第30話 ダニエリ ⑤罰

 ダニエリは眩暈を覚えながら、ふらふらと歩いた。

 いまや入道雲はすっかり空を覆って、地上に不吉な影を落としていた。湿った風が木の葉を街路へ散らした。雨が混じりだした風のなか、奇声を上げながら走る男たち。

 映画のシーンのように現実離れして見える彼らの方へよそ見しながら進むと、突然前から現れたなにかにぶつかり、ダニエリは路上に尻をついた。

 顔を上げると、くしゃくしゃの青いシャツを着た男がダニエリを見下ろしている。港湾で働いていた早番の男たちが宿舎へと帰路を急ぐ、そのうちのひとりとダニエリはぶつかったのだった。


「大丈夫かよ? ふらふらしてっと危ねーぞ」

 言いながら手を差し出す男を、ダニエリは感情をなくした表情で見上げた。

「……あんたこそ、前見て歩きなさいよ」

 その手はとらずに、顔を伏せ自力でゆっくり立ち上がり――ふたたび顔を上げたとき、ダニエリの表情は精彩を取り戻して、妖しいほどに輝いていた。尻の砂をはたいて、自身の装いを確かめる。今日は淡いブルーのタンクトップに白のハーフパンツ。色気よりは元気を前面に出した装いだが、十六歳の少女に相応しい健康的な格好だとは言えるだろう。そもそもガビに見せるつもりで選んだ服だ、可愛く見えないはずがない。

 ガブリエルの名を思い出して、ダニエリの表情が一瞬かげった。うつむいて、足のつま先をじっと見つめる。やがてダニエリは頭を振ると顔を上げ、男に挑発的な目を向けた。


「あーあ、ズボン破けちゃったじゃない。お気に入りだったのにな」

「おれのせいばっかじゃねーと思うんだけど」

 憮然として言う男に、

「新しいの、買ってくれない?」

 上目遣いで言った。唐突な要求に男はすこし身構える。よく見るとエキゾチックな少女の容貌には、まだ成熟していないながらも男の好き心をそそるものがあった。


「ねえ、責任とってよ」

「……なんの責任だよって話だぜ?」

 男は文句を言いながらも、にじり寄ってくる美少女から目が離せなかった。タンクトップから覗く谷間の肌理きめ細かい肌がちらちらと目に入って、知らぬ間に目尻が下がる。


「いいから。いくら持ってるの? あたしのこと欲しくない?」



  ***



 ダニエリは盗む癖を止められない。

 それは欲のためではなく。十一歳で初めて絵具を盗んだときから一度だって、盗みからダニエリがなにか得ることなどけしてなかった。残るものはいつも、おののきと自己嫌悪。それでもダニエリは盗みを止められない。盗むことで誰よりも自身をいためつけようというかのように。


 そして、盗む以上に自分を傷つける方法が、ダニエリにはあった。


 男に自分を売り渡す。


 それが、ダニエリの最も苛烈な、最後の手段だった。

 盗みをし損ねたとき。盗んだぐらいでは自分を罰するに足りないとき。ダニエリは囁き声のめいに従い、男に体を売った。

 ちょっと耳打ちすれば、男たちはよろこんで乗って来た。対価はいくらでもよかった。そのときの気分で適当な値を告げて、男が頷けば決まる。美少女の誘惑が断られることは滅多になかった。


 声をかけるとき、ろくに相手の顔を見もしなかった。そもそも、どんな男だろうと一緒だったのだ。容貌も、性質も、性癖も。

 男の手がしつこく胸のふくらみをまさぐっているあいだ、ダニエリは嫌悪感をこらえてあらぬ方を見ている。

 息を荒くした男にからだの奥を貫かれている最中、ダニエリはずっと目をつむって、苦痛に耐えている。

 なかには乱暴に扱う男もいたが、痛みを与えられる方がかえってよかった。できるだけひどい拷問を、考え得る限りの汚辱を、二度と立ち上がれないほどの苦痛を。

 愛の行為にダニエリが求めるものは、最も重い罰だった。



  ***



 ダニエリの誘いに、男はごくっと唾を呑んだ。おそるおそる答える。

「真っ昼間っから、冗談よせよ」

「昼だからどうしたって言うの? 嫌ならいいわ、ほか当たるから」

 未練なくさっさと背中を向けるダニエリの手首を、男が掴んだ。


「待て、待てよ。……ほんとにいいのか?」

「だから、そう言ってんじゃん。ヤるの、ヤんないの?」

「お、おう。場所はどうする?」

 さっきから男は美少女の青い色香に酔っている。雪崩れ落ちるように男は、ダニエリの誘惑の手に落ちた。

「どこだっていいわ、あんたの部屋でも、ホテルでも、なんならそこの物陰でだって」

 くすっと笑って言うと、男は力加減も分からずダニエリの手を引っ張り歩きだした。

 手をとられたダニエリの体は緊張に一瞬固まる。ダニエリが蒼白な顔をしているのに、有頂天になった男はまったく気づかなかった。

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