「メガネデビュー!」

第88話



「じゃじゃーーん。ついに買っちゃったよ! これで私もメガネデビュー!」



 薄いメタルフレームのメガネをかけた私は、その姿を美里に見せつけた。



「へえ。あんたって目悪かったっけ?」


「実は最近、パソコンの字が見えづらくなっちゃってさあ~。でもかっこいいよね、メガネって。こうやって、くいっと上げて……」



 心持ち紳士的な姿勢をとり、メガネのブリッジを中指で押し上げる。



「お嬢さん……僕とチョメチョメしませんか……?」


「……」


「なーんて台詞もサマになっちゃう! これぞメガネ効果!」


「なるかボケ。でもま、ちょっとエスっぽい感じだし、主任は喜ぶかもね」


「ええーーー……」


「なによその顔は。彼氏が喜んでくれるんだから、いいじゃない」


「主任に喜ばれたって全然うれしくないよ。そもそも別れを視野に入れてるのに」


「まだそんなこと言ってんだ。そういえば、今日クリスマスイブじゃん。主任と食事くらい行かないの?」


「主任は新プロジェクトで忙しいから、一晩中会社にいるみたいだよ」


「なるほど……それは、ちょっと……」



 美里は急に神妙な顔をして、顎に手を当てた。



「なに? なになに?」


「今回の企画は、あんたが思っている以上に規模のでかいものなの。それに比べて人員は足りていない。でも私たち部下を時間外労働させるわけにはいかないってことで、ここのところは主任が連日徹夜でプロジェクトにあたってるらしいんだけど」


「へえ、そうなんだ。知らなかったよ」


「そのことに不満を唱える同僚が相次いでいるのよ。主任だけが業務を一身に背負うのはおかしいって……まあその通りなんだけどさ。それでそろそろ、みんなで進んで主任を手伝おうっていう流れになってんのよ」


「ま、まさか……」



 美里は私のメガネをとって自分にかけると、くいっとカッコ良く上げてみせた。



「その通り。今の流れだと、とうぜん私たちも残業せざるを得なくなるわ」


「そんな……!」


「今の流れで私たちだけ参加しないのは、明らかなKY。この局面を逃れるために必要なもの……詩絵子、ここまで言えば、もう分かるわね?」


「それは……つまり……」



 分からなかった。KYという時代遅れのフレーズに気を取られたせいかもしれない。

 レンズの奥から鋭い目を覗かせ、美里は先を告げた。



「そう……あんたが今夜、会社に足を運び、そこで聖夜を祝う。そうすることで主任のモチベーションはみるみる上がり、作業スピードは格段にアップするはず」


「で、でも、それだけで本当に……?」


「もちろん、普通のカップルのように生ぬるいクリスマスパーティーをしろと言っているわけじゃないわ」


「それじゃあ……一体なにを……!?」



 彼女が俯くと、レンズが光を反射して、その奥の目は見えなくなった。美里は厳かに言った。



「ロウソクよ」


「ロウソク?」


「ロウソクを背中に垂らすのはSMプレイの基本! 普通のお祝いよりは、ずっと効果もあるはず!」



 美里はそこでメガネを外して私に返すと、あっけらかんとして笑ってみせた。



「なんてね。それくらいで主任のやる気が上がるかってね。そもそも私は、残業に賛成だし」


「ロウソクか……」



 確かに、SMプレイと言えばロウソク。私でも知っているくらいだし、きっとSM界では基本中の基本のプレイなんだろう。そして今日はクリスマスイブ。ロウソクを出しても全く不自然じゃないし、そういう流れに運びやすい。


 でも、私にできるだろうか?


 主任の背中を踏みつけ、そこに熱いロウを垂らすなんて……。まあ……垂らされる方なら無理だけど、そっちの役なら、まだ……。


 なにより、これは今まで以上に主任にやる気を出してもらい、残業をなくすための重要な任務! 問題はロウを垂らせる垂らせない云々の倫理感ではない! 私が出来るのはどっちかという明白なる命題!


 ロウソクか……! 残業か……!


 私はメガネをかけ、決断を胸にブリッチを押し上げた。



「この任務……引き受けた……!」




 けれどもけれども。引き受けたのはいいとして、実際その場になって本当に出来るかな。あれって熱いのかなあ。火傷とかしないもんなのかな? それとも、火傷するくらいがMの皆さんには心地よいのかな?


 ホワイトボードを駆使して企画説明をする主任の背中を見ながら、私は本当にその背中にロウソクを垂らせるだろうかと考えた。


 さすがにこれは……やっちまって大丈夫か……? みんなから尊敬の目を向けられるこの主任にロウを垂らすなんて……! しかもこのオフィスでだなんて! よく考えてみれば危険よ! このことがもしもバレたら、主任を尊敬する同僚になにをされるか分からない!


 やっぱ……やめとこっかなあ……。


 ピリピリと神経質な空気が充満するオフィスに、気の抜けるチャルメラの音が鳴り響いた。



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