「今夜、お迎えにあがります」
第2話
「はあ~~~~」
会社の屋上のベンチ。私はパックのイチゴミルクを喉に通してから、盛大なため息をついた。
「なになに、詩絵子、今日は朝から元気ないじゃん」
隣でお手製の弁当に舌鼓を打ちながら、美里は私の顔をのぞき込む。そう聞いて欲しくて、わざとらしく目の前で溜息ついていたので、私は昨晩の信じられない出来事を美里に話した。
「うっそー! あの厳しい向井主任が!?」
大きく開いた口に手を当てて驚く美里。それでも口の中で咀嚼されかけた卵焼きは隠せていない。
向井帝人(ムカイミカド)。29歳。独身。今勢いのある中小企業、株式会社サンシャイン・ミッションズの技術開発部主任。女性にも男性にも平等に厳しく、その並々ならぬ統率力と飛びぬけた創造性で、25歳という異例の若さで主任に抜擢され、以後その座に君臨し続けている。才能溢れる人だ。
顔も爽やかだ。いわゆるイケメンアイドルというよりは、渋い俳優さんという見た目。滅多に笑うことはないけど、極稀にくしゃっと頬に皺を寄せて笑うことがある。普段の厳格な表情と無邪気な笑顔のギャップに、心に矢を打ちぬかれる社員は女性だけには留まらないという噂があるほど。
女性社員の中には、主任を狙っている人は多い。でもガードが鉄壁すぎて、誰も交際には至らず、ファンにとどまるらしい。私も一緒に仕事をしながら、仕事へのひたむきな姿勢とか、背が高くてスマートな外見とか、カッコいいなあ、と思っていた。
だから初めて食事に誘われた時は、目玉が飛び出るほど驚いた。それからとんとん拍子に話しは進み、付き合い始めたのが1ヶ月前。1ヶ月経ってもキスすらなく、昨晩いよいよ身体を重ね合わせるのかと思いきや……。
あの土下座だ。
「なんかもう……詐欺にあった気分だよ……。200万くらい騙しとられたみたいな……」
私はがっくりと頭を垂らした。
「それはショックだね~まさかエムだったなんて」
「ただのエムじゃないのよ。ドエムよドエム! あいつ私にピンヒール履かせて踏んで下さいって言ったのよ!? ピッッシーーー!! っと、無駄に綺麗な土下座で! 土下座に作法でもあるの!? どっかで教室でも開いてるわけ?」
だとしたら皆勤賞の模範的な優等生だろうよ! あの少し突き上げたケツが妙に腹立つのよ! あれも作法の一部なわけ? ケツの穴にピンヒールねじ込んでやろうか!
イチゴミルクのパックを握り潰して興奮する私をよそに、美里はなにか気づいたように「あ!」と声を上げた。
「なによ」
「ね! ね! 考えてみれば、主任の名前ってMukai Mikadoでしょ? イニシャルはM・M!」
「なんなのよ、名前からしてドエムなの?」
「それで、詩絵子がShimizu SiekoでS・S。最強のSMカップルじゃない!」
どうでもいい新事実の発見に、美里は嬉しそうにする。私はうなだれた。
「勘弁してよー。私はもっと男気溢れる、俺についてこい! って感じが好きなんだから」
「えー、そんなの詩絵子には合わないと思うけど。あんたはどっちかというと、S寄りでしょ」
「違うのよ! 確かに、どちらかというとS寄りよ。それは認める。でも、私の尖った部分もねじ伏せて引っ張ってほしいのよ!」
私の力説に、美里は「ふーん。」と、どうでも良さそうに箸でブロッコリーを摘んだ。
「で、そのあとはどうしたの?踏んであげたの?」
その質問に、私は視線を上へ巡らせる。昨晩のことを思い出しながら、続きを美里に話した。
『どうか、僕を踏んで下さい!!』
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果てしない沈黙。
後世に語り継がれても恥じることのない見事な土下座を目の前に、私はだらしなく口を開くばかりだった。やがて主任は額を床につけたまま、ぶつぶつとなにか言い出した。
『……まさかの放置プレイですか……。さすがは詩絵子様……お見事』
『……』
見事なのはあなたの土下座ですけど?
『……あの、主任……?』
『主任なんてめっそうもない。どうぞ駄犬とお呼びください』
『いやいや……普段詩絵子様なんて呼ばないじゃないですか……。それに主任から駄犬に降格なんて……聞いたこともないですよ。とりあえず、顔上げてもらえますか?』
『そのヒールで頭をぐりぐりされるまでは、決して顔を上げないと誓っております』
『………』
……迷惑な誓いだなあ。
なんなの? 私が普段見てた主任は……てきぱきと仕事をさばき、真剣な目でキーボードを叩く主任は……。
この変態の入れ物に過ぎなかったわけ? エロ本に実用書のカバーしてカモフラージュしてた感じなの?
『あの、しゅに』
『駄犬です!』
そこは強く主張する。意地でも譲れないところらしい。
『……あの……、駄犬』
しぶしぶ言うと、『はい!!』と、喜んで顔を浮かしかけたが、誓いを思い出したのか、すぐに額を床に沈める。そんな主任を見下ろし、私はさくっと告げた。
『……私、踏みませんよ?』
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『……踏んでもらえるまではいつまででも』
『永遠に踏みませんよ?』
言葉を遮り、すかさず繰り返す。
『……じゃあ、帰りますね』
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