第12話 マカレーナ ⑫出会い

「なっ……!」

 呆気にとられた顔でホセが絶句する。髪から滴るビールに濡れた間抜けづらはすぐ怒りで赤黒く染まった。

 席を蹴倒し立ち上がる巨漢、はずみで転がり落ちたジョッキの砕ける高い音。その騒ぎに、平和なランチを楽しんでいた客たちの好奇の目が集まる。

 マカレーナは、自分の襟を掴む手を冷たく払って嘲った。

「触んないでくれる? バカが伝染っちゃう」


 テーブルの前に詰め寄ったときには純な怒りに詰まっていた胸が、いまは甘い復讐の快感に酔い痴れていた。マカレーナにとってはもう、ホセは翻弄される虫けらでしかなかった。

 その蔑みの目を理解すると、高まっていたホセの怒りは瞬時に沸点を超えた。激昂に任せて意味のない喚き声を上げる。同時に手を大きく振り上げるのが皆の目に映った。

 ぎゅっと目を瞑るマカレーナ。


 だが自分を打ちのめすはずの一撃はいつまでもやって来なかった。

 耳にはカナリアの鳴く声だけが、ジャカランダの大木の梢から届いていた。

 こわごわマカレーナが目を開けると、ホセとマカレーナとの間に入った青年がホセの腕を掴んでいた。



 誰もが言葉を呑み静まり返った場に、青年の声が静かに通った。

「やめろよ、女を殴るなんて」

 若い、飾り気のない声。

 目を剥いて青年を睨むホセとともに、マカレーナは突然ふたりの間に割って入った男を不思議そうに見つめた。


 その視線の先、青年は健康的な肌を太陽に輝かせていた。陽に焼けた精悍な貌の上には意思の強さを思わせる色濃い眉、生真面目そうな唇、それでいて涼しげな眸に残る少年の面影。

 その青年が、諍うマカレーナを心配してすぐ横で見守っていたことに、マカレーナは無論気づいていなかった。

 マカレーナの眸も、ホセの巨体も、罵り声も知らないかのように、場違いに穏やかな顔で青年はホセを見上げる。

「女を殴るなんてのは、男のすることじゃないぜ」


「うるせえっ! 邪魔すんな、殺されてえか!」

 青年の手を振り払うホセ。巨漢のホセを前にしてはひどく華奢に見える青年は、苦笑いで続けた。

「ビールかけられて、怒るのはわかるけどさ。そんなゴツい腕で女を殴んのはやめとけよ。ちょっとのケガじゃ済まないから、きっと」

 だがホセはもう聞いていない。青年の斜めうしろにいるマカレーナ目がけ、今度こそ腕を振り下ろした。その美しい顔を庇おうともせず、ただ目を瞑って体を固くするマカレーナ。両の手は腰骨の横できつく握りしめられている。


 あたりに響く鈍い音。びくっと肩をふるわせたマカレーナはしかし、自分がなんの痛みも感じないことに気づいた。

 目を開けると、青年の背中が視界を占めている。


 この男が身を挺して庇ってくれたのだろうとはマカレーナにも理解できた。だがホセの渾身の一撃をまともに顔に受けて、青年が鼻から血を流していることまではまだ知らなかった。

 それより、顔が触れそうなほどの距離から届く汗の匂いが強く印象に残った。若さと貧しさのままに、ろくに洗いもしない体から発せられるえた男の匂い。


「やめろって言うのに。ほら、こんなに血が出てるし」青年は鼻から流れる血を拭って見せた。「これ、相手が女の子なら、こんなもんじゃ済まないぞ?」

 それからマカレーナを振り返った。拭った先からふたたび鼻血が滴り落ちるのを構おうともせずに。

「ほら、きみも謝りなよ。なにがあったのか知らないけどさ。頭からビールかけるってのはやり過ぎだ。このひとが怒るのも無理ないぞ」


 腫れた頬、止まらない鼻血。弱者の姿を恥ずかしげもなく晒す青年に、マカレーナの胸はざわついた。

「なによ、説教? 余計な手ぇ出すんじゃないわよ!」人の手に落ちたばかりの猛獣のように、聞かん気の強い目で睨みつけて、「まさか助けたつもりになってんじゃないでしょうね?」

 青年は相変わらず鼻血を流したまま抜けぬけと緊張感のない笑顔で答える。

「助けになってもならなくても構わないけど、とにかく謝んなよ。人に悪さしたら、ちゃんと謝るもんだよ」

 真っ直ぐ見てくる青年にますます苛だちながら、

「なんであんたみたいな愚図に指図されなきゃなんないのよ! 謝ることなんか、ひとっつもないわ」

 マカレーナはくるりと背を向け、カタリナを促し早足で歩きだした。



 パステルカラーの古い商店が並ぶ小路を抜け、比較的新しい造りの銀色のビル群が見えてきても、マカレーナはずんずん歩きつづけた。

「あー、ムカつく」

「なあに? 殴られずに済んでよかったじゃん」

 長く伸びた脚のおかげで難なくマカレーナの隣をついて歩くカタリナが呑気に応える。マカレーナは前を向いたまま唇を噛んだ。

「あそこは殴らせなきゃなんなかったの。殴らせればあたしの勝ちだったのに。ビールかけただけで終わっちゃったら、逆にあたしの負け」

 言ううちにまたマカレーナの苛だちはたかぶってきたようだ。

「あいつ、邪魔しといて、そのうえ説教までしてきたのよ?」

「人の好さそうな男だったよね」

 くっくと笑いながら。それに、ちょっと可愛い顔してた――とは口には出さずに。


「はン、この世の裏を知らない坊ちゃんよ。あたしたちとは住む世界が違うわ」

 吐き捨てるように言って、マカレーナは天を睨んだ。

 その視線の先、極彩色の羽根を持つ楽園の鳥が真っ青な空を横切る。



 一年経って同じ青色の空を見上げたとき、脳裏に浮かんだ鮮やかな色の羽根とともにこの出会いを思い出すことを、マカレーナはまだ知らない。

 青年と縁がつながって回りはじめてしまった運命を、一年の後にマカレーナはいとおしみ、そして呪ったのだった。

 ここに語るのは、そんな罪の女の歌。


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