第5節 秋津が下宿の中に入ってしまったので尾行することができなくなってしまった。

 秋津が下宿の中に入ってしまったので尾行することができなくなってしまった。


 だが俺はもの足りなさを感じていた。


 爆発事件につながるような手がかりをまだ何も得ていなかったからだ。


 周囲の住宅街を見回してみると、背の低い住宅の中にぽつんと4、5階建てのビルが一つだけ生えているのが目に入る。


 俺はあることを思いつきそのビルに向かった。


 着いてみるとそこは不動産会社なんかが入った雑居ビルで、共用部なら誰でも入ることができた。


 エレベーターを使って行くことのできる最上階まで上ると共用部を通って外階段に出る。


 屋上に続く階段を登っていくと施錠された門扉があって部外者が勝手に上がれないようになっていた。


 俺は何度か取っ手をがちゃがちゃして鍵の開かないのを確認すると、浮いて扉を乗り越えた。


 言い忘れていたが俺は宙に浮くことができる。


 別に生まれつきそんなことができた訳ではない。


 爆発事件に遭遇してからこの奇妙な能力を得たのだ――そうとしか思えないのでそう思うことにしている。


 おそらく爆発を体験した者は何らかの能力に目覚めるのだ。


 自分がいったいどんな理屈で浮いているのかさっぱり分からなかったが、そんなことは考えたって仕方ない。


 重要なのは爆発があったことを皆に認めさせることで、そのために自分が得たこの不思議な力を有効に使うことだった。


 俺は屋上に上がると秋津の下宿がある方角を眺めてみた。


 ビルはちょうど下宿のベランダと相対する位置にあったので観察するには絶好の場所だった。


 秋津の下宿はよくある学生向けの賃貸アパートのようなつくりだった。


 ベランダはひとつの掃き出し窓ごとに板で仕切られていて、建物の中も同様に壁で仕切られているものと思われた。


 仕切り板と壁で区切られた範囲が一人の入居者分のスペースで、秋津もそのうちどれか一つのスペースで寝起きしているのだろう。


 俺は秋津の部屋を突きとめたかった。


 しかしどのベランダも鉢植え一つない無個性なものだったし、全ての部屋のカーテンが閉め切られているのでどこが彼女の部屋なのか分からない。


 何か手がかりが無いかとすべてのベランダに丹念に視線を走らせていると、突然ある部屋の窓でカーテンの白色が踊った。


 はっとして目をやれば秋津がカーテンを勢いよく開けているところだった。


 彼女はカーテンを全開にすると、ひとつ背伸びをしてから暗い部屋の奥に引っ込んで行った。


 リラックスした様子を見るにそこが彼女の部屋なのだろう。


 カーテンが開けられたことで部屋の中の様子もいくらか見えるようになった。


 中は暗かったが、目を凝らしてみるとそこに異様な光景が広がっていることに気づく。


 部屋の中には冷蔵庫があった。


 いや、部屋の中に冷蔵庫があるのは当然のことであって驚くべきことでは無い。


 問題はその数だ。


 狭い部屋の壁沿いにたくさんの冷蔵庫が並んでいたのだ。


 冷蔵庫は片側だけではなく反対側の壁沿いにも並んでいるように見える。


 おそらく10個以上はあるのではないか。


 ともかく尋常では無い数だ。


 一人暮らしの中学生がいったい何をそんな大量に冷蔵する必要があるのか、俺には全く見当がつかなかった。


 見間違いではないかと狭いビルの屋上で何度も視点の位置を変えて確認してみたが、それらは冷蔵庫以外の何物にも見えなかった。


 そうこうしているうちに部屋の奥から秋津が戻ってきた。


 彼女は窓際に立つと、こちらに気づく様子も無く、おもむろに学校の制服を脱ぎ始めた。


 俺はぎょっとする。


 そしてばつの悪さと、どぎまぎするような罪悪感とを同時に覚えた。


「うかつな奴だ」


 俺は吐き捨てるようにそう呟く。


 秋津はまだ生まれ育った島の習慣から抜け出せていないのだ。


 たしかに高い建物の無い島でならあんな風に無防備に着替えをしたって問題無いのだろう。


 だが街中でそんなことをしたら他人に見られてしまう、現に俺に見られている。


 俺は自分のやっていることは棚に上げながら、ぶつぶつと彼女への批判を独りごちた。


 しかしその間も視線は着替えをする彼女に注がれ続けているのだった。


 秋津はまず制服のブラウスを脱いだ。


 するとその下から例の、首から手首までを覆う黒いインナーが出てきた。


 続いてスカートも脱ぎ捨てる。


 スカートの下は真っ黒なストッキングだったので、都合、彼女は黒い全身タイツのような恰好になった。


 身体のラインが出る姿になってみると、やはり彼女は細身でとてもよく均衡のとれた体型だと分かる。


 俺は固唾を飲んで着替えの様子を見守った。


 この後、おそらく彼女はインナーも脱いでしまうのだろう。


 そんな予感が心の裡にのぼったとき、俺はそうなれば彼女の噂、全身に刺青が入っているというあの噂の真相を明らかにできるということに気づいた。


 元よりその噂は俺にとってはどうでもよいものだった。


 しかしいざ真相を知ることができる機会に巡り合うと、人並みにその真偽が気になってきた。


 自分も所詮はつまらない人間の一人なんだなと自嘲したくなったが、どうにも仕様がない。


 隠されているものは、それがどんなくだらないものであっても隠されているというだけで欲望を引き受けるだけの資格があるのだ。


 やがて秋津が上半身を覆ったインナーの裾に両手を掛けた。


 動作は一瞬だった。


 彼女は一気にインナーをめくりあげて脱ぎ捨てた、かのように見えた。


 だが奇妙なことが起こった。


 脱いだはずなのに、黒いインナーはなお彼女の肌を覆っていたのだ。


 しかも今度は黒いインナーの上に下着まで付けていた。


 下着はインナーの下に付けているべきもので、彼女の恰好はいかにも奇妙だ。


 まるで手品でも見せられているような心地だった。


 俺は彼女の身に何が起こっているのか知るために食い入るように凝視した。


 するとやがて、そのことに気づいた。


 彼女は確かに黒いインナーを脱いでいたのだ。


 黒く見えていたのはインナーではなく、彼女の体表を覆っていたあるものだ。


 不思議なことに、俺はまるで大写しにした映像でも見るように、彼女の肌を細部まで鮮明に認識することができた。


 つまりこういうことだ。


 彼女の全身は、顔や手先足先などの一部を除いて、黒い、無数の文字の列、つまり文章に、隙間なく覆われていたのだった。


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