第12話


 さっきの比じゃないほど胸が高鳴ってしまって、それだけでもやかましいのに、主任が優しく微笑んだりするから―――……その笑顔を見たとたん、なんだか息苦しくなって、私は胸の辺りでぎゅぅうっ、と手を握った。


 それから、次の駅に着くまで、主任は自分の体をさりげなく盾にして、私を守ってくれていた。


 主任のぬくもりを感じながら、ちらりと視線を上げてみる。その端正な横顔を、まじまじと直視することが出来なくて、すぐに顔を逸らしてしまう。


 ……やばい。


 今度はさっきと違う意味で、やばい。私ってば単純なんだから。


 ……大好きになっちゃったかも―――……。




 次の駅で降りてからの主任の行動は、的確かつスピーディーだった。


 痴漢を駅員に引き渡し、勤務先やら住所やらを問いただし、とにかく面倒なやりとりを手早く済ませてくれた。


 それが終わると、主任はいつになく強引に私の腕を引いて、その長い足で構内を大股で歩きだした。


 もう主任ったら! 強引なんだからっ!


 私は痴漢に与えられた恐怖なんてすっかり忘れて、目の前の理想の男性に目がハートになっていた。


「ちょ、ちょっとちょっと! ダーリンはやいってえ!」


 私は浮かれていた。


 連れてこられたのは、多目的トイレだった。主任はどこか荒々しく私を中に連れ込み、扉をしっかり施錠する。


 こんなに強引につれてきて、ダーリンったらなにするつもりなの? こんなところでえ!


 トイレの汚さが気にならないほど有頂天だった。

 そう―――……。駅の多目的トイレというのは、それはそれは小汚い場所だ。


 入った瞬間に汚臭がして、ちゃんと掃除してんのかよ、と言いたくなるくらい便器も床も汚れている。


「申し訳ありませんでした詩絵子様!」


 そんなばっちいトイレの床に這いつくばって、主任は土下座した。


「…………」


 やばい……。


 痴漢にあった時とも主任にときめいた時とも、違う意味で……やばい。


 いや、これはまじでやばい。

 なにがやばいって、らんらんとハートマークに輝いていた目が、一瞬で死んだ。


「あの……とりあえず顔あげませんか……? 主任。ここ、すごくばっちいですよ」


 やだこの人こわい。


 私は心の底からひいていた。今すぐここから逃げ去ってしまいたかった。しかし助けてもらっておいて、それはさすがにひどいだろう。


 だから出来る限り壁際に体を寄せながら、私はひかえめに言った。


「いえ……詩絵子様が痴漢被害に遭うなんて、僕の注意不足でした」


 うん……。いいからおうち帰ろ?


「駄犬のちんまりとしたプチトマトほどの脳みそでは、まさか詩絵子様のような方に欲情する奇特な輩がいるとは、まったく予測できませんでした」


「……」


 ……ん?


「いや、あるいは超能力を身につけた嘘偽りのない善良な予言者であっても、このような不足の事態が起こるとは予測できなかったかもしれません。そもそも犯人は、一体なにを持ってして、詩絵子様を大人と判断したのか……? ここが迷宮いりになりそうな巨大な謎なのです。いや、彼ももしかすると、そういう性癖を持っていたのかもしれない。この駄犬のような人間であれば、詩絵子様をターゲットにするのは、むしろ自然な流れ。痴漢などという行為は、僕の美徳ではありえないが、元々詩絵子様のような方を探していたというのは……ありえなくはない……、か」


 まるで名推理でも展開ように、主任は頭をさげたままぶつぶつと続ける。


 あれれ~? おっかしいなあ? 頭蹴り飛ばしたくなってきた。


「しかし! もしそうであっても! 僕はあなたをお守りしなくてはならなかった!」


 主任は後悔の深さ示すように、今一度床へ額を押し付けた。


「……あの、主任。ひとつ聞いていいですか?」


「はい、いつものよう、命をかけてお答えします」


 ……スルーだ。『命をかける』は、今はスルーだ。そんなことよりも、今いちばん不思議なのは


「なんで電車にいたんですか?」


 助けてもらったときは、浮かれすぎていて気付かなかったけど、主任の家は私の家とは逆方向のはずだ。


 もしかして、後をつけてたとか……。


「詩絵子様の察っするとおり、後をつけていたのでございます」


「……へえ……」


 これもスルーだ。心を読まれたのにも、今は突っ込まないぞ。私も慣れてきたもんだ。とにかく話を進めなくては。


「あのですね、主任」


「駄犬です!」


 あ、そういえばそっか。譲れないポイントだった。めんどくさいなあ。

 後頭部ばかりを見せる駄犬を見下ろし、私は告げた。


「つけてこないでください」


…………………………………………………………。


 主任は微動だにせず床にひれ伏している。


 ……あれ? 聞こえなかったかな?


「私のあとをついてくるのは、やめてください。こんりんざい」


……………………………………………………………………。



 ええっ!?

 黙りこむとこなの!?


 私が痴漢に遭うはずないって時は、びっくりするくらいぺらぺら喋ったじゃん!名推理だったじゃん!


「……詩絵子様」


 駄犬は重々しく口を開いた。口は見えないけど。


「いくら詩絵子様の願いとはいえ、こればかりは無理でございます」


「いや、あの……私もむりです。そういえば主任、もしかしてとは思うんですけど、私の部屋まで覗いてたりしませんよね……?」


 メールの内容に疑わしいものがあったのを思い出して、おそるおそる問いかける。明太子を乗せてご飯を食べたなんて、監視でもしていない限り分かるはずがないと思う。


 でもまさか、さすがに主任もそこまでは……。


「………………」


 沈黙。


 ……ないって。いや、ほんとないって。だってさ、痴漢よりも、悪質な犯罪かもしれないよ?


「……………」


 いろいろと納得のいかない部分はあるけど、痴漢から助けてくれたわけだし。


 さすがにそこまでは……ね?


「…………くっ!!」


 心底悔しそうに、主任は床の上で拳を握った。


「『くっ!!』じゃねーよ!『くっ!!』じゃ!!」



 あー! あー! あー! ほんとうに私がバカだったよこんな変態にときめいちゃって!


「もうほんとに知んない!! 主任のぼけなす! 仕返しに私も主任の部屋にカメラ仕掛けてやる!」


「え!? 本当ですか詩絵子様!? いつ仕掛けてくださるんですか!?」


「喜ぶなボケエーーー!!」


 勢い良くドアを閉めて、私は多目的トイレをあとにした。


 くっそー。くたばれって言って、ちょっと悪かったなあ、なんて思ってた私がバカだった。やっぱりあいつは、真性の変態だ。


 その日、主任からメールが届いたのは、私が家に帰りつくよりも早くのことだった。




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