【落語台本】普賢菩薩(ふげんぼさつ)

紀瀬川 沙

第1話

▼亀戸天神鳥居 門前町の路傍


【時は桜の終わり、藤の始まりの季節。気持ちよく晴れた日のお昼頃。亀戸天神の鳥居前の広小路には露天商が所狭しと陣取って、季節の花を見物にきた多くの客を相手にさまざまなものを売っております。子供向けの駄菓子・甘物から、女性向けの櫛・笄、さらには見世物小屋に客を集める長弁舌の香具師まで、雑多な人ごみの様子。見ると、ある一区画には急造の骨董市ができあがっております。その前を、一人の人影が通ってゆきます】


八五郎 <あ~あ、与太郎の野郎と話してたら長くなっちまった。急がねえと薬屋が閉まっちまう>

骨董商 <ちょいと、そこの方>

八五郎 <あん?かまってる暇はねえんだ>

骨董商 <まぁそう言わずに。掘り出し物の掛け軸から仏像、根付なんてのも揃ってるよ。ちょいとのぞいていかないかい?>

八五郎 <普段なら呼び止められたのも合縁奇縁と寄りてえとこなんだがね>

骨董商 <お客さん、時間がないと見える。それならあたしも無理にとは言えないね。今ざっとご覧になって、興味をそそるものがあれば帰り道にでも寄ってくださいな>

八五郎 <おう>


【と言って八五郎が薬屋へと急ごうとしたその時、後ろから与太郎が走って参りまして】


与太郎 <お~い、八っつあん。待ってよ~>

八五郎 <なんだ、与太郎か。俺あ急いでるってさっきも言ったろ。それをわざわざ追っかけてきて。なんでえ?>

与太郎 <それがね、まだなんでかなと思うことがあって>

八五郎 <もういいだろう。お前、さっきも一刻ほどしゃべってたんだから>

与太郎 <え~、聞いてよ。ね~、八っつあんは薬屋に行くって言ってたけど、なんで、なんで薬は病気に効くの?なんで?>

八五郎 <ああ、ったく、勘弁してくれよ>

与太郎 <それだけ教えてくれたら、もう帰るからさ>

八五郎 <しょうがねえ。それはな、昔々、薬師如来様っていう偉い坊さんがいてな。その坊さんの持ってる壷、薬壷だな、それが長いあいだ雨風に打たれて、坊さんのほうは体中金色だったのが黒っちゃけるほど長いあいだだ、そのあいだに壷に入ってた薬草が煮詰まって煮詰まって薬になったんだ>

与太郎 <へー、そーなんだー。じゃあさ、それを何で今は薬屋のおやじが作ってるの?>

八五郎 <また質問か。それは、薬屋のおやじが薬師如来様に教わったからだ>

与太郎 <へー、そーなんだー。じゃあさ>

八五郎 <もういい加減にしろ>

与太郎 <これで最後。本当に最後。薬がそんなに効くならさ、なんで薬を使っても死んじゃう人がいるの?>

八五郎 <そりゃ、決まってるだろ、薬屋のおやじの作り方が下手なんだよ>

与太郎 <へー、そっかー。わかった、ありがとー。じゃあねー>

骨董商 <いやはや、すごいご高説ですな。せっかちに走って行っちゃいましたが、あの方も本当に納得したのですかな?>

八五郎 <やれやれ。ん?さっきの露店の。なんだ?>

骨董商 <いえいえ、嫌でもさっきの話が耳に入っちゃいましたもので>

八五郎 <うるせえな。なにも変なところはなかったろ?ああ、そうか、与太郎がちょっと変だが>

骨董商 <薬がどうこう、薬師如来がどうこう、薬屋のおやじがどうこうと>

八五郎 <そうやって俺も小せえ時分に親から教わったぜ>

骨董商 <そうでしたか。それはそれは>

八五郎 <おっと、そうはしてらんねえ。急がねえと>

骨董商 <粗忽な人たちだ。おーい、ぜひ帰りにでも寄ってくださいなー>

八五郎 <おーう>


【鳥居前には、名物の藤棚で人出のにぎわう境内から祭りの五人囃子が聞こえて参りました。辻角の露店はますます繁盛してゆく様子。八五郎とはいうと、春埃と花吹雪のなか、辻を駆けてゆく背中が遠ざかってゆきます。さて、八五郎の行く手と急ぐわけはいかに。詳しくは次回のお話にて】

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