残滓

他日

模倣


 目が覚めると■■がいなかった。


 寝惚けた頭で■■を探し、キッチンの明かりだけが点いた少し薄暗い部屋の中を見回すと、■■はテーブルの前に座っていた。何やらお湯を注いでいる。


 開け放たれた窓からは冷ややかな空気と雨の匂いが入り込んでいる。寒いよ、と呟いて布団にくるまると、■■が気付いてこっちを向いた。


「珈琲、のむか?」

「のむ」

「砂糖は?」

「3つ」


 ■■は立ち上がり、マグカップ2つと1本のスプーン、角砂糖の入った瓶を出してくるとテーブルに並べた。


 そしてまた座り込み、お湯を注いだ。


 僕はベッドの上に転がったまま、ぼんやりと■■の姿を眺めた。


 僕より広い背。

 僕より茶色い髪。

 僕より鋭い目。

 僕より大きい手。


 珈琲の匂いと雨の匂いが交じり合っているような気がした。


 嫌いじゃない、匂いだった。


「ねぇ、■■。キッチンの電気点いてるけど、なんであっちでしないの?」

「こっちにいた方が、起きた時に気が付くと思って」

「……へぇ。じゃあ、こっちの電気点ければいいのに」

「いや、お前まだ寝てたから。起こしたら悪いと思った」

「……ふぅん」


 2人分淹れ終えたところでマグカップに注ぎ入れ、■■は青と白のストライプ柄の方にだけ角砂糖を落とし、くるくるとかき混ぜる。2人のマグカップをベッド際まで持って来た■■は、僕が起き上がるのを待ってから手渡し、そのままベッドに腰掛けた。


 赤と白のストライプ柄のマグカップを口に運ぶ手は、やっぱり大きい。


「まだ熱いからな。気を付けてのめよ」

「うん」


 優しい■■の手は、大きくて、いつも、あったかかった。




 ─────────────と、思う。




 自宅のキッチンの壁によりかかって、とぽとぽと落ちる茶色く濁った雫を眺めながら、6月のある日のそんな出来事を僕は思い出していた。


 電動ミルなど珈琲を淹れるための道具一式は■■に譲ってもらった。正確に言うと、■■の家からくすねてきた。あのまま置いていても家族に捨てられていた筈だから、別に構わないだろう。豆やペーパーフィルターはできるだけ同じ商品を買うようにしている。


 ベッドの上の山がもそもそと動き、気だるげな声が僕の名前を呼んだ。彼はよく僕の名前を呼ぶ。応えずにいると何をしているのかと問うてくる。僕は声の主の眠そうな顔を一瞥して、質問を返した。


「珈琲、のむ?」

「のむ」

「砂糖は?」

「……いる」


 僕は角砂糖が入った瓶を棚から取り出してシンクの上に置いた。これも当然くすねてきた物だが、もうじき底を突きそうだ。もしかしたら、中身を買い足す必要があるのかもしれない。


 スプーンは■■の家から持ち出した物とは別の物を出した。


 電気の点いていない部屋にカーテンの下から初夏の日差しが入り込んでいる。■■の習慣にならい、起きてからまずカーテンと窓を開けたものの、眩しさのあまり閉じてしまった。窓は開けたままだが、今日の風はカーテンを僅かに揺らす程度だ。


 既に、温かいものより冷たいものを飲みたくなる時季になっているが、珈琲は別だ。淹れたてが一番美味しいだろうと言って■■が笑っていたから、珈琲は熱くても淹れたてがいい。


 かすかに湯気の出ている珈琲を、内側に染みの付いた古いマグカップと、まだ真っ白な真新しいマグカップに注ぐ。ポットの底にはフィルターを抜けてしまった黒いかすがいくつも張り付いている。


 気だるげな声の主がベッドから出てくるのを待たず、優しくない僕はキッチンに立ったまま砂糖の入っていない珈琲を口に含んだ。


 ■■が好んだ何も入っていない珈琲にもそろそろ慣れてきたかと思ったけれど、やっぱり。


「苦い、なぁ……」




 ■■が使っていたマグカップは割った。


 割れるかな、と、思って、落としてみたら、割れた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

残滓 他日 @hanayagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ