Tue., Oct. 3
8. 壊れる音
──足元であの音がしたのは、たった一度だけ。たった、一度だけ。
でも、たった一度のそれだけで、見えていたはずの希望は、壊れてしまった。
もし、あの希望の光が、魔法だったら。きっと、低い音が一度鳴ったくらいでは、壁を揺らしたくらいでは、びくともしなかったんだろう。
だけど、希望は人の形をしていた。
人の形をしていたから、たった一度のあの音で、壊れてしまった。
手首の感覚がない。長いこと手首を縛られてるから。動かそうと思えば動くけど、“動かそう”なんて思わなかった。
風が吹く。足元に広がる校庭は、しんと静まり返っていた。次の瞬間には、すべてをひっくり返すような怒号で埋め尽くされるのに。
もう、あの声は聞こえない。ついさっきまで、聞こえていたのに。優しくて力強くて、穏やかで明るい、あの声。
急に体が持ち上がる。そして、ベランダに捨てられた。足が床に着くのは久しぶりだ。
煮えくり返った泥みたいな笑い声が、遠ざかっていく。笑い声はやがて廊下を抜け、階段を下り、いくつかの音と一緒になって、消えた。
ベランダは冷たかった。でも、その冷たさに私は安堵した。
大勢の足音が聞こえる。だけど、その中にはもう、希望の光は見えなかった。──
何度も、何度も電子音が鳴る。朝が来たみたい。重い瞼を開けて、枕元の画面に手を伸ばす。
すると、私の毛布がもぞもぞと動いた。あれ? いつもよりあったかいような……?
「メ、メイリ?」
「そだよー……。おはよー」
「お、おはよ……」
メイリが、私の腕の中で目をごしごしこすってる。なんで私のベッドに、メイリがいるの? 昨日の夜を思い出す。晩御飯を食べて、メイリにユウヒの話をして、普通にそれぞれのベッドで寝たはずなのに……。
放っておいたら二度寝しそうなメイリから、布団を剥ぎ取る。私が体を起こしたら、メイリもそれにくっついて起き上がった。
「メイリ、どうしたの? ベッド、間違えてるよ?」
すると、メイリは顔から零れ落ちそうなくらい目をまんまるにして、私の髪をいきなりぐちゃぐちゃにした。
「違うよ! 野菊がうるさかったから、一緒に寝ただけ!」
「うるさかった?」
「うなされてたよ」
寝起きの割に、心臓がやけにうるさかった。メイリがいて驚いたのとは違う、嫌な騒ぎ方してる。
「……嫌な夢、見てた気がする」
「じゃあ、目が覚めてよかったじゃん!」
ぎゅっと私にハグをして、メイリはぴょんとベッドから立ち上がる。余韻でベッドがゆらゆら揺れた。
「野菊さあ」
「うん」
「大きい音が怖いっていうの、もしかして、結構キツいの?」
「……今は、そうでもないよ」
「ってことは、ちょっとずつ楽にはなってるの?」
「うん。心配してくれてありがとう」
「それなら、いいんだけどさ!」
また私の頭をぐしゃぐしゃにして、メイリは部屋を出て行った。朝の支度に、少し時間がかかるのは私も同じ。早くシャワー浴びてこなきゃ。急いで、メイリの後を追いかける。
今日は、そんな風に始まった。
頭が働かないランチ直後に、生物の授業を入れるのはオススメじゃない。特に、今日みたいな進化シミュレーションの授業は。
あと10分で、ノートの上に浮かぶ遺伝子たちを動かして、“絶滅しないドードー”を完成させなきゃいけない。その後には、自分のドードーのプレゼンテーションも。
羽があるのに、飛ばなかった鳥。丸っこくてかわいい見た目だったらしいけど、それだけじゃ絶滅しちゃう。どの原因が一番重要で、どう対応すれば生き残れたのか……。
答えはひとつじゃないから、自分で考えないといけない。
周りのみんなも同じように、難しい顔で遺伝子と睨み合ってる。ノートに表示された“残り時間”のタイマーが、急かすみたいにカチカチ動く。
窓の外から、救急車のサイレンが聞こえて来る。それは段々と音が大きくなる。
もう! こっちは、進化の途中なのに! 人間が病気や怪我をしないように進化すれば、サイレンに邪魔されることもなかったのに!
廊下を走っていく、警備ロボットが見えた。ごみ箱みたいな形のそれは、パトランプをくるくる回して、駆けていく。
パトランプ? 緊急事態ってこと?
気づけば、校舎の前に救急車が停まってた。みんなも気づいて、遺伝子から顔を上げて窓の外を見る。
ノートに表示されていたタイマーが、ぴたりと止まる。先生も、異変に気づいたみたい。みんなお互いに顔を見合わせて、「なにがあったの?」と口にする。もちろん、私とビアンカも。
「さっき、警備ロボット走ってたよね?」
「クララが、いつもランチ終わるとあっちに行くね、そういえば」
ビアンカは、通信画面で手短にメッセージを送った。多分、クララ宛て。
廊下が騒がしくなる。警備ロボットのパトランプの明かりと、何人かの足音。担架が後ろについて飛んでいくのが見える。そうして、今度はオレンジ色のブランケットにくるまれた誰かを乗せて、戻っていく。
「誰か倒れたっぽくない?」
「大丈夫かな……」
騒ぎが収まると、先生は手を叩いた。
「みなさん、落ち着いて。あと30秒で、タイマーを動かしますよ」
その時、ビアンカが息を飲むのが聞こえた。
「どうしたの?」
「クララから」
ビアンカが、指で通信画面を飛ばしてくる。それを受け取ってのぞき込んだ時、私の心臓は、さいごの1回みたいに大きく鳴った。
『ユウヒが倒れて運ばれた』
ノートの上で、タイマーが動き出す。みんなも、遺伝子と向き合って手元を動かし始める。
だけど、私の時間はしばらく止まったまま。遺伝子は、宙に浮いたまんまで、進化するのをじっと待ってるだけだった。
授業が終わっても寮に戻る気になれなくて、ビアンカと前庭のベンチに座って、ぼんやりとコーヒーを飲んだ。
ビアンカは、何も言わなかった。私の肩に手を回して、時々、私の頭を撫でる。クララとメイリがいれば、もう少し賑やかだったんだろうけど。2人は次の授業も取ってるから、ここにはいない。
久しぶりに出した声は、喉に一度つっかえた。
「……ずっと同じこと考えてたら、頭がシャットダウンするって、言ってた」
「シャットダウン? ユウヒが?」
ビアンカは、紙コップに口をつけたまま繰り返す。私がうなづくと、ビアンカはそれを確かめるようにコーヒーを飲んでから言った。
「そしたら、どうなんの?」
「わかんない……」
「昔のコンピューターは、使い古すとそうなるって聞いたことがあるね。再起動すれば直るらしいけど」
「……それって、直ってるのかな」
「さあねえ」
ベンチの前を通り過ぎる、色んな人の足が見える。スニーカー、ハイヒール、パンプス、革靴……。ビアンカが私の頭に唇を落として、「しっかりしな」と小さな声で言ってくれた。
すると。
ぴたりと、私の前で止まる靴が見えた。黄色くて大きな、スニーカー。……これって。今一番会いたくない、あの人だ。
「よお、地味子。あと、
ビアンカが、私を隠すようにぎゅっと抱きしめる。それが彼には、面白かったみたい。へらへら笑うように、クリストファーの声がした。
「別に、取って食うわけじゃねえよ。野菊、お前に用がある」
顔を上げると、整った顔がこっちを見てる。それが嫌で目を逸らせば、彼は何かを私に差し出した。電源が入ったままのノート。恐る恐る受け取るけど、見覚えはない。
「こ、これは……?」
「お前のお友達のノートだよ。それ持って、ここ行って来い」
宙にメモ書きが浮かぶ。病院の名前が書いてあった。
「優しい寮長様が、お前に、ユウヒを迎えに行く権利をくれてやる」
「あ……そうなんだ」
「そうなんだ、じゃねえよ馬鹿野郎。今日の19時、ちゃんと行けよ? わかったな?」
向こうに停まったオープンカーから、クリストファーを呼ぶ声がする。ビアンカが派手なら、あの子たちはケバい……なんてことは、口には出せないけど。
ビアンカは、聞いたことないくらいキツい声で言った。
「アンタ、やりたくないこと野菊に押し付けて、遊びに行く気?」
「違ぇよ! 馬鹿か! 誰が行けば喜ぶかぐらいわかるだろ! 言わせんな、派手子」
「ビアンカ」
「あーあー、わかったわかった、ビアンカ、ビアンカ! お前ら、車かバイクはあるよな? ねえなら誰かに借りていけ、病人に無理させんなよ!」
早口でまくし立てて、クリストファーはオープンカーに走っていく。オープンカーに乗った男女は、遠巻きに私たちのことを見てから、クリストファーに手を振った。クリストファーが地味な子に話しかけてるって、面白がってたのかも。
ビアンカは、どうせ聞こえない舌打ちをした。
「いけ好かない連中だよ、ほんと」
外見だけなら、ビアンカだってあの中にいて違和感ないんだけど……。それももちろん、口には出さない。
「アイツら、ドードーにスピーカー持たせてEDM流せば絶滅しないとか言いそう」
「もう、なにそれ」
思わず私が笑えば、ビアンカはこっちを見て、また私の頭を撫でた。
「なんでアンタ、キングに知られてんの?」
「ボランティア先で偶然会ったの。おばあちゃんに、キングが会いに来てて」
それを聞くと、ビアンカは片方の眉をぴくりと上げて、「へぇ」と口の辺りで呟いた。
「意外と、そういう地味なこともするんだ」
「みんなに言いふらしていいって言われたよ」
「なにその、清々しい自己顕示欲」
ビアンカと2人でコーヒーを飲んで、寮に戻って、そわそわしながら課題をやったら、もうすぐ19時。
メイリのバイクを借りて、私は病院へ向かった。
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