手首

大箸銀葉

第1話

 悪夢から目をさますと、全身が冷えていた。鳥肌をしまうように厚く布団をかぶる。人肌が恋しい季節だなんて使い古された言葉が切れ切れに浮かんでくる。けれども出てくるのは言葉ばかりで顔じゃない。私は空想上の女をひたすら追いかけているのだと至ったところでまた手招きしている悪夢に自然と身を近づけていったのだった。


 いったい私はいつからものを書き始めたのか、あるいは言葉を真に使い始めたのか。生まれたときに悟った思う人もいるだろう。「ものごころ」という記憶の出発点に答えを求める人もいるだろう。しかし私は悟ってしまった。人が言葉を使うのではなく、人は言葉に使われるだけの存在なのだと。


 ばかばかしいと笑う人は笑えばいい。気でも狂うと思おうならば思えばいい。しかしあのときの気持ち悪さはどのような言葉をもってしても説明しきれない。だからできるだけその時の状況をありのままに伝えることで私は説明しようと思うのだ。そのためにはまず自己紹介をしなければならない。


 私は1つの変態性癖をもっていた。といっても読者が想像するような気持ちの悪い物ではない。ただ私は「性癖がない」というのが1つの性癖だったのだ。


 人から見れば私は異常者だ。しかし私にとっては「恋愛」そのものが変態の証だった。女の裸を見て下品に笑う男。男の筋肉に酔いしれる女。誰もが必ず持っていると思われるその欲情が私にはなかった。裸なんて気色の悪い低俗な物だとしか思えない。自分の逸物を切り落とそうと包丁を手にしたこともあった。結局は恐怖のために断念したのだったが、方法があれば試してみたいとさえ思えた。


 私は世の男女を軽蔑した。私こそが高尚でほかは私になれない低俗な人なのだと思い込んでこの地獄を天国に変えてやろうと無理に想像した。しかしいくら花畑を作り上げた所で私しかいない天国はものさびしい物だった。想像してみて欲しい。自分一人だけが異性に恋をし、あとは全て同性愛の世界を。その中で1人だけポツンと座って変態扱いされる世界を。どう試してみても、完璧な楽園は作れないのだとわかってもらえるはずだ。


 「かわいい」という感覚はなんとなく分った。「かっこいい」という感覚もわかる。けれどもその良さに見当がつかなかった。どうしてあの格好がいいのか、あれに何の意味があるのか、着るという側面においてあのひらひらとしたドレスも紺色のジャージも同じ意味しか持たないではないか。やはり人というのはほぼすべからく変態なのだ。美しく着飾ることでその人の人間性までに欲情してしまう。それなのに装飾品そのものに欲情する人は少ない。矛盾をかかえたぐにゃぐにゃの欲望に突き動かされているロボットなのだ。


 私は小説が好きでよく読んだ。けれども今の通り恋愛ができない体質なものだからそれが描かれないものばかりを読んでいた。家族でも戦争でもほとんど男女の恋愛が出ると本をとじてしまった。私には重苦しい表紙にさらに鎖ががんじがらめに絡みついている錯覚を起こし始めて余計に本が重く感じた。


 結末を知らない本をいくつも読んでいくと、私は恋を嫌う余りに恋に敏感になっていた。挙げ句の果てには「これは同性愛を取り扱った作品だから」「これは主人公がスマートフォンに恋をしているから」「これは自分自身に恋をしているから」「これは檸檬を愛しているから」と多くの本を閉じてしまった。鎖の錯覚はどうしても外れることなく蛇のようにまとわりついて私を威嚇している。触れることすら怖くなって押し入れのさらに奥には本の山が知らないうちにうずたかく積まれているのだった。


 読者が思っているよりも世界には恋愛がはびこっている。その渦の中に私は入れない。そのつまらなさがあきあきとさせる。女性の美しさも男性の雄大さも私にとっては一粒のラムネよりも価値が低い。それが席巻した世界はだるさを通して気味が悪かった。


 私は無理にでも性としての魅力を感じようとしてみた。人間はだれにも慣れがあって、人間の性格そのものを左右する重要なものだ。しかし私には無理だった。写真集を2時間眺めてみようが、ネットで漁ってみようが成果はあがらなかった。むしろ心の奥にひそんでいる泥に手をつっこむ汚さが心をしぼませてしまった。


 あまりの吐き気にトイレに駆け込んだ後、私は気分転換に外に出た。秋空に空気が澄んでいて、青々とした空に雲が点々と散らばっていて冷たい風がぴゅうと吹いていた。大きな台風が2つ間を置かずに来た時に一緒に秋まで連れてきたみたいだった。今年は街路樹のいちょうも全部風で飛ばされてしまって季節外れに冬の装いだった。残った1枚2枚を軽く摘み取って空に舞い挙げた。突然風が強く吹いて黄色い皮のような葉が道路を渡ってさらにその先まで転がっていった。


 私は珍しく気分がよかった。私がたまたま童顔で若々しい格好をしていたことをいいことに、何食わぬ顔で近くの大学まで入りこんでみた。門のすぐ後ろに守衛室があって、怖い顔をした警備員が座っていたが、ほかのきちんとした学生に紛れて私が入っても特に気に留めることはなく難なく侵入することが出来たのだ。


 極力初めて来たように見えないように前ばかりをみて、グルグルと校舎の中を散策した。エスカレーターに乗って上へ上がり、階段を使って下に下がり、それを何度か繰り返していると広いラウンジを見つけた。窓からいっぱいに取り入れられた光がフローリングと木の柱に反射して淡い黄色の光がぼやっと漏れていた。


 なんとはなしに入ってみると食堂になっていた。適当なランチセットを買った。決してうまくはなく、かといって食べられないほど不味くもなく、大学の食堂とはこんなものだと言わんばかりのものだった。安く、量も多く、贅沢さえ言わなければ満足に値するものだろうと思った。


 若い男女のバカ騒ぎの声が聞こえるのは新鮮だった。あぁ私は酒を浴びてでもここまで騒ぐことはないだろう。けれどもきっと飲酒厳禁の校内で狂ったように大声をまくし立てている。しらずしらずのうちに若さは失われてしまったと改めて気づかされた。それが心に重くのしかかってついに私は自分の罪に目を向けることとなった。私はここにいてはいけない身なのだ。


 私はまだ食べかけの、といっても量が思ったより多すぎて食べきれなかった分が残っただけの食器が乗ったお盆を持って立ち上がった。その時にふとコロンと食事時にふさわしくない音がなった。


 あっと思った。お盆から箸が落ちてしまったのか。反射的に身をかがんで下に手を向けた。前を向いた目線が下に落ちる。しまった。落ちた箸は私のではない。私は不幸な、しかしあとから考えればこれほど幸福なことはないほどの間違いを犯した。


 手がのびたところの横から白くてきゃしゃな手が伸びる。私が箸をつかむすんでのところでその手は箸を取った。その手首には長年私を苦しませていた何かの答えがつまっていると直感的に信じた。私は一瞬を永遠に感じるようにその手首をじっとみた。その手はすぐにひっこんだ。手首がわずかに捻られた。裏の青白い血管までよく見えた。


 私は気もそぞろに顔をあげた。もう女は顔を上げて私のもとを去ろうとしていた。わずかに「すみません」と声が聞こえた気もするが気のせいだったかもしれない。


 私は盆をもったまま遠ざかっていくうなじをぼんやりと見つめたまま頭の中ではあの白い手首がずっと回っていた。そのまわりには「官能」だの「白光」だの「裸の皮膚」だのこれまで散々バカにしてきた欲情がグルグルしていて太陽系のように緊密な、そして精密な関係を保ち続けているのだ。そのさらに奥には別の言葉が回っていて、さらにその先にも単語が繋がっていて.....。とにかくすべての言葉はあの手首を中心に回っているのだった。


「ああ。あれが私にとって言葉そのものだったのだ。私が言葉を使う時、あの手首によって私は操られるのだ」


 その瞬間からもっているお盆が急に重くなるようだった。私の手首は耐えられなくなってギリギリと悲鳴をあげていた。私は大人としてなんとか片付けをすませると、申し訳のないようにコソコソと大学を出た。すれ違う男も女もどこか私の願いとは異なっていた。宇宙の中心にさんさんと輝く手首に私は恋をしたのだから。

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手首 大箸銀葉 @ginnyo_ohashi

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