クチビル 【お題:最強の経験・ひょっとこ】

かたかや

クチビル

 魅力的なクチビルをほめられたが、オレにクチビルはない。


「その口で、どうやって勝つつもり?」


 外子はオレの口を指さした。

 英語の弁論大会、その決勝戦に向かう廊下だった。隣の席というだけで、大会についてきた同級生の女。


「今までもこの口でやってきたんだ」


 いつも通りのひょうきんな顔で答えてやった。

 この顔でなにか言えば、みんないっぺんに笑い始めっちまうんだ。

 だが外子は笑わなかった。


「そのクチで、どうやって[th]の発音するっていうのよ」


「……[th]ぐらい発音できる」


「うそつき」


 本当だ。[th]の発音はできる。本当にできないのは……


「もうやめて、知ってるんだから[th]の発音するときに、寿命を削っていること」


「……」


「寿命を削ってまで優勝する価値のある大会じゃないわ。棄権しましょう」


「ダメだっ」


 静かな廊下の、消火栓の裏にまで響いた。


「この大会に勝たないとオレは二度と、このクチビルを元に戻せないんだ!」


 クチビルとはとても呼べない、黒い月のようにぽっかりと空いた穴。

 こんなクチビルとはおさらばしたい。そのための道が、この大会に優勝すれば、開ける。


「クチビルのこと、まだ気にしてたんだね」


 外子の顔が見えない。顔を上げることができない。


「わたしは、そのクチビル好きだよ」


「はっ、嘘つきの口だな。ひん曲がってる」


「そう見える? 私にはキミの口のほうが曲がってるように見えるけどな」


「……やっぱり、曲がって見えるんだろうが。だからオレはっ、この口が」


「好きだよ」


 顎を包むやわらかな感触。少しひんやりとしたそれは、思いの外力強く、『ぐいっ』と顎を引っ張って、

 とろけそうなほど柔らかいものを、オレの黒い月に押し付けた。

 驚くオレの顎をつかんだまま、外子はゆっくりと目を開く。


「曲がっててもいいじゃん。そんなの他との比較だよ。曲がってる方からしたら、曲がってないほうが曲がってる」


 とろけそうなほど柔らかいものを艶めかしく動かして、とても小さな笑みを浮かべる。


「それでも好き……やっぱり曲がってるね、わたし」


「どうして、オレなんかにキ「ダメっ!」


 外子がオレの口を手でふさいだ。


「『キス』って言ったら、[th]の発音しちゃう……」


「……ぶふっ」


 泣きそうな顔で言う外子を見て、思わず吹き出す。


「笑い事じゃないよ!」


「だって、『キス』の『ス』は[th]じゃなくて[s]だぞ」


「なっ」


「ありがとう」


 外子の肩を抱く。


「大事なものをもらった。新しい武器だ。これで戦える」


「行く気なの!? どうしてっ……」


「外子からもらったこの気持ちを弁論にぶつけたい。勝つためじゃない。話すためにオレは行く……[th]のかわりに[s]で戦ってみるよ」


「……っ!」


 外子は両手で口を押えて涙をこらえていた。


「聞くのが恐かったら……見ててくれよ、オレの弁論」


 決勝会場に向かう。

 負ける気がしなかった。

 最強の経験をクチビルに宿して、一歩を踏み出した。

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クチビル 【お題:最強の経験・ひょっとこ】 かたかや @katakaya

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