潜んでいる殺人鬼。人々の恐怖の対象。

 それが槙伸也。


 そんな男について、まほろは軽々しく口にした。


「実はあいつ、何度も捕まってるのよ? 警察もそんなに無能ってわけじゃない」

「え!? だが捕まったなんて話、聞いたことは」

「そりゃそうでしょうよ」


 ねえ? と印南に同意を求めれば、


「……まあ、そうだろうな」


 と印南も簡単に頷いた。


 発表などされない。

 されるはずがない。


 なぜなら、捕まえても意味がないからだ。

 彼は気が向けば、逃げ出す。

 どうせ逃げ出すものを、大々的に宣伝してどうするのか。

 逃がしたことを責められるだけである。


「あいつにとって脱獄なんて散歩程度だもの」


 拘束に意味はない。

 奴を止められる者はいない。


「いまも、どこにいるのやら……」


 ちらと意味ありげに何もない天井を見上げる。


 新入り13番目の印南と違って、槙は数えて5人目に当たる。それなりに長く生きていた。

 世界で言えば、実に三番目に古い『異界帰り』だ。

 さすがにまほろとも顔見知りだった。


「私と印南、残る一人が槙伸也」


 指折り数えて三本目。

 まほろは印南の存在を無視して安眞根に聞いた。


「なぜ、いまこの話をしたかわかる?」

「い、いえ」


 そっかと落胆もせずにまほろは講義を続けた。


「……実は、槙には他の異界帰りとは明らかに異質な点がある」


 紬木まほろが『魔女』と呼ばれるように、印南が『貪婪どんらん』あるいは『悪食あくじき』と呼ばれるように、彼にもまた呼び名があった。


「その男はね、『異界渡り』と呼ばれているのよ」


 身の内に巣食う異界を使い、ほんの半分ずれた空間を渡る。

 そこでは、現実は無意味だ。

 手錠も、牢屋も、セキュリティシステムも。


『異界帰り』の誰もが忌避する『異界』を、自ら使う・・・・。そんな奴は歴史と世界を相手にしても類を見ない。


異界の間はざま』に自ら沈んでいったあの男を見た時の戦慄はいまも覚えている。


 まほろは安眞根からついと横に視線を動かした。

 目が合った男が一体なんだと首を傾げる。


「……あんたね? 異界を現実に引きずり出したのは。槙伸也」


 それ以外に考えらない。

 接触するはずのなかった異界が流れ込むには、理由が必要だ。


 そして、この世界で、それができる可能性のある人間はただ一人。


「え?」


 鳩が豆鉄砲を食ったような声を上げたのは、言われた本人ではなく、隣の安眞根。


「いや、紬木まほろ。その人は、槙じゃなくてうちの室長、」

「印南を、喰ったわね?」


 安眞根の戸惑いの声を遮って、まほろはそう印南に告げた。

 安眞根が息を飲む音だけが聞こえる。

 槙は人を喰うことを思い出したのかもしれない。


「いきなりどうしたんですか、先輩?」


 困ったような曖昧な笑みに見覚えがある。

 そういえば頭がマトモな間は『先輩』と、彼は人を食ったような呼び方でまほろを呼んでいたことをいまさら思い出した。


「情状酌量の余地はないわ。そうでしょう?」


 断罪の言葉ではない。つい先ほど交わした会話の話だ。

 記録では150年前の『異界帰り』と記されているまほろが、それを超過していることを知っているのは、今となってはただ一人。――槙だけだった。


 隠す気が失せたのか、じわりと印南の体から明らかに異物が混ざる匂いが立ち上る。

 その鉄錆とバニラを混ぜたようなマーブル色のにおいもまた、まほろはよく覚えていた。


「どうして、こんなことをしたの?」


 世界を闇に染め、異形たちを揺さぶり起こし、地獄を顕現させた。

 やがて人は死に絶えるだろう。


 こんなことをしても自分たち『異界帰り』の生活は何一つ変わらない。

 むしろ、戻るべき現実を失っただけだ。


 印南は肩を竦めた。


「……なぜ? とお前が聞くのか。200年、人として生き、人と違うものを見てきたお前が」


 まほろは少しだけ瞳を揺らした。

 現実がなんの慰めにもならないことも、確かにある。


「不公平だと思わないか。理不尽だと思わないか。なぜ俺たちだけがこんな目に合う。

 俺たちは生きるために戦う。命は勝ち取るものだからだ。その俺たちを見る、人間どもの無理解の目。隠せば教えろと暴き立て、知ればなぜ巻き込んだと罵られる。

 蔑みの言葉を覚えているだろう? 昨日までの友が手の平を反す瞬間は? 逃げるように去るヤツらの取り繕った笑みは? なんど正気を疑われた? 何度、お前のせいだと、憎まれた!」


 それらはすべて、彼が体験してきたことなのだろう。


「降りかかる禍害を知りもせず、恩恵だけを妬む奴もいた! 俺たちを、羨ましいと! わかるか? この人生を! 幸運だと、奴らは言うのだ! そしてその恩恵を分けろと。譲れと。あるいは奪おうとさえする! ――人の欲望とはとどまるところを知らないものだな。まるで蜘蛛の糸に縋る地獄の亡者のようだと思わなかったか! なあ、紬木まほろ」


 くくと、槙は喉を鳴らす。


 いつだったか、どこぞの資産家が金にものを言わせて、命を買おうと槙に持ち掛けてきたことがあった。

 永遠の命を得るための試練なら必ずや乗り越えてみせると豪語して、だから教えろと迫るから槙は親切にも連れて行ってやったのだ。

 ここではないどこか。現実とは違う場所。独自のルールに縛られた世界。

 さあ、幸福をかみしめてくれと。


『異界帰り』が捨てたいとなにより望むものを人間は羨む。

『異界帰り』が取り戻したいと願うものを、人間は捨てたいと願う。

 その時覚える感情は何か。

 答えは、――――憎悪だ。


 だからまほろは人に深く関わらなくなった。

 近くなれば彼らは羨み、羨まれたことにどうしたって怒りを覚える。

 同僚くらいの距離がちょうどいい。


 ……槙は、それができない男だった。


「助けを求める手を振り払ったくせに、助けてくれと厚かましく縋る愚か者ども。助けてやれば悪びれもせず、怪物と罵るくせに!

 曖昧な笑みで引かれた線。踏み入ることを許されなかった社会。俺たちは世界に混じれない!」


 その叫びは真に迫っていた。


 だが槙の恨みの根底がソレではないことをまほろは知っている。

 喚き散らしている言葉が、それでもまだ、表層でしかないことを。


 それは彼が必死に訴えている人間の浅ましさでも、社会からの拒絶でも、人の無理解でもない。

 そんなものは些細なことだ。


 痛みを覚悟して、まほろはそっと顔をそむけた。

 それを咎めるように、槙が潜めるような小さな音をまほろに届ける。


「……大切な者はみな、現実と異界のはざまで殺された」


 地を這うような、低い声がそういった。


「俺がなにをした? 俺は罰されるような大それたことなんて望んでない。誰もが得る幸福の、ほんのひとかけらだ! それだけでよかった! それすら許されない!!

 奪われるだけの人生を甘受しろとでも言うのか! 全てを諦めろと!? それは果たして生か? 俺は生きているのか? 生きることに、意味はあるのか?」


 必死に生きるのは何の為だと男が問う。

 生きるためには、意味が必要だと男が叫ぶ。

 その意味は、槙にとっては一つなのだ。


 かつて、お前が言ったと槙がまほろを見据えて言った。


「『愛する者の手を取らないことが、愛する者を唯一救う道だ』と。はは! ……なんという、なんという、残酷な世界に残されたのだ。俺たちは!!」


 槙は嗤った。

 深く、暗く、重く、槙が告げる。


「――こんな、中途半端だからいけない」


 世界が、こんな中途半端だからいけないのだと。

 異界を現実に引き摺り込んだ。


 誰もが同じ立場で。

 同じものを見て、同じだけの絶望を知れと。


「それが理由?」


 そんなくだらないことが、理由?

 そう聞けば、


「……くだらない?」


 槙は、熱が冷めるようにすいと笑いを収めた。


「くだらないわ」


 吐き捨てるようにまほろは断言する。


 ……本当は、くだらないなんて思ってない。

 その怒りは『異界帰り』すべてが持つ感情だからだ。


 この時代はまだいい。一般人を装っていれば、ちょっと変わったヤツと社会から柔らかに弾かれる程度で済む。


 思い出したくもない記憶がちらちらと隙を見てまほろに近づこうと様子をうかがっている気配がする。

 暗い地下牢。重い鎖と喉を切り裂きたくなる飢餓。

 あの頃、化け物はヒトが作り出すものだった。


 槙に煽られて鎌首をもたげる汚泥のような憎しみを、まほろも確かに持っている。

 だがまほろは同調するわけにはいかないから、強く拳を握った。


「子供のようなわがままはよして。見ている世界がちがうのは、なにも私たちだけじゃない。自分の世界を人に押し付けるのは、子供のすることよ」


 じくじくと痛みを訴える胸を隠し、まほろは母親のように槙を諭す。


 もう、槙を知る者はまほろだけだった。

 当時の同類は全て息絶えて、人間はみな命を終えた。


 槙が初めて人を喰った時を覚えている。

 槙は人一倍愛情深い男だった。

 そんな男だからこそ、『異界帰り』の、常人には理解できない言葉にすら寄り添おうとする人がいた。


「離れるべきだ」と忠告したまほろをはねのけた、強く優しく美しい女性。

 まだまほろがお節介をやめられなかった頃の話。


 けれど、彼の愛した女は槙から滲みだした『異界の間はざま』で殺された。

 まほろにとっては当然の結末。自明の理。見えていた未来。


 けれど、確かな悲劇。


 その絶望を。その咆哮を。その憎しみを。

 駆け付けたまほろは知っている。


 異形に奪われてなるものかと、愛する者をかき集め、失わないように自分の体内に隠した。

 亡骸を食い尽くし、槙は一人哭いていた。


 男が一人壊れ、

 殺人鬼、槙伸也はそうして生まれたのだ。


 そして愚かにも、あの男は人を愛す。愛さずにはいられない。

 誰かと生きることを早々に諦めたまほろとは違う。

 何度でも。何度奪われても。どうしても。彼は誰かの手を取らずにいられない。


 哀れな男だ。愛を糧に生きる男だ。

 どうしようもない、けれどそれが彼の生き方だった。


 繰り返し、繰り返し、悲劇は起きる。

 あの資産家の娘は一体何人目だっただろうか。


 闇は深く、重く、濃くなった。


 そうして、いま、槙が印南の顔で笑いながら現実の『異界』に立っている。


 ……そんな過程に斟酌していては、世界は滅びを待つばかり。

 だから全てを無視して、まほろは無造作に手を伸ばした。


「さあ、世界をもとに戻して」

 この手に、返して。


 だが差し出しされたまほろの手を不思議そうに見て、くつと笑い、槙はまったく別の話を始めた。


「俺の動機はいま話した通り」


 まあ、確かにくだらないかもしれない。

 槙がそう言う。


 まほろはぴくりと目尻に力を込めた。

 ――おかしい。

 槙は自分の生き方や主張を否定されることを、決して許せない人間だった。

 こうも簡単に認めるのは、おかしい。


「一つだけ訂正だ。先輩の推理にはちょっと無理がある。俺が槙伸也で、印南を喰ったと言ったな?」

「それ以外考えられないわ。こんな事態を引き起こせるのは、あなたの『異界渡り』くらいだもの」


 ネイトのように、そこにある『異界』の端を引き寄せることくらいはできる者もいる。

 けれど、『異界』そのものを強引に動かすことなど、誰もができるわけがない。


 それを例えるなら、太陽を周回する地球の軌道を無理やり捻じ曲げ、太陽にぶつけようとしているに等しい。


「正解だ。そうだ俺だ。俺がやった。だが、忘れてないか? 俺は確かに人を喰う。だがそれは異能じゃない。俺の異能は『異界渡り』それだけだ」


 槙は人を喰うが、それは単に彼の気質に起因する。

 彼に人を喰って、誰かの姿を模倣し、他人の異能を手に入れるなんてことは不可能だ。


 だが、彼はいま、確かに印南の姿をしている。


 ――それをできる者は、やはり一人いた。


「『悪食』!」


 あるいは『貪婪どんらん』、そう呼ばれる男。

 ――名を、印南七鍵いんなみななや


「そうだ、俺があいつを喰ったんじゃない。俺が、あいつに喰われたんだ」

「……なぜ」


 印南であり、槙である男がにやりと笑う。


「あいつには俺を取り込む動機がある。俺の『異界渡り』を、喉から手が出るほどに欲っする理由が」


 まほろは眉を顰めた。


「お察しの通り。その欲の名は愛だ。会いたいと、狂おしいほど、思っていた」


『愛』という一点において、印南と槙はひどく親和性が高い。


「あの異界にもう一度潜ろうってんだから、この俺からしても気が狂ってるとしか思えない。そんなにいい女なのかねえ、『赤の女王』とやらは。――アンタは見たことあるんだろう?」

「……そうね、一言でいうなら、吐き気を催すクリーチャーだったわ」

「うげ」

「でも、印南にとっては、違ったんでしょう」


 彼の目に見えていたものは、まほろともきっと違う。

 槙は肩を竦めた。

 愛を信条とする槙には、相手が美女だろうが怪物だろうが愛を否定する理由はない。


「だが、残念なことに印南は『異界』には渡れなかった。そりゃそうだ、俺の『異界渡り』ができるのは、お前たちが普段から強制的に現実から引き離されて放り込まれる、あの異界と現実の『狭間』へ干渉だ」


 それはこの世界と異界とが接近したことで発生した新たな空間。現実よりは異界に近いが、『異界』そのものではない。『異界の間はざま』とはよく言ったものだ。


 しかも印南は実に不器用だった。槙が呆れるくらいに。

『異界渡り』の本領の数%も引き出せていない。

 才能がない、とはこのことを指すのだと思ったほど。


 槙が一瞬で潜る『異界の間はざま』に、一日かけてやっと片足を踏み入れる程度。

 そして印南にとって最悪だったのは、使いこなせたとして、それが不可能を可能にできるような能力ではなかったことだろう。


「俺の能力では『異界』に渡ることはできない。だが、それを知っても印南は諦めなかった。俺には思いつかない方法を、印南は思いついた。――執念だな。それも、飛び切り醜悪な執念だ」


 くいと槙は親指で背後の闇を指す。

 唸り声のような地響きを奏でる闇を。


コレ・・を考えたのは、俺じゃない」


 行けないのならば?

 そう、異界を現実にすればいい。


「あいつはもう駄目だった。終わってた。コレを思いついたとき、躊躇いなんて一つもなかった。世界を犠牲にして、実現するつもりだった。まさしく世界を滅ぼす愛、だな」


 美しいと思わないかと、槙が歌うようにまほろに聞いた。


「『貪婪』とは、よく言ったもんだ。『悪食』よりよほど相応しいと俺は思うぜ? あいつほど欲が深い人間は見たことがない」


 欲深く、貪る。

 その能力を示すのなら『悪食』も悪くない、けれど印南個人を表すのにこれほどハマる表現はないと槙は思う。


 まほろは、まほろだけは苦々しく呟く。

 声に覇気が乗らなかったのは、きっとまほろの弱さだった。


「……これだから、異界帰りにロクな奴はいないってのよ」

「はは、先輩ならそういうと思ってた。……でも、『異界帰り』に正気を求める方が間違ってる」


 槙はくしゃりと笑う。殺人鬼と呼ばれる前の、もう記憶のかなたにある彼は、もしかしたらこんな風に笑っていたかもしれない。


 槙は肩を竦めた。そんな人間失格の印南が嫌いではなかったと。


「だから協力してやることにした。……もう、この辺りからあいつとはキレイに混じってどこからが自分だったのか、よくわからん」


 印南の野望に、槙が乗った。

 印南には『異界渡り』が使えなかった。

 だから、槙がここにいる。


「今はもう、ほとんどだけど。印南は抗わなかったぜ? 会えるなら、と。最後はそれだけの生き物だった。

 自分が消えても、会いたいと願うんだ。もはや生きたいと思う、生命としての最低限すらなくしていた。

 ――叶えてやるのが筋ってもんだろ?」


 槙と印南の望みは、別物で。だが奇跡的にそれは互いの領域を侵さない。

 両立したのだ。

 して、しまった。


 印南が考え、槙が実行した。


 ならば、過程などもう無意味だ。

 まほろが聞くべきはたった一つ。


「……あなた元凶を殺せば、世界はもとに戻る?」

「さあ? やってみたらいいんじゃないか?」


 彼は、それをしてまほろに何の得があるのかとは、聞かなかった。


 人を愛し、奪われ、嘆くことをルーティーンとする槙と、世界を滅ぼす愛を貫く印南と――。


「やはり、立ち塞がるのはあなたでしたね。先輩」

「……先輩、だからね」


 まほろは答えた。

 後輩のフォローは、先輩の仕事だ。

 間違いは、必ず正される。


 知ってるくせにとまほろは心の中で毒づいた。

 知ってたから、ここに現れたくせに。


「あなたの命も、やっぱり随分と歪ですよ。気づいてますか?」

「とうに」


 承知の上だと答える。


「きっとこれが、あなたが解放される、最後のチャンスなのに」


 まほろが口を開く前に、彼は残念だといった。

「別に、いらない」と、言う前に。


 まほろが聞き入れるなんて、思ってもいない。

 その通りだけども。

 受け入れさせてくれる隙もない。


 少しだけ、寂しいと思う。


「さて、そろそろ生き残り世界をかけた戦いを始めましょう、先輩」


 いつも通り。

 気負いもせず、くいくいとまほろを誘い窓から外に飛び出る。

 命を賭けた戦い。それは彼にとって日常の続きでしかない。


 最後に、ふと思い出したかのように槙は何かを放り投げた。


「そうだ、安眞根。これをやるよ。上司からの餞別だ」


 姿の消えた闇の向こうから、そんな声が聞こえた。


「うわっととと!」


 慌てて受け取った安眞根の手には、ラジオもどきの異界減退装置。

 捨てることも出来ず、ぼんやりと結局何者だったのかもわからない男から貰ったものを見つめながら呟く。


「……なにに使えって?」


 異常になった世界で?

 生き延びるために?

 それを引き起こした本人から貰ったもので?


 おかしな話だと思っていると、後ろから頭をぱしりと軽くはたかれた。

 深く考えなくていいと、彼女は言う。


「『異界帰り』にロクな奴はいない。みんな気まぐれで、気分屋。意味のないことだってする。世界は一瞬の夢を見たの。すぐに現実は戻ってくるし、そんな機械が役に立つこともない」


 まほろは困惑する安眞根にばちりとウィンクを飛ばした。


「まかせて、怪物退治は得意なの」

「怪物って」


 闇の中、ごぼりと泡立つ音がする。

 闇の中、ばきりと何かを千切る音がする。


 印南は、槙は、彼は、

「もう、立派な化け物よ。一つの体に二つの魂。二つの願い。歪な、怪物」


 紬木まほろは、刀を掲げた。

 風もなく、広がる黒髪。

 輝く黒曜の瞳。


 夜より深く、闇より暗く、絶望より希望を宿す、その瞳。

 安眞根は一瞬現実を忘れるほどに、確かにそれに見惚れた。


「だてに、長くは生きてない」


 時間。『異界帰り』にとって、それは強さの証。

 紬木まほろが今もなお、生きている。それこそがたった一つの事実を指し示す。


「誰も、私には勝てない」


 紬木まほろこそが、最強である。

 それが、200年、世界が守ってきた法則だ。


 安眞根は強く拳を握り、睨みつけるようにその背を見送った。






 §   §   §






 びしゃりと顔を打つ鮮血。

 印南の顔をした怪物が、まほろが切り落とした片腕を投げてきた。

 その断面から瞬時に腕が生える。


「やっぱり『ハライ』を喰ってたわね!」


 だが、生えたのは粘性を持っているように見える黒い異形の腕。


 長い爪には見覚えがあった。

 先ほどまほろが一刀両断した闇の腕。


「『ツマジキ』!?」


 ツマジキの腕は片側だけが異様に発達していて、鋭くかつ硬い。まほろの刀ですら傷を残す程度で切り落とすには至らないと言えば、その硬さが少しは伝わるだろう。

 倒すときはそこを避けて本体を狙うのがセオリーだ。


 片やハライの特性は、あっさりと噛み砕かれた例の部隊では力不足が過ぎてまったく明らかにしてくれなかったが、「触手と再生力」ということになる。

 本体はいかにも愚鈍そうに見えるが舌だけは異様に速く自由に動く。部隊はこの舌に絡めとられて喰われたのだ。

 ならば、とこの舌を切り落としたとしよう。残念ながら再生は瞬時。


 しかもこれを警戒しただけではまだ足りない。舌だと思っていたものは実は擬態した触手でしかない。つまり口内からだけではなく、どこからでも伸びてくる。舌しか伸ばせないように見せかけて油断を誘っているのだ。

 何段階にも仕掛けられた獲物の隙を突くための罠。ハライは狡猾だ。


『ハライ』の特性に、『ツマジキ』の形を纏った槙が目だけで笑う。

 振りぬかれた一撃を避けないわけにはいかない。コンクリートすら抉る凶器なのだ。


 簡単に距離を取らされてしまった。


 まほろは『悪食』の発動条件を知らない。しかし二種を取り込むには厳しい制約があるだろうという事くらいは察しが付く。

 まさかこの短時間でそれらをクリアしているとは思わないではないか。


 だがやった。

 それをやってのけるのが、槙伸也という男。


「いつの間に! 『悪食』め!」


 悪態をつきながら建物を利用して姿を見失わせ、速さにものを言わせて背後から切りかかる。

 かつんと、武器もない印南が振り向きもせず刀を黒い腕で受け止めた。


 遅れて、ぐるりと回った首と向けられた顔。

 その片目は、もう暗闇しか宿っていない。

 血管に入り込んだ異物のように、びきりびきりと浮き上がる黒い筋が眼球にまで浸食して白目を黒く染め上げている。

 肉体が人間の可動域すら無視し始めていた。


 なるほど、『悪食』は現在全解放の上、制限なしらしい。

 そのカラクリを察してまほろは苦々しく叫んだ。


「喰ってんだか、喰われてるんだか、それじゃもうわからないじゃない!」


 槙は「異能を使う」というただ一点において真の天才だった。

 自分のものではない『悪食』をこうも鮮やかに扱ってみせている。


「……残念、まだ頭の方は無事だよ」


 制約も条件もすべてを塗りつぶす方法。

 ――能力を十全に使うために、槙は体を餌に、中身自分を喰わせている。


 本気で勝とうという覚悟が見えた。

 鬼才の範囲に収まらない、そのおぞましさに背筋が冷える。


 もはや、勝てても自分とて無事では済まない。

 彼には、生き残る気が――多分、ない。


「戦ってる最中に他の事を考えるのはよくないなぁ」


 とぷんと間抜けな音を残して、印南の姿が消えた。


「『異界渡り』か!」


 闇に覆われたこの場所では、槙の能力は使い放題だ。

 まほろは足を広げて、刀を構える。

 どこから現れるのかわからない。


「厄介な!」


 そもそも能力が隠密系であり多くの攻撃手段を持たない槙は、敵としては大して強い相手ではない。

 それが今となっては印南のせいで凶器を取り込み放題だ。

 体を共有するだけあって、能力の相性もいいらしい。


 はっと思った時には世界がひっくり返る。

 足に巻き付いた気色の悪い菌類のように伸びる触手の先。

 地面から印南の顔が覗いていた。


「ちッ!」


 舌打ちをしながら刀を振り回し、すくわれた足の拘束を払う。

 危なげなく半回転で着地した地面が、だが、ぐにゃりと歪んだ。


 目眩を起こしたのかと思ったがそうではない。


 ずぶりと、

 足が、沈む。


「!?」


 知らずぬかるみに足を踏み入れていたような感覚と唐突さにまほろは息を飲んだ。


「つかまえた」


 湧き出す闇色の人型が、まほろの腰に抱き着いた。


「死因は圧死、なんて考えたことありますか?」


 ずるりと膝まで飲まれ、腰まで浸かる。

 地面の下にあるのは、『異界の間はざま』。

 彼のホームグラウンド。


 いつの間にか足元の境界を溶かしていたらしい。その穿たれた入り口から引き摺り込もうというのだろう。


「残念、あるわよ? もちろん御免こうむるけど、ね!!」


 穴は大きくはない。ほんの一歩抜けられればそこは地面。

 いくら槙と言えど、突貫で作った穴を維持できる時間は長くないはずだ。


 まほろは自由な腕を振り、地面から生えた人型に頭頂からまっすぐ刀を突き立てた。

 こちらを拘束しているということは、槙も自由に動けないということ。


 脳を貫き、喉を通り、腹を破り、串刺しにされた槙は一度だけぴくりと痙攣をおこす。


 だが、人型はにやりと笑ったようだった。

 その表情がどろりと溶けて、ただまほろを拘束するだけの、人型でもなんでもなくなった。

 液体に剣は相性が悪い。


 まほろは舌打ちと悪態を飲み込んで、ため息に変える。


「……しょうがない」


 ついには胸まで引き摺り込まれ、まほろはそう呟いて力を抜いた。

 唯一の武器が通じないのだから、持っていても仕方がないと、手に持っていた刀すら消す。


「こうさん?」


 どこか舌足らずな声は、人という形を捨てたせいだろうか。


「いいえ、勝負を我慢比べに変えるの」


 そうして、二人は『異界の間はざま』に姿を消した。


 形を保つことすら難しいはずのそこで、先ほどとは逆に、まほろが槙|(であったもの)ににやりと笑う。


「!?」

「あなただけの、特権だと思ってた?」


 世界が宇宙に例えられるように、『異界の間はざま』はよく海に例えられる。


 まほろはぐいと後輩だった黒い塊を掴み、底を目指して境界を蹴った。

 潜るように、深く。

 深く。

 より暗い、深海へ。


 先に変化があったのは、腕の中の怪物。

 まほろの拘束から逃れようともがいていたソレが徐々に大人しくなる。


 ごぼりと、体内から何かを吐き出すように、異物が押し出され。

 液体は人型に。

 黒い腕が崩れ、伸びる触手が剥がれ落ち、槙は印南の姿を取り戻す。


 みしりと、体の中で音がする。

 ぴしりとヒビの入る音。

 それからぱきりと、あっけなく折れた音。


 経験のない深度では魂すら悲鳴を上げる。


 槙の領分は現実の裏側。手が届きそうな表層だ。

 魑魅魍魎の住処である深海を好んで覗いたりはしない。まして潜るなど以ての外だ。


「……せんぱい、これは反則というのでは?」


 力の入らない体に鞭打って、そう声に出す。

 おやと、まほろがやっと潜水をやめてくれた。


 まほろの腕一つで支えられ、ぶらりと空間に漂う体は、彼女が手を離せばそのまま深淵まで落ちていきそうだ。

 何もかもを捨てたはずなのに、その闇の更に底は本能的な恐怖を煽る。


「知らなかったってのは、ただの言い訳よ?」

「……ですね」


 まほろには槙のように自在に『異界の間はざま』に行けるような能力はない。

 でも、連れてこられたのなら、泳げないわけではない。


「深度で私に勝てるとでも?」


 もっとも長く、生きること。

 それは最も深い『異界の間はざま』を生きてきたということ。


 沈みも浮かびもせず、その場で停滞する彼女を見れば、嘘ではないことがよくわかる。

 深度を一定に保つのは殊更難しいのだと、他でもない槙が一番よく知っていることだった。


 最初から、槙の勝機は現実にのみあったのだ。


「この辺の異形は怖いわよ? 浅瀬に居られるのなら、そうした方がいい」


 そうして、まほろは槙を抱えて地上を目指す。

 泳ぐように、闇を蹴る。


 獲物が落ちてくるのを今か今かと待っていた異形たちが、去っていく姿に慌てて闇の底から数多の手を伸ばす。

 足を掴もうと迫りくる。

 槙はぼんやりとそれを見ていた。


 でも、追いつかない。


 なにも掴めず、悔し気に底に帰っていく闇と影。


 槙は自分の首根っこを掴んでいるまほろを見上げた。


 闇から闇を泳ぎ往く。

 深海に慣れた目は、それでも頭上の闇を明るいと感じる。


「……やっぱり、先輩はきれいですねぇ」


 そんな槙の独り言は本人の耳には届かなかったらしい。


 古い知り合いの中には、彼女を『まほろばの魔女』と呼ぶ者がいる。

 なるほど、と思った。

 とても相応しい名だと。


 ばしゃりと闇を跳ね上げて、現実に帰還する。

 とはいっても、現実もまた、闇の中。


 さすがのまほろも槙を引き上げた後は肩で息をしていた。

 まほろをして、堪える深度だったのだ。

 そこまで共に潜って、いまだ生きていられる槙もまた規格外には違いない。


 まほろは溜まった『異界の間はざま』の澱を空気と入れ替えるように慎重に循環させて、肺呼吸の正常値を即座に取り戻す。現実で溺れるのはごめんだ。


 簡易な禊を終えてから一息ついて、まほろはきょろきょろと周りを見渡した。


 ――そこには潜る前から、変わっていない現実があった。


「……戻ってない? どういうこと?」


 答えを求めて、地面に横たわった、力を失くした槙を見下ろす。

『異界渡り』が、潰れる音を確かに聞いた。

『悪食』もまた同じだろう。


 異能を失った『異界帰り』に、もはや生きる術はない。

 それ以前に、今の槙は形こそ人間だが中身は『悪食』に喰い尽くされて空っぽだ。


 瀕死のくせに、槙はにやにやと笑っていた。


「アンタもたいがい俺を過剰評価してる。……俺一人で、『世界異界』は動かせない」


 そんなのは無茶だ。

 できるとしたら、そいつはもう神の領域にいる。

 そして、槙は神ではなかった。

 哀しいくらいに、人間でしかない。


「でも、ソレは起きた。……なら、あなたが、やったのでしょう?」


 槙が嬉しそうに頷き、クイズの出題者がヒントを出すようにまほろに聞いた。


「一人でできないなら?」

「ッ! 協力者がまだいるっていうの!?」


 弾かれたように槙を見たまほろに、予想に反して槙は「いいや」と首を振る。


「種をまいた」

「た、ね?」


 正解を披露する時がきた。


 思いつくはずがない答えだ。

 槙とて、思いつかなかった。

 基本が善人寄りのまほろでは、土台導き出せる答えではない。


 印南の狂気は、世界を巻き込む。


「おかしいと思わなかったか? なぜ急に『異界帰り』が増えた? それも、尻に殻をつけたままのひよっこばかり」


 自尊心ばかり高く、実力の伴わない、いやに楽観的な、ヒーロー候補。


「だって、それは『異界』接近の影響だと……」

「そうだな、それはあり得る。だが、『異界』から帰ってきたにしては、あいつらはひどく、そう、ひどく、……甘くはなかったか?」


 だって、とまほろは思い返す。

 子供のように無邪気で、爛漫で、傲慢で、だけどまっすぐな、瞳。


 絶望を知らない強靭な心の持ち主なのかと。

 自分たちとは違う、新たな時代の、新たな世代の、台頭なのかと。

 あの地獄を目にして、なお、突き進める、強さを持った、輝かしい光の欠片なのかと。


 そろそろ引き際かと、まほろは本気で思っていた。

 長く生き、研ぎ澄まされた刃を納める時が、やっとやってきたのだ、……とすら。


 血の気を失った顔で、思わず震える口を押える。


「作られた、『異界帰り』?」


 挫折も絶望も、乗り越えてきたのではなく。


「……私たちとは違う?」


 それを、知らないのだとしたら。


「そうだ、俺が見せた。異界とは名ばかりの、『異界もどきはざま』にご招待ってな」

「なんてことを!! 一般人を、『異界の間はざま』に引き摺り込んだというの!?」


 俺たちだって最初は一般人だった、とは槙は言わなかった。

 ただ鼻で笑う。


「そうだ。俺たちが見たものとは雲泥の差さ。アイツらは本物を知らない。知らずに、本物だと思ってる。

 俺たちが体一つで深海に放り込まれたのなら、あいつらは浅瀬で潮干狩りしている程度のピクニックだ。

 なんなら俺という引率までいた。ちゃんと家まで帰れるように、エスコートまでしてやった。どうだ、至れり尽くせりだろう!」


 それでも帰れなかった者すらいる。

 とんだ軟弱者たちだ。


 最初は慎重だったこの計画も、数年もすれば雑にもなる。

 それなりに手をかけた初期組ネイトらはまだいい。槙も『異界の間はざま』を『異界本物』に見せようとする努力があった。


 それすら忘れた最近のまがい物たちは「ちょっと非日常的な体験をして、世界の秘密を知り、人々を密かに守る使命を得た」くらいの認識だ。


「アイツらのことだ。俺たちをあの程度・・・・の試練も乗り越えられず、いたずらに怯える臆病者だとでも思ってるかもな」


 とんだお笑い種。

 とはいえ、これを自分が作ったというのだから、笑いも乾く。


「俺たちの恐怖を、あいつらは知らない。俺たちの苦悩を、あいつらは知らない。絶望も、憎悪も、怒りすら! 異界の深淵を、あいつらは欠片とも目にしていない。……はっ! あれで『異界帰り』とは、恐れ入る!」


 不思議なことだが、自分が作り出したというのに、槙は彼らを見ると吐き気を催すほどの嫌悪を覚える。

 憎しみに似た何かが、身の内を這いまわるのだ。


「だが、おかげであいつらはなめ腐ったまま思い通り『異界』の出現を望んだ。自分たちが特別だと勘違いして、人とは違う大きな力が誰にも知られないことを不満に思うようになった。自分たちがお前たちを守っているのに、と。

 わかるか? 見せびらかしたくなったんだ。ちやほやされたくなったんだ。「密かに」なんて馬鹿らしいと。――そして、誰もが認識できる場所で、自分たちの活躍を願った」


 薄っぺらな偽物の端末でも、数をそろえれば本物に近づく。

 そもそもからして、端末は異界の出口だ。

 今まで『異界帰り』が必死に閉じていた出口を、一斉に開けばどうなるか。


「事実、『異界』はこちらに引き寄せられ、いまや比重が傾きつつある。滲みだすだけにはとどまらず、遠からず『異界』はここに『出現』するだろう」


 それはもはや現実。

 人の目に移り、映像に残るほどに、現実になる。


 ニセモノしか知らぬままホンモノを見た時、彼らはどんな顔をするのだろう。

 それを想像するとなんとも愉快だった。

 実際に目に出来ないのだけが、残念でならない。


「『異界』なんて、誰も見なくていい」


 槙は愉悦の浮かんでいた表情を収めて顔を向ける。


 彼女なら、そういうと思っていた。


 なぜ日本では『異界帰り』が増えなかったのか。

 まほろがいたからだ。

 貪欲に計画を進行しようとする印南を宥め、槙が計画の頓挫と横やりが入ることを嫌い彼女との衝突を恐れたからだった。


 これがあるいは自然に起きた災害だったのなら、彼女は黙って見守っていたかもしれない。

 だが印南や槙に端を発していると知れれば、必ず止めに来る。


 人を愛し、奪われ、嘆くことをルーティーンとする槙と、世界を滅ぼす愛を貫く印南と。

 であるならば、紬木まほろは『異界帰り』の所業を正す者だった。


「……『端末』が壊れれば、世界は元に戻る?」

「さあ? やってみれば、いいんじゃないか?」


 ほんの少し前に似たようなやり取りをしたと、まほろは少し困ったように笑う。

 槙からその答えは得られそうにない。

 もしかしたら、彼自身知らないのかもしれない。


 まほろに言える答えは一つだった。


「やってみるわ」

「……そうしてください」


 槙は疲労を覚えて、一つ深く息を吐いた。


 槙はやった。

 出来る限りをやった。

 これ以上ないほどに、やり切った。


 ならば、あとは自分の知らない話だ。


 だが、苦労性の彼女に送る言葉をふと思いついて、再び槙は口を開いた。


「後輩の後始末は、先輩の仕事ですからね」


 頼みました、と軽く言えば、まほろはくしゃりと表情を崩した。


「どうして私の後輩は出来の悪いやつらばかりなの?」


 みんな私に後始末を押し付けていく。


 まほろの不満げな呟きを拾い、槙はおやと思った。


 どうやらまほろに迷惑をかけているのは自分だけではなかったらしい。

 少し、残念に思う。


「……でも、ここまで大掛かりな仕事を残してくれたのはあなたがはじめてよ」


 呆れたような声が槙の耳朶を打つ。

 そうかと、答えた。

 声にはなっていなかったかもしれないが、どうでもいいことだった。

 そうして目を閉じ、心を閉じる。


 長く、生き過ぎたのだと終わりの時に、やっと思えた。


 でもまだ、誰かが生きることを望めるのだなと、顔を覗き込む馴染みのある気配に笑む。


 終焉。

 どうしてか、この身には相応しくない、満足感が最後に残った。


 会いたいと願った顔は、もう思い出せない。

 死んでも、きっと会うことはないだろう。行き先が違うにきまっている。

 ならば会いたくはない。

 愛する者の手を取らないことが、愛する者を唯一救う道だと誰かが言った。

 いまさら、正しいと、

 いまさら、おもう。


 やがて心拍が止まり、静かな死が横たわる。


 まほろはそっと彼のそばを離れた。


 待っていたかのように、ばきばきと音を立てて闇色の地面が咲く。

 花のように開き、蜘蛛の足のような無数の牙が真っ赤な口の中に印南の体を飲み込んだ。


 死体を喰う、異界の花。

 花開けば、闇ばかりの異界で鮮やかに赤を彩る。

『赤の女王』の庭にだけ群生する女王の花だ。

 赤の女王の、名の由来でもある。


 印南は世界を地獄に変えたような男だけど。


「会えると、いいわね」


 まほろはそう思った。


「……ほんと、異界帰りにロクな奴はいない」


 自分のことだ。

 破滅の愛を、肯定する自分のこと。

 古い友を亡くして、哀しいと思う自分のこと。

 理由がなければ世界の滅亡すら傍観する自分のこと。

 後輩を生きる動機にする自分のこと。

 そこに意味を見出す自分のこと。


 私も、ロクでもない。


 異界から帰るためになにをしてきたのか。

 どうして『異界帰り』が生まれたのか。

 語ったことはない。

 誰も、まほろも、印南も、槙ですら、言わなかった。


 一つ、言えるとしたら。

 帰ってきた。その事実一つで、きっとそいつはろくでもないヤツなのだろうと思うほどの、こと。


 不公平だからと世界を変え、愛のために絶望を振りまく。

 そういう自分勝手な者たちの集まりになるのは、至極当たり前のことだった。


「ニセモノの『異界帰り』ね。……十分、『異界帰り』ロクデナシの資格があるわ」


 目立ちたいから闇を手繰り寄せるなんて理由。『異界帰り』にはひどく相応しい。


 後輩が一人いなくなり、手のかかる後輩たちが随分と増えたらしいけど。

 どうせまほろがやることは一つだった。

 行動理由も、たった一つ。


 まほろを拾った男がかつて言った。

『我らは鬼畜。畜生にも劣る。生きることに噛り付き、死なないために殺す。なんとまあ、生きる価値のない命か』

 そう嘯くくせに人を助ける、矛盾ばかりの男。


 その馬鹿な男が言ったのだ。

「道を拓くのは、先達の仕事だ」と。


 そうして手を引かれて、自分の足で歩けるようになって、先人の背はいつの間にか消えたから、いまはまほろが前を歩く。

 不思議と手を引くよりは、後人たちの尻拭いの方が多いのは、日ごろの行いが悪いせいだろうか。


「……さあて、次は『端末』壊しの旅か」


 今度はなかなかの長旅になりそうだ。

 面倒な後輩のせいで、異界が現実に出張中だし。


 ぐいと気合を入れるように、少々荒く使った体で伸びをした。

 と、


「おい、紬木まほろ!」


 不意にかけられた声に振り向き、ぱちくりと目を瞬く。


 安眞根が無謀なのか勇敢なのか、恐れ知らずにそこにいた。

 一般人が、闇の中にのこのこと出てくるなんてどうかしてる。


 そんなまほろの心の声を読み取ったのか、


「ふん!」


 見せびらかすように手に掲げたのは、印南と槙から渡された異界減退装置だ。

 ……なんだか得意げな顔が無性に小憎らしい。


「あんた、世界を救いにいくんだろう?」

「いいえ」


 と、思わず返したのは嫌な予感がしたからだ。


「俺もついていかせてくれ」


 まほろの回避術は安眞根にはまったく通じなかった。

 は? と返さなかった自分をまほろは褒めたい。


「どうせ室長のいない対策室なんて何の役にも立たない。あんたについていった方がよほど建設的だろう? 不意に『異界』が湧き出す世界なんて物騒極まりない。早く元に戻そうぜ!」


 そんな、親指立てて爽やかに笑いかけられても……。

 時々いるのだ、こういう、お節介で馬鹿な若者が。


 一応、悪あがきにまほろは告げた。


「世界なんて救わないわよ。ただ、後輩の後始末をしにいくの」


 安眞根は、それのどこが世界を救うことと違うのかさっぱり理解できない。

 だが、彼女にはきっとこの言葉が有効だろう。


「なら俺は上司の不始末を片付けにいかないとな!」


 最後に異界減退装置を渡してきた彼の心情は安眞根にはわからない。

 だが、安眞根はこうするのが正しい使い道だと思ったのだ。


 いまこの世界で彼女についていけるのは、たぶん自分だけだと知っている。

 一人で行かせてなるものかと、心に決めていた。足手まといでも、彼女にはきっと荷物が必要だ。


 そんな安眞根の心情など露知らず、まほろはたいそう面倒な顔をしてなにも言わず踵を返した。

 慌てた安眞根がその背に叫ぶ。


「おい、黙って行くなよ。相棒!」

「ちょっと、だれが相棒よ!!」


 これが策だとわかっているけど、否定せずにはいられない。

 怒鳴り声を嬉しそうに聞く安眞根に、まほろは盛大なため息を吐いた。


「……久々に、変なことになっちゃったなあ」


 少しだけ、少しだけなら。

 たまには誰かと歩みを共にするのもいいか、と諦め半分に思いながら。





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まほろばの魔女 一集 @issyu_

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