第5節 美々面のことで学校から呼び出しでも受けるんじゃないかとびくびくしていた圭太だったが……

 美々面のことで学校から呼び出しでも受けるんじゃないかとびくびくしていた圭太だったが、結局下校時間まで何事もなく過ぎていった。


 放課後になって主事室に行って見ると部屋には誰もおらず、校庭に出てみるとすぐにうさぎ小屋の近くで草刈りをしている主事さんの姿が目に入った。


 すぐ傍にはしゃがみこんで小屋の中のうさぎに見入っている美々面の姿もあった。


 圭太が美々面を見ていてくれたことの礼を言うと主事さんは農夫然とした笑顔を浮かべ「いいよいいよ」と大声で答え、さらにこう続けた。


「先生がね、今日は部活に来なくていいから美々面ちゃん連れて帰れって言ってたよ」


 部活というのは「先生」が顧問を務める文芸部のことだ。


 いつもは圭太の出席率の悪いのを咎めて部活に出ろ出ろと言ってくる先生だったが、今日はその逆だった。


 美々面にいつまでも学校にいられると困るのだろうが、圭太と顔を合わせて彼女のことで責められるのも嫌だったに違いなかった。


 伝言を聞いた圭太は、ある種の安堵感を覚えていた。


 先生の説得には成功していないし事態は何も好転していないのだから本当は安心する理由など無い。


 しかし昨晩から気を張り続けていた圭太には何より目先の安楽さ――家での無為で怠惰な時間――がまばゆく思えたのだった。


 圭太は先生の言葉に大人しく従うことにした。


 美々面はうさぎに執着して帰るのを嫌がったが圭太に手を引かれると渋々歩き出した。


 学校に残った生徒達の好奇の目から逃れるように圭太たちはそそくさと学校を後にした。




 ふと部屋を見回した圭太はいつの間にかアパートの床の上で腹ばいになっている美々面を見つけた。


 彼女は気をつけのような姿勢で体を投地しアゴだけを持ち上げて顔を前に向けている。


「何してるの?」


 圭太が質問すると彼女は前を向いたまま、


「別に」


 無表情でそう答えた。


 学校から帰ると美々面は何をするでもなくソファーでぼうっとしていたが気付けばこんな体勢になっていたのだった。


「楽しいの、それ」


 重ねて質問すると美々面はしばらく考えるような素振りをしていたが、やがてまた「別に」と答えた。


 圭太はため息を吐きたくなった。


 彼女は自分の境遇をどう思ってるんだろうか、圭太には不思議で仕方なかった。


 満足していないことはまず間違いないだろう。


 昨日からちっとも楽しそうな様子を見せないし、こちらに対する態度は冷淡そのものだ。


 しかし嫌がって泣いたり喚いたりすることも無いのだ。


 小さい子どもというのは嫌だったら嫌でもっと感情を直接的に表すものではないのだろうか。


 圭太は思い切って質問してみることにした。


「ねえ」


 美々面は今度は圭太の方に顔を向けた。


「君はさ、こんな所にいたいの?」


 彼女はしばらく相手の顔を見ていたが、やがて視線を目の前の宙空に戻して黙ってしまった。


 ややあってから小さな声で、


「分かんない」


と呟いた。


 そのあいまいな答えは圭太に対する酷薄さから来たものというより、自分の心情をただ正直に答えているだけに見えた。


 ここにいたいのかどうか、そんなこと彼女にだって分からないのだ。


 圭太はそれ以上質問するのをやめた。




 圭太が美々面に違和感を覚えたのは夜中頃のことだった。ベットで眠っていた圭太は微かな足音に目を覚ました。暗い部屋の中を誰かがゆっくりと歩く気配がある。足音はやがて止み、次いでトイレのドアが静かに開けられた。どうやら美々面がトイレに立ったようだった。音の原因が分かって安心した圭太、意識は再び弛緩し溶解し始める。しかし心地よいまどろみは長くは続かなかった。ベットの上に何か軽いものが落ちるような震動があった。意識は再び部屋の中に引き戻される。圭太が億劫そうに重い瞼を持ち上げると、目の前に美々面の顔があった。ぎょっとして一瞬で眠気が覚めた。美々面はベットに腰を降ろし、身体を乗り出して圭太の顔を覗き込んでいたのだ。


「ど、どうしたの?」


 狼狽した圭太が上ずった声を上げる。その様子がおかしかったのか美々面はくすくすと笑って目を細めた。圭太は驚く。これまで美々面の顔の上に表情と呼べるようなものを認めたことは一度も無かった。しかし今、彼女は確かに笑っていた。圭太が相手の顔をまじまじと見ていると、美々面の瞳がまっすぐに圭太の瞳を捕らえた。圭太はとっさに目を逸らす。


「圭太」


 美々面はそう言うと既に近い顔をさらにぐいと近づける。


「な、何?」


 目を背けたままで圭太は言った。美々面の存在をこんなに面映く感じたのも初めてだった。彼女は圭太の耳元まで顔を寄せ、そして囁いた。


「私をここにいさせて」


 言い終えるやいなや美々面は素早く身を翻してベット代わりのソファーに戻った。唖然としていると彼女はすぐに静かな寝息を立て始めた。圭太はそのときになってようやく自分の心臓が早鐘のようになっているのに気付いた。頭の中では学校で先生に言われた言葉――「そのうちいいこともあるさ」というあの言葉が何度も響き返していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る