胸懐のイルマタル

紅陽(くれは)

第1話

<<1-0>>

18歳を迎えた冬、思えばそれは最悪の一日だった。

中学生の時に母を亡くし天涯孤独の身となった自分にとって、医者になることが唯一の目標だった。

父親が失踪してからというものの女手一つで自分を支えてくれた母。

過労死だった。突然倒れ、意識不明のまま眠るようにこの世を去った。

思えば、前触れは度々見かけたかもしれない。

でも幼い自分にはそれを察することは出来なかったし、

そもそも疲れや限界というものに対する大人の我慢強さを知らなかった。

あの時自分に知識があれば、もっと労ることが出来ていれば。

遺品を整理した時出てきた、児童養護施設への案内状。

母が息子のために遺してくれた未来への架け橋。

母子家庭では到底無理であったろう、学を得る機会。

施設に引き取られた僕は、高校で必死に勉強した。

友好関係も禄に築かず、催し事にも振り向かず、ただ直向きにやった。

それでも、そんな扱い難い自分に対して保母さん達はたっぷり愛情を注いでくれた。本当に感謝している。

それなのに何も成せなかった、やるせなさを胸に秘めて・・・



<<1-1>>

「5年間、本当にお世話になりました。これからも、自分なりに精一杯やってみようと思います。」

そんな言葉を最後に、また僕は一人になった。

新しい住まいと入院時より積み立ててきた僅かな貯金を手に、新たな生活が始まる。

これからは自分で稼がねばならない。

心機一転、就職先は宅配弁当屋にした。

母子家庭であったこともあり家事全般は得意分野だった。

まずはその延長線で、得意なことを活かそうと思ったのだ。

とはいえ、接客を避けたいということ以外、就職への拘りは特に無かったのだが。

このお店、正直規模は小さい。

従業員は跡継ぎのいない老夫婦2人と3人のアルバイト。

まぁ、当然の事ながら薄給である。

心の中で文句を言いつつも何だかんだ、本日で勤務歴半年になる。


「そろそろ時間だから配達お願いね~。よいしょっと」

店長の奥さん、通称:女将さんから声がかかると、

大きな風呂敷に包まれた弁当箱の束が両腕に伸し掛かかってきた。

「・・・何かいつもより多くないですか?」

「あ、そうそう。今日は新規の注文があったのよ。ちょっといつもより遠回りにはなるけれど、担当エリアから一番近いし貴方に任せることにしたわ。はい、配達先はメモに書いといたからっ。お願いね。」

女将さんからメモを受け取り目を通すと、その内容に思わず顔をしかめた。

「あら?どうしたの?」

固まってしまった僕は、女将さんのとっさの一言で我に返った。

「あ、いいえ?行ってまいりま~す」

追求されるのは嫌なので、逃げるように配達先へ向かったのだった。



<<1-2>>

・・・と、いうのも。

ここは半年前に夢を追い求め、希望を失った場所。

ここに至ることが生きる動力源であり、自分の生を証明する理由だった。

何故か戻ってきてしまった。

これは偶然なのか、それとも必然だったのか・・・。

当時は運命の悪戯と皮肉ったものだ。

正直、仕事なんて放り出して今すぐ逃げ出してしまいたい。

でもそのまま持って帰ろうものならどやされるに決まっている。

何とか誤魔化す方法が無いかとまで考えたが、どうしたところで数字でばれるのだ。

「はぁ・・・。」

諦めて突入することを渋々決意した。

「大学まで来てみたはいいけど、何処まで届ければいいんだ。そういう時って学生課に行けばいいのかな。」

お昼時、キャンパス内は講義を終えた学生達で賑わっていた。

迫りくる人混みの中を縫うように進んでいき、学生課のある交流棟を目指す。

”自分もこう成れたんじゃないか”と襲い来る、感傷を必死で振り払いながら。

「こんにちは~お世話になっております、スマイル宅配弁当です!この住所宛に弁当を届けに参りました。」

「あ、はい。えぇっと、こちらは研究棟のものですね。先生に確認取りますので、少々お待ちください。」

受付が受話器を手に取り僕の来校を確認すると、入館証を手渡された。

「お届け先ですが、D棟8階の兼元医院長の研究室になります。研究棟の館内入ってすぐのエレベーターに乗っていただき、左に進んでいただくと突き当りに研究室がありますので。」


そういえば、受取人の名前までちゃんと読んでいなかった。

一度は門を叩いた身なので、兼元の名には覚えがある。

立ち入るとそこは薄暗く静寂に支配された、閉鎖的な空間だった。

リノリウムが放つ鈍い光沢と反響する足音が、より一層不気味さを際立たせる。

大学の謂わば憧れていた存在の。

しかも偉い立場の人間に直接会えるという想定外のシチュエーションに、緊張せずにはいられなくなった。

エレベーターを降りると、さっきまでと変わって騒音と異臭が身体を包み込んだ。

ここが病室でなければ講堂でもなく、研究施設であるということを強く実感させる。

「兼元・・・医院長の部屋は。」

20メートル程進んだ先に、その名札を見つけた。

ガラス張りのドアを覗くも、カーテンに阻まれて向こう側を見ることが出来ない。

意を決し、ドアをノックすることにした。

「失礼します。スマイル宅配弁当です。」

まるで面接でもしに来たような気分だった。

そして、小さな嗄れた声がドア越しに返ってきた。


「どうぞ」

「スマイル宅配弁当です。ご注文の品を届けにあがりました。」

目の前の依頼人は、部屋の奥で椅子に腰掛けながらこちらをじっと見つめてきた。

「あの・・・?」

「あぁいや、珍しいこともあるもんだと思ってね。君、受験会場にいたろう?」

男から口から出た不意打ちに目を丸くしながら、言葉を選んで応答する。

「えぇ・・・。けど、あんなに人がいた中、何で覚えているんですか?」

「それはまぁ、たまたまその教室の試験官だったからっていうのもあるけど、ちょっと珍しい名前だったから印象に残ったのでね。うちの学生になれなかったのは残念だ。なにせ・・・。」

「なにせ?」

口が滑ったのか、男はこの流暢な口を止めた。

この男にとって自分は何はなんだというのか。

おまけに、落ちたことまでしっかり把握していた様子。

受からなかった部外者のことを半年も覚えているなんて普通じゃないし、珍物扱いされる謂れもない。

「いや、特に意味は無い。それで?弁当箱は明日に取りに来てくれるんだっけ?」

話をすり替えられてしまった。

「はぁ。そうですね。明日改めて回収に参ります。ラベルにも記載させていますが、軽く濯いで置いといてください。」

「わかりました。引き止めて済まなかったね、配達ご苦労さまでした。」

お代を貰って軽く会釈を交わした後、僕は研究室を後にした。



<<1-3>>

「あら?おかえり。早かったわね。お昼ご飯は食べたの?」

「いいえ、まだです。なんだか女将さんの手料理が食べたくなったのでついつい戻ってきちゃいました♪」

疑問が胸につっかえていて心此処にあらずだったとはいえ、あの時の僕は柄でもないことを口にしたなと思う。

「あらやだぁ。思ってもないこと言っちゃって~。じゃあ賄い、給料から天引きでいいわね?」

「えっ?」

女将さんのハイテンションに面食らう。

「な~んて、冗談よ~。何か嫌なことでもあったの?」

流石、三児の母だったことはある。

若造の心境変化なんて、簡単にお見通しのようだ。

この人には嘘がすぐばれそうだし、隠す理由も無いだろうと観念する。

寧ろ、この気持ち悪い感じを発散させたくて仕方がなかったので、この日ばかりはとても心強く感じた。

「さっき配達に行ってきた新規先、あれ、僕が受験した大学だったんです。医学部目指してたってお話したことありましたよね。」

「あら、そうだったの。確かにこの辺じゃ、大学付属病院なんてあそこにしか無かったわね。行きたくなかった?気付けなくて御免なさいね。」

「あ、いいや。確かに後悔はしましたけど仕事だし。引っ掛かるのはもっと別の事なんですよ。」

依頼人が医学部の学部長であったこと、何故か自分の顔と名前を覚えていて、何か言いたげな感じであったことを説明した。

「そうなの。初対面の筈なのに、何だか気味悪いわね。」

「そうなんですよ。」

「でも、ある意味楽しみが増えたかもしれないわよ~。だってほら、毎日淡々と弁当運ぶだけじゃつまらないでしょ。売り込むためには生の声も聞かないとだし、話す練習になるだろうから良いことだと思うわ?配達を口実に何度も通って、俺の何を知ってんだーって聞き出してやろうじゃないの。まぁ、まだその人がリピーターになってくれると決まった訳じゃないんだけどね、あっはっはは・・・っと。」

「・・・?げっ。」

突然会話を途切れさせた女将さんの目線の先に、厨房から目をギラつかせているオヤッサンの姿を確認した。

スマイル宅配弁当は、”弁当箱を並べるところから中身を口にするまで、全てを五感で楽しんで貰うこと”をモットーとしている。

漆塗りで頑丈に出来たずっしりな弁当箱、持ちやすい意匠の施された箸、金箔が散りばめられて洒落た包装ラベル、20品目近くでありながら味と色彩のバランスを崩さない料理の絶妙な組み合わせ・・・。

勿論、食べる人の健康にまで気を遣っており、添加剤だらけの加工品や中途半端な安物は一切使わない徹底っぷりだ。

コストは当然割高になる。

ところで店長・・・その拘りは素晴らしいのですが、せめて少しくらい賃金改善も考慮していただけないものだろうか。

まぁ、そんなことを思い付き、二十数年間ずっと続けてきたオヤッサンはまさに職人ってやつで、そんな人が”仕事は口実ですー”だなんて聞いて、怒らない筈がない。

「何だい!おっかない顔してんじゃないよ!つまらんことで一々威嚇すっから若い子が定着しないんじゃないか!・・・じゃあ、そろそろ持ち場に戻るわね。ほら、シャキッとして。ささ、まだ時間あるし何処かでご飯食べておいで。」

ここの従業員は休憩も兼ねて、昼の配達時間を二時間に設定されている。

いつもより30分以上早く戻ってきたため、午後の業務開始時間までまだまだ余裕があった。

さて、何を食べようか。

なんとなく、刺激的な炭酸飲料と脂っこいものを食べたい気分だった。



<<1-4>>

「あぁ・・・吐きそう。」

調子に乗って注文したダブルサイズのハンバーガー、LLサイズのポテトにMサイズのコーラ・・・

後悔しつつ残すのも勿体無いとやけ食いしたのもあり、今日はあれからずっと胃の中が気持ち悪い。

そして厨房に充満する、食品の匂い。

度々やってくる胃からの贈り物。

そのような状態の中、業務時間を何とか乗り切ってようやく家まで辿り着いた。

この道程の、何とも長く感じたことか。

靴を脱ぎ捨て、僕はそのまま布団の上に転がった。

今日は色々と気持ちの悪い一日だった。

「逆に楽しめ・・・か。」

女将さんに言われたことを思い出す。

「まぁ、時間が解決してくれるだろ・・・。」

深く考えるを止め、布団にゆっくりと体を沈み込ませる。

眠りにつくまでそんなに時間はかからなかった。




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人生で得られる失意と喪失。

些細な惨事と一生分の傷跡。

埋めるべく人は藻掻いていく。

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