第89話


 ん? この音は……。 視線が一気にこちらへ集まる。


 私のスマホじゃん!! わ、わ、私ったらーー!! なんて学習能力がないのよ! 主任が話してる時に着信が鳴るなんて! このオフィスにおいては、葬式場で大笑いするくらい不謹慎かつ、冒涜的行為!



「す、すみません! ほんっとーーにすみません!!」



 鋭い視線が向けられる中、私はスマホを引っつかんで頭を下げた。主任は小さく溜息をつく。そして低い声で告げた。



「二度目だな。お前は参加しなくていい。出てろ」



 さっきまでギラギラした迷惑そうな目で私を見ていた同僚が、今にも『うわあ』と声を出しそうな同情の顔に変わる。



「……分かりました」



 私はスマホを握り締め、トボトボとオフィスを出た。美里が心配そうに見ていた気がする。バタン。ドアを閉じる。その向こうで、主任が説明を再開するのが聞こえた。



「くっそ~~~~~~そんなに怒らなくてもいいじゃんか! チャルメラこそ芸術の最高峰だと思わないの!? バーカ! ブゥァカ!!」



 だいたい誰なのよ!? こんな時にメールよこすなんてさあ!!




『件名:駄犬です。

 朝から駄文を送りつけて申し訳ありません。しかし、どうしても僕の胸の内の叫びを聞いて欲しくてたまらず、忙しい会議中ではありますが、こっそり拝見していただければと思います。

 この駄犬が異変を察知いたしましたのは、詩絵子様が出勤されるよりもはやい段階でした。あれは昨日の夜のことです。詩絵子様がメガネ屋に赴かれるところを目撃しました。これはもしやと思ったのですが、予想通り詩絵子様はメガネを購入されました。僕自身、特別メガネをかけた女性に惹かれるということは、これまでなかったのですが(むしろ女王様がメガネをかけるなど、忌むべき邪道だと自負していました。女王様というイメージに媚びたアイテムを、女王様自らかけるところが腑に落ちないからです)、にも関わらず、メガネをかけた詩絵子様の姿に、これまでにない高揚が駄犬のちんけな胸をたちまち鷲掴みにしたのです。メガネが似合う、似合わないの話しではなく、メガネをかけることである種の詩絵子様が完成なされた……。そのように感じました。僕が思うに、メガネはおそらく、いちアイテムにすぎないのでしょう。まだ気づいていないだけで、詩絵子様が身に付けるべきアイテムはこの世に溢れていると僕は踏んでいます。詩絵子様、探しましょう。詩絵子様にふさわしいアイテムは、まだまだ存在するはずです。

 このことをどうしてもお伝えしたく、会議中にメールを送りつけてしまいました(笑)

 これにあたって一つ危惧があるのですが、もしも詩絵子がマナーモードにしていなかった場合、僕は立場上……』



「…………」



 垂らす……! 背中と言わず全身ロウまみれにして固めてやる!!



「私はねえ!『(笑)』でこんなにムカついたのは初めてなのよっ!」



 昼休み。まだ怒りの収まらないまま、私は美里に不満をぶちまけた。



「『清水、二度目だな』……って! 会議中にメール送ってきたのは、二度ともあんたなんだよボケカスぅ!」


「これに懲りたら大人しくマナーモードにしときなさいよ。でもよかったじゃない、謝れば許してくれるんでしょ?」



 美里は弁当を食べながら、スマホを扱いながら、なんともない様子で言った。



「それがまた腹立たしいのよ~~~! なんでなにも悪くない私が主任なんかに……!」


「いや、あんたに非があるでしょ。明らかに」



 実はこの後、私は主任に謝罪するという非常に屈辱的な行為をしなければならない運命にある。それは主任の提案だった。



『僕は立場上、社内の人間関係に不具合を起こさないよう、詩絵子様を叱りつけるという地獄巡りくらいでは許されない劣悪な行為をしなくてはなりません。もし詩絵子様がマナーモードにしていなければ、詩絵子様にオフィスを出て行くように、できる限りやんわりお伝えしますので、詩絵子様は外の喫茶店で小一時間程ゆっくりなされ、それから体裁を繕うために謝罪に来ていただければ、それが最善ではないかと思います。』



「ぜっっったい知ってたよね!? 私がマナーモードにしてないの、ぜっったいに知ってたよね!?」



 じゃなきゃこんな懇切丁寧に説明するわけないじゃんか!



「これは罠よ! 私は主任にはめられたのよっ!」


「で、本当に喫茶店でのんびりしてたの?」


「いーんやっ、主任の言うとおりにするのはシャクだから、コンビニで漫画読んでた」


「とりあえず、さっさと謝ってきなさいよ。昼休み中に謝ってた方がいいでしょ? あと十分しかないよ」



 腕時計を確認してみる。たしかにあと十分……針がカッチと動いて九分に変わる。私は胸ポケットからメガネを取り出し、ゆっくり指で位置を調節した。



「一分だ」


「は?」


「昼休み残り一分で謝罪にいく。このことに、それ以上の時間はかけられん」


「あっそう」


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